第7章 第8話:言える子は、泣いてもまっすぐ
その日の放課後、澪は昇降口へ向かう途中で、ひなに呼び止められた。
「朝倉先輩」
いつもの明るい声だった。
けれど、ほんの少しだけ硬かった。
澪は足を止める。
廊下には帰り支度を終えた生徒たちが流れていて、誰かの笑い声や部活へ急ぐ足音が重なっている。その中で、ひなはまっすぐこちらを見ていた。
小柄な身体。
明るい表情。
いつもなら勢いよく距離を詰めてくるのに、今日は一歩ぶんだけ手前で止まっている。
その距離が、澪の胸を小さく刺した。
「……ひな」
「少しだけ、いいですか?」
澪はすぐには返事ができなかった。
凛花と話した。
由良とも話した。
どちらも、朔を好きだったことを、自分の言葉で終わらせようとしていた。
そして今度は、ひなだ。
ひなは、誰よりもまっすぐだった。
好きだと言うことを怖がらない子だった。
言わないまま終わるくらいなら、ちゃんと言うと決められる子だった。
その強さに、澪は何度も背中を押された。
だからこそ、逃げてはいけない。
「うん」
澪は頷いた。
「話そう」
ひなは少しだけ笑った。
いつもの笑顔に似ている。
でも、どこか無理をしているのがわかった。
「ありがとうございます」
二人は校舎を出て、中庭の外れにある小さなベンチへ向かった。
夕方の光が校舎の壁を淡く染め、グラウンドからは運動部の掛け声が遠く聞こえてくる。風が少しだけ強く、ひなの髪を揺らした。
ベンチには座らず、ひなはその前で立ち止まった。
澪も、向かい合うように足を止める。
しばらく、ひなは何も言わなかった。
いつものひななら、最初から勢いよく切り込んでくる。
けれど今日は違う。
言葉を選んでいる。
その時点で、澪の胸はもう痛かった。
「朝倉先輩」
「うん」
「神谷先輩と、付き合うことになったんですよね」
問いではなく、確認だった。
ひなの声は明るかった。
けれど、語尾が少しだけ震えていた。
澪は視線を逸らさなかった。
ここで曖昧にしたら、ひなのまっすぐさに対して失礼だと思った。
「……うん」
静かに答える。
「付き合うことになった」
ひなは一瞬だけ目を閉じた。
「そっか」
短い返事。
そのあと、ひなはすぐに笑おうとした。
「おめでとうございます」
明るい声だった。
でも、その明るさは途中で少しだけ崩れた。
澪は胸を締めつけられる。
「ひな」
「はい」
「無理に、祝わなくていいよ」
そう言った瞬間、ひなの笑顔が止まった。
彼女は数秒、澪を見つめる。
それから、少しだけ唇を噛んだ。
「……無理にじゃないです」
「うん」
「おめでとうって、思ってます」
「うん」
「朝倉先輩、ずっと頑張ってたの知ってますし」
「うん」
「逃げないで、ちゃんと言ったんだってわかりますし」
「うん」
「だから、おめでとうって言いたいです」
そこまで言って、ひなの声がはっきり震えた。
「でも」
ひなは俯く。
明るい髪が、夕方の光を受けて揺れた。
「悔しいです」
その一言は、思っていたよりずっと小さかった。
でも、澪の胸にまっすぐ届いた。
「祝いたいのに、悔しいです」
ひなは笑おうとしていた。
けれど、目元が赤くなっていく。
「神谷先輩のこと、ちゃんと好きでした」
「うん」
「かっこいいなって思って」
「うん」
「優しいなって思って」
「うん」
「朝倉先輩のことを見てる時の顔が、すごく悔しくて」
「……うん」
「でも、それでも好きでした」
澪は何も言えなかった。
ひなの恋は、明るいだけではなかった。
ちゃんと苦しくて、ちゃんと悔しくて、それでもまっすぐ前へ進もうとする恋だった。
「私」
ひなは小さく息を吸った。
「好きって言えてよかったって、前に言いましたよね」
「うん」
「それは今も本当です」
「うん」
「言わないで終わるより、ずっとよかったです」
そこで、ひなの目から涙がこぼれた。
彼女は慌てて袖で拭おうとした。
でも、一度こぼれた涙は止まらない。
「あれ」
ひなは困ったように笑う。
「すみません。泣くつもりじゃなかったんですけど」
「……ひな」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫です」
ひなは首を振る。
「ちゃんと好きだったから、ちゃんと泣くだけです」
その言葉に、澪は喉の奥が熱くなった。
ちゃんと好きだったから、ちゃんと泣く。
ひならしい。
明るくて、まっすぐで、痛みまでごまかさない。
言える子は、泣いてもまっすぐなのだと思った。
「ごめん」
澪は小さく言った。
ひなはすぐに顔を上げる。
「謝らないでください」
「でも」
「だめです」
ひなは涙を拭いながら、はっきり言った。
「朝倉先輩が謝ることじゃないです」
「……」
「好きになったのも、選ばれたのも、悪いことじゃないです」
「うん」
「でも、わたしが悔しいのも本当です」
「うん」
「だから、謝られると困ります」
澪は胸が痛くて、頷くことしかできなかった。
「……うん」
「それに」
ひなは涙で少し濡れた目のまま、無理に笑う。
「わたし、朝倉先輩にちゃんと行けって言いましたし」
「うん」
「好きなら、最後までまっすぐ行ったほうがいいって言いましたし」
「うん」
「だから、先輩がちゃんと行ったなら」
ひなは少しだけ声を震わせながら、それでも言い切った。
「認めます」
澪の目の奥が熱くなる。
「ひな」
「はい」
「ありがとう」
「だから、お礼も変です」
「でも」
「変ですけど」
ひなは少しだけ笑った。
「今回は受け取ります」
その言い方が、いつものひなに少し戻っていて、澪は泣きそうになりながら笑った。
風が吹く。
校舎の壁に夕方の光が揺れる。
遠くのグラウンドから、笛の音が聞こえた。
「神谷先輩」
ひながぽつりと言う。
「ちゃんと朝倉先輩のこと見てました」
「……うん」
「わたし、それが悔しかったです」
「うん」
「でも、朝倉先輩もちゃんと神谷先輩のこと見てました」
「うん」
「だから」
ひなは涙を拭って、まっすぐ澪を見る。
「ちゃんと幸せになってください」
その言葉は、祝福というより命令に近かった。
「幸せにならなかったら」
ひなは続ける。
「怒ります」
「……うん」
「本気で怒ります」
「うん」
「わたし、負けたのに、朝倉先輩が中途半端にしたら許せないです」
澪は胸に手を当てる。
「ちゃんとする」
「ほんとですか」
「うん」
「神谷先輩のこと、大事にしますか」
「する」
「自分のことも、大事にしますか」
その問いに、澪は一瞬だけ止まった。
由良にも同じようなことを言われた。
自分を責めすぎないで、と。
幸せになることも向き合い方の一つだと。
ひなは少しだけ目を細める。
「朝倉先輩、自分を後回しにしそうなので」
「……そんなこと」
「します」
即答だった。
「なので、自分のことも大事にしてください」
「……うん」
「それ込みで、幸せになってください」
澪はゆっくり頷いた。
「わかった」
「約束です」
「うん」
「約束」
ひなは少しだけ満足そうに頷いた。
けれど、その顔はまだ泣きそうだった。
「ひな」
「はい」
「私、ひなにたくさん背中を押された」
「そうですか?」
「うん」
「じゃあ、わたしのおかげでもありますね」
ひなは涙目のまま、少しだけ得意げに笑った。
「うん」
澪は笑う。
「ひなのおかげでもある」
「なら、ちゃんと幸せにならないとだめです」
「うん」
「わたし、見るので」
「見るの?」
「見ます」
「厳しい」
「負けた側には、それくらい言う権利があります」
その言い方がひならしくて、澪はまた少し笑えた。
笑って、胸が痛くなる。
ひなは涙を拭いながら、少しだけ深呼吸した。
「朝倉先輩」
「何」
「わたし、まだ神谷先輩のこと、すぐには普通に見れないと思います」
「うん」
「かっこいいなって、たぶんしばらく思います」
「うん」
「でも、それでいいですよね」
澪は頷いた。
「いいと思う」
「ですよね」
「好きだった気持ちが、すぐ消えなくても」
「はい」
「それでいいと思う」
ひなは目を伏せた。
「じゃあ、しばらくは悔しいままにします」
「うん」
「でも、ちゃんと少しずつ終わらせます」
「うん」
「それで、いつか普通に笑います」
その言葉に、澪の胸がきゅっとなる。
「待ってる」
「はい」
「でも、無理しなくていい」
「無理はします」
「え」
「だって、無理しないと進めない時もあります」
ひなはそう言って、また少し笑った。
「でも、壊れるような無理はしません」
「……うん」
「なので大丈夫です」
大丈夫。
その言葉はまだ少し危うかった。
でも、ひな自身が前へ進もうとしているのは確かだった。
「朝倉先輩」
「うん」
「神谷先輩と付き合ったこと」
「うん」
「いつかちゃんと、みんなに言うんですよね」
「うん」
「隠すんじゃなくて」
「うん」
「じゃあ、わたしもちゃんと聞いた側になります」
ひなは胸を張る。
「最初は泣きましたけど、ちゃんと聞きましたって」
「うん」
「だから、逃げないでくださいね」
「逃げない」
澪ははっきり言った。
ひなはその返事を聞いて、少しだけ安心したように笑った。
「なら、いいです」
沈黙が落ちる。
夕方の空気が少し冷たくなってきた。
ひなは涙を拭い終えると、いつものように鞄を肩にかけ直した。
「じゃあ、わたし帰ります」
「送ろうか?」
「大丈夫です」
「でも」
「大丈夫です」
ひなはもう一度、今度は少しだけ強く言った。
「今日は、自分で帰ります」
その言葉に、澪は頷いた。
「うん」
「朝倉先輩」
「何?」
「おめでとうございます」
今度の声は、さっきより少しだけ自然だった。
涙のあとが残る顔で、それでもまっすぐに。
「ありがとうございます」
澪は深く頭を下げるような気持ちで答えた。
ひなは少しだけ笑って、手を振った。
それから背を向け、校門のほうへ歩いていく。
途中で一度だけ、肩が小さく震えた気がした。
でもひなは振り返らなかった。
澪はその背中を、見えなくなるまで見送った。
胸の中に、痛みとあたたかさが残っていた。
凛花の悔しさ。
由良のやさしさ。
ひなの涙。
それぞれ違う形で、朔を好きだった。
それぞれ違う形で、澪と向き合ってくれた。
その全部を、軽く扱ってはいけない。
校門の近くで、朔が待っていた。
澪に気づくと、少しだけ心配そうに近づいてくる。
「澪」
「うん」
「ひなと?」
「話した」
「……そっか」
朔は静かに頷いた。
「泣かせちゃった」
澪が小さく言うと、朔は目を伏せる。
「うん」
「でも、謝らないでって言われた」
「うん」
「ちゃんと好きだったから、ちゃんと泣くって」
朔はしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐く。
「そっか」
「うん」
「ちゃんと、向き合わないとな」
「うん」
「俺も」
その声には、静かな重さがあった。
二人は並んで歩き出した。
今日も手は繋がなかった。
繋ぎたくないわけではない。
でも、今はこの重さを、それぞれの手でちゃんと持って帰るべきだと思った。
朔も何も言わず、隣を歩いてくれた。
夕方の道に、二人分の影が伸びる。
その影は近い。
でも、今日の距離は静かだった。
家に帰って自室へ入ると、澪は鞄を置いて、ベッドに腰を下ろした。
ひなの涙が、まだ目に焼きついている。
祝いたいのに、悔しいです。
ちゃんと好きだったから、ちゃんと泣きます。
幸せにならなかったら怒りますから。
澪は胸の前で手を握る。
「……ちゃんと、幸せになる」
小さく言った。
それは浮かれるための言葉ではなかった。
凛花にも、由良にも、ひなにも、そして朔にも、自分にも向けた約束だった。
言える子は、泣いてもまっすぐだった。
その涙を、澪は忘れたくないと思った。




