第7章 第7話:やさしい恋の終わらせ方
翌日の放課後、澪は由良に呼び止められた。
教室のざわめきが少しずつ薄れていく時間だった。
部活へ向かう生徒たちの声が廊下へ流れ、窓の外では夕方の光が校庭を淡く染めている。机の上に残った消しゴムのかすや、椅子を引く音まで、いつもより静かに聞こえた。
「朝倉さん」
由良の声は、いつも通りやわらかかった。
けれど、その奥に少しだけ違う重さがあることを、澪はすぐに感じ取った。
「……うん」
返事をすると、由良は小さく微笑んだ。
「少しだけ、話せる?」
その問いに、澪は息を止めそうになる。
昨日、凛花と話した。
悔しい、と言われた。
ちゃんと負ける、と言われた。
その言葉は、今も胸に残っている。
そして今日は、由良だ。
由良も、朔を好きだった。
大きく叫ぶような恋ではなかった。
けれど、静かにそばにいて、やさしい時間を少しずつ積み重ねていた。
気づいた時には深いところにいるような、そういう恋だった。
だからこそ、澪は逃げてはいけないと思った。
「うん」
澪は頷いた。
「話せる」
由良は「ありがとう」とだけ言って、教室の外へ歩き出した。
向かったのは、校舎裏の小さな花壇のある場所だった。
昼休みには何人かが通るけれど、放課後のこの時間は人が少ない。古いベンチが一つあり、花壇には白い小花が控えめに咲いている。
風が吹くと、葉がかすかに揺れた。
由良はベンチには座らず、花壇の前で立ち止まった。
澪も少し離れて立つ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
沈黙は重い。
でも、凛花との沈黙とは種類が違う。
凛花の沈黙がまっすぐに向かってくるものなら、由良の沈黙は静かに包むようで、そのぶん胸の奥へ深く入ってくる。
「神谷くんと」
由良が先に口を開いた。
「付き合うことになったんだよね」
問いかけというより、確認だった。
澪は目を伏せる。
でも、逃げずに答える。
「……うん」
「そっか」
由良は小さく頷いた。
驚いた様子はなかった。
やっぱり、察していたのだと思う。
「おめでとう」
由良は言った。
あまりにも静かな祝福だった。
やさしくて、でも少しだけ痛かった。
澪はすぐに言葉を返せなかった。
お礼を言うのが正しいのか、謝るのは違うのか、そのどちらもわからない。
「……ありがとう」
結局、そう言った。
それしか言えなかった。
由良は少しだけ微笑む。
「うん」
風が花壇の葉を揺らす。
夕方の光が、由良の横顔を淡く照らしていた。
「本当はね」
由良は静かに言う。
「たぶん、けっこう前からわかってた」
「……何を」
「神谷くんが、朝倉さんのほうを見てること」
澪の胸が小さく痛む。
「そんなに?」
「うん」
「……そっか」
「でも、わかってても、すぐには諦められないよね」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
わかっていても、諦められない。
それは由良の本音だった。
「私」
由良は花壇の花を見つめながら続ける。
「神谷くんと話す時間、好きだった」
「……うん」
「すごく特別なことをしたわけじゃないよ」
「うん」
「資料を渡したり、作業を一緒に確認したり、少しだけ頼ったり、頼られたり」
由良の声は穏やかだった。
でも、その穏やかさがかえって痛い。
「そういう何でもない時間が」
由良は言う。
「私は好きだった」
澪は黙って聞いていた。
由良の恋は、きっとそういうものだったのだ。
大きな告白や強い宣言ではなく、日常の中にそっと居場所を作っていく恋。
だからこそ、失った時に静かに深く痛む。
「白瀬さん」
澪は小さく呼ぶ。
「うん」
「私、白瀬さんのそういうところ、怖かった」
由良は少しだけ目を瞬かせた。
それから、困ったように笑う。
「前も言ってたね」
「うん」
「静かだから怖いって」
「うん」
「気づいた時には、深いところにいそうって」
「言った」
澪は指先を握る。
「本当にそう思ってた」
由良は静かに聞いている。
その目に怒りはなかった。
ただ、ちゃんと受け止めている目だった。
「白瀬さんのやさしさは」
澪は続ける。
「ちゃんと残るから」
「……うん」
「だから、怖かった」
由良は少しだけ視線を落とす。
「やさしい時間は」
彼女は言った。
「終わっても残るんだと思う」
その声は、少しだけ震えていた。
澪は胸が締めつけられる。
「たぶん」
由良は続ける。
「好きだった時間も、残る」
「うん」
「叶わなかったからって、なくなるわけじゃない」
「うん」
「だから、私はそれを悪いものにはしない」
その言葉に、澪は何も返せなかった。
由良は、自分の恋を静かに終わらせようとしている。
泣き叫ぶでもなく、誰かを責めるでもなく。
好きだった時間を、ちゃんと大切なものとして抱えたまま、終わらせようとしている。
それがやさしくて、強くて、痛かった。
「私ね」
由良は少しだけ笑った。
「神谷くんに、直接好きって言うかどうか、ずっと考えてた」
「……うん」
「でも、今は言わないと思う」
澪は顔を上げる。
「言わないの?」
「うん」
「どうして」
「言ったら、神谷くんはきっとちゃんと受け止めてくれる」
「うん」
「でも、それで神谷くんを困らせたいわけじゃない」
由良は静かに続ける。
「私の恋は、私の中でちゃんと終わらせる」
それは由良らしい答えだった。
相手を責めない。
自分の感情を乱暴にぶつけない。
でも、なかったことにもしない。
澪は喉の奥が熱くなる。
「白瀬さんは」
澪は小さく言った。
「最後までやさしいね」
由良は少しだけ首を振る。
「やさしいだけじゃないよ」
「え?」
「悔しいよ」
その声に、初めてはっきりと痛みが混じった。
「悔しいし、寂しい」
「……うん」
「朝倉さんが羨ましい」
「うん」
「どうして私じゃなかったんだろうって、思わないわけじゃない」
澪は唇を噛んだ。
由良の本音は、静かだった。
でも確かにそこにあった。
「でも」
由良は顔を上げる。
「神谷くんが朝倉さんを見てる時の顔を、何度も見たから」
「……」
「朝倉さんも、逃げずにちゃんと前に出たから」
「……」
「それなら、私はちゃんと認めるしかないなって思った」
澪の胸がじんと痛む。
認める。
それは簡単な言葉ではない。
由良にとっては、自分の恋が届かなかったことを受け入れるということだから。
「ごめん」
澪は思わず言った。
由良は少しだけ困ったように笑った。
「謝らないで」
「昨日、凛花さんにも言われた」
「うん」
「でも、言っちゃう」
「言いたくなる気持ちはわかるよ」
由良の声はやさしい。
「でも、朝倉さんが謝ることじゃない」
「……うん」
「神谷くんを好きになったことも、選ばれたことも、悪いことじゃない」
澪は目を伏せた。
その言葉が、ありがたくて、苦しい。
「ただ」
由良は続ける。
「大事にしてね」
「うん」
「神谷くんのことも」
「うん」
「朝倉さん自身のことも」
意外な言葉に、澪は顔を上げた。
「私自身?」
「うん」
由良は静かに頷く。
「朝倉さん、たぶん自分を責める癖があるから」
「……」
「幸せになったのに、誰かを傷つけたことばかり見て、苦しくなりすぎないで」
その言葉が、胸の奥に深く入ってきた。
由良は本当に見ている。
澪が今、嬉しさと痛みの間で揺れていることを。
選ばれたことを喜びながら、凛花や由良やひなの痛みを受け取ろうとして、少し息苦しくなっていることを。
「でも」
澪は言いかける。
「でも、ちゃんと受け止めたい」
「うん」
「みんなが本気だったことを、軽くしたくない」
「それは大事」
由良はやわらかく頷く。
「でも、全部を罪悪感にしなくていい」
澪は息を止めた。
「好きだった人を選んでもらえたなら」
由良は言う。
「ちゃんと幸せになることも、向き合い方の一つだと思う」
涙が出そうになった。
由良は失恋している。
その由良に、そんなことを言わせている。
それが苦しい。
でも、その言葉は確かに澪を救ってくれた。
「……ありがとう」
澪はやっと言った。
「何回言っても足りないけど」
「うん」
由良は小さく笑う。
「受け取る」
夕方の風が吹いた。
花壇の白い花が、細く揺れる。
その姿が、由良の恋みたいだと思った。
大きく目立つわけではない。
でも、静かにそこにあって、ちゃんと残る。
「朝倉さん」
由良が言う。
「私は、少し時間がほしい」
「うん」
「明日からすぐ普通に、とはいかないかもしれない」
「うん」
「でも、避け続けたいわけじゃない」
「うん」
「ちゃんと、落ち着いたらまた普通に話したい」
澪は頷いた。
「待ってる」
そう言ってから、少しだけ苦笑する。
「変かな」
「変じゃないよ」
由良は微笑んだ。
「ありがとう」
沈黙が落ちる。
さっきより、少しだけ軽い沈黙だった。
「私」
澪は小さく言った。
「白瀬さんと話せてよかった」
「うん」
「怖かったけど」
「怖かった?」
「うん」
「私、怖い?」
「怖いというか」
澪は少しだけ言葉を探す。
「やさしいから、痛い」
由良は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「それは、ちょっと複雑」
「ごめん」
「謝らない」
「……うん」
澪も少しだけ笑えた。
その笑いは、完全に明るいものではなかった。
でも、互いに少しだけ前を向くための笑いだった。
「じゃあ」
由良が言う。
「そろそろ戻ろうかな」
「うん」
「朝倉さん」
「何?」
「神谷くんといる時、最近すごくわかりやすいよ」
澪の顔が一気に熱くなる。
「……それ、今言う?」
「うん」
「どうして」
「少しだけ、意地悪したくなった」
由良がそんなことを言うのは珍しくて、澪は思わず目を瞬かせた。
由良はやわらかく笑う。
「私も、やさしいだけじゃないから」
「……うん」
「知ってる」
二人は少しだけ笑った。
校舎の中へ戻る途中、由良の歩幅はいつも通り穏やかだった。
けれど澪には、その背中が少しだけ遠く、でもまっすぐに見えた。
昇降口の近くで、由良は軽く会釈して別れた。
「また明日」
「うん」
「また明日」
由良が去っていくのを見送ってから、澪はしばらくその場に立っていた。
胸の奥には、静かな痛みが残っている。
でも、その痛みは少しだけあたたかかった。
好きだった時間は、終わっても残る。
だから、それを悪いものにはしない。
由良の言葉が、何度も胸の中で響いた。
校門の外へ出ると、朔が少し離れたところで待っていた。
こちらに気づいて、近づいてくる。
「澪」
「うん」
「白瀬さんと?」
「話した」
「……そっか」
朔はそれ以上、すぐには聞かなかった。
ただ、澪の顔を見て、少しだけ声をやわらげる。
「大丈夫?」
「うん」
「でも、痛かった」
「うん」
「やさしいから、余計に」
朔は目を伏せた。
「白瀬さんらしいな」
「うん」
「俺も、ちゃんと考える」
「うん」
「向けられてた気持ちを、軽くしない」
その言葉に、澪は頷いた。
二人は並んで歩き出す。
今日は手を繋がなかった。
凛花と話した昨日と同じように、由良の言葉をちゃんと胸に持って帰りたかった。
朔も、それを察しているように、何も言わずに隣を歩いた。
夕方の道に、二人の影が並ぶ。
近いけれど、静かな距離だった。
家に帰って自室へ入ると、澪は机の前に座った。
フルダイブ装置が視界に入る。
ノアとしての時間。
澪としての恋。
そして、そこに関わってきた人たちの想い。
全部を大事にするのは、簡単ではない。
でも、簡単ではないからこそ、雑にしたくなかった。
「……悪いものにはしない」
小さく呟く。
由良が好きだった時間も。
凛花が悔しいと言った気持ちも。
自分が選ばれたことも。
朔と始めた恋も。
どれも、なかったことにしない。
やさしい恋の終わらせ方を見せてくれた由良の言葉を、澪は胸の奥へそっとしまった。




