第7章 第6話:好きだった人に、ちゃんと負ける
翌日の放課後、澪は教室を出る前から、凛花の視線に気づいていた。
六限が終わったあとの教室は、いつも通りざわめいている。
部活へ向かう生徒、寄り道の相談をする生徒、端末を見ながら笑っている生徒。
その全部が何でもない日常の音として流れているのに、澪の耳には少し遠かった。
凛花が、こちらを見ている。
真正面からではない。
でも、偶然ではない視線。
昨日までと同じように、何かを察したうえで、ちゃんと確かめようとしている目だった。
胸の奥が、静かに重くなる。
朔と付き合うことになった。
それは澪にとって、ずっと欲しかった答えだった。
隠れたままの恋が終わって、同じ名前で始められたことは、どうしようもなく嬉しい。
でも、その嬉しさの隣には、別の痛みがある。
凛花も、朔を好きだった。
まっすぐに、強く、譲らないと宣言して。
好きだった人を最後まで取りに行くと言っていた。
その人へ、自分はちゃんと向き合わなければいけない。
「朝倉さん」
教室のざわめきの中で、凛花の声は静かに通った。
澪は鞄を持つ手に少しだけ力を込める。
それから顔を上げた。
「……うん」
「少し、時間ある?」
わかっていた。
この問いが来ることは、たぶん昨日から。
澪は小さく頷いた。
「ある」
少し離れた席で、夏希がこちらを見る。
心配そうな目。
でも、何も言わない。
行ってこい、と背中を押すような沈黙だった。
朔はまだ教室の前方で、誰かに話しかけられていた。
こちらの空気に気づいたのか、一瞬だけ澪を見る。
澪は小さく頷いた。
大丈夫。
ちゃんと話す。
そう伝わったかどうかはわからない。
でも朔は、何か言いかけて、結局口を閉じた。
凛花と並んで教室を出る。
廊下は放課後の足音で満ちていた。
けれど、二人の間にはほとんど会話がない。
凛花が向かったのは、屋上前の階段だった。
以前、彼女が朔に想いを伝えた場所に近い。
夕方の光が階段の踊り場に斜めに差し込み、窓の外では空が少しずつ橙色へ変わっていた。
人通りは少ない。
声を潜めなくても、誰かに聞かれる心配はなさそうだった。
凛花は踊り場で立ち止まる。
澪も、少し距離を置いて向き合った。
しばらく、沈黙があった。
先に口を開いたのは、凛花だった。
「神谷くんと、付き合うことになった?」
遠回しではなかった。
その真っ直ぐさに、澪は胸を締めつけられる。
でも、ここで曖昧にするのは違う。
凛花は、そういう相手ではない。
「……うん」
澪は頷いた。
「付き合うことになった」
言葉にした瞬間、胸の奥に喜びと痛みが同時に広がった。
凛花は目を伏せた。
驚いた顔ではなかった。
たぶん、もうわかっていたのだ。
それでも、本人の口から聞く必要があったのだと思う。
「そっか」
凛花は静かに言う。
「やっぱり」
「……うん」
「いつ?」
「一昨日、好きって言って」
声が少し震える。
「昨日、ちゃんと始めようって話した」
凛花は小さく息を吐いた。
その息に、悔しさが混じっていた。
「悔しい」
凛花は言った。
はっきりと。
ごまかさずに。
澪は何も言えなかった。
「ちゃんと悔しい」
凛花は続ける。
「わかってたつもりだったけど、本人の口から聞くと、やっぱり違う」
夕方の光が、凛花の横顔を照らしている。
その表情は崩れていない。
けれど、澪にはわかった。
凛花は今、ちゃんと傷ついている。
「ごめん」
澪は小さく言った。
言うべきではないのかもしれない。
でも、それ以外の言葉がすぐに出なかった。
凛花は少しだけ眉を寄せる。
「謝らないで」
「……」
「朝倉さんが悪いことしたわけじゃない」
「でも」
「でも、も要らない」
凛花はまっすぐ澪を見る。
「恋で勝った人が、負けた人に謝るのは違う」
その言葉が、胸に深く刺さる。
恋で勝った。
負けた。
そんなふうに言い切られると、逃げ場がなくなる。
自分は朔に選ばれた。
それは嬉しいことだけれど、同時に誰かの望みが届かなかったということでもある。
凛花は、その事実を澪よりずっと真っ直ぐに見ている。
「私」
澪はゆっくり口を開く。
「凛花さんに、ちゃんと言わなきゃって思ってた」
「うん」
「隠したくなかった」
「うん」
「でも、どう言えばいいのかわからなかった」
凛花は静かに聞いている。
責めるでもなく、許すでもなく。
「嬉しいのに」
澪は続ける。
「凛花さんのことを思うと、痛くて」
「それは」
凛花が言う。
「朝倉さんがちゃんと私をライバルとして見てくれてたからでしょ」
澪は息を止めた。
「……うん」
「なら、いい」
「いいの?」
「よくはない」
凛花は即答した。
「悔しいし、痛いし、正直、今すぐおめでとうって笑えるほどできた人間じゃない」
その正直さが、凛花らしかった。
「でも」
彼女は続ける。
「朝倉さんが逃げなかったなら、私はちゃんと負ける」
澪の胸が強く揺れた。
ちゃんと負ける。
その言葉は、勝つことよりずっと強いものに聞こえた。
「……凛花さん」
「私、前に言ったよね」
「うん」
「好きって決めた相手を、最後までちゃんと取りに行くって」
「言った」
「その通りにした」
凛花は目を逸らさない。
「だから、負けたこともちゃんと受け止める」
澪は何も返せなかった。
強い。
やっぱり、この人は強い。
その強さは、勝つためだけのものではなかった。
負けた時に、自分の恋をなかったことにしない強さでもあった。
「神谷くんに」
凛花は少しだけ視線を窓の外へ向ける。
「ちゃんと好きだった」
「うん」
「かっこいいところも、面倒くさいところも、優しすぎてずるいところも」
「……うん」
「全部、ちゃんと好きだった」
その声は少しだけ揺れていた。
でも、涙はなかった。
「だから」
凛花は澪を見る。
「好きだったことは後悔しない」
澪の喉が熱くなる。
「うん」
「負けたのは悔しい」
「うん」
「でも、好きだったことまで間違いにはしない」
その言葉は、凛花自身を守るためのものでもあるのだと思った。
そして同時に、澪へ向けた宣言でもあった。
私は負けた。
でも、私の恋は軽くない。
そう言っている。
「私」
澪は指先を握りしめた。
「凛花さんのこと、怖かった」
凛花が少しだけ目を瞬かせる。
「知ってる」
「知ってたの?」
「見ればわかる」
「……そっか」
「でも、朝倉さんも途中から変わった」
「変わった?」
「逃げてる顔じゃなくなった」
以前にも言われた言葉だった。
今聞くと、前より深く胸へ落ちる。
「凛花さんが」
澪は静かに言う。
「まっすぐだったからだと思う」
「私?」
「うん」
「凛花さんが譲らないって言ってくれたから、私も引いちゃだめだって思った」
凛花は少しだけ黙った。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「負けた相手に褒められるの、複雑」
「……ごめん」
「謝らないで」
「また言っちゃった」
澪が小さく苦笑すると、凛花もほんの少しだけ口元を緩めた。
空気が、わずかにやわらぐ。
でも、そのやわらかさの奥にある痛みは消えない。
それでいいのだと思った。
消えるには、まだ早すぎる。
「朝倉さん」
凛花が改めて言う。
「神谷くんのこと、ちゃんと大事にして」
澪は顔を上げた。
「うん」
「軽く扱ったら怒る」
「うん」
「中途半端にしたら、たぶん本気で怒る」
「うん」
「私、負けたけど」
凛花の目がまっすぐ澪を射抜く。
「神谷くんを好きだったことは、本気だったから」
その言葉に、澪は深く頷いた。
「わかってる」
「本当に?」
「うん」
「ならいい」
凛花は少しだけ息を吐いた。
「私も」
澪は言った。
「ちゃんと大事にする」
「うん」
「嬉しいだけじゃだめだって、思ってる」
「……」
「凛花さんも、白瀬さんも、ひなも、ちゃんと好きだったから」
言葉にするほど、胸が重くなる。
でも、これは必要な重さだ。
「だから、私もちゃんと向き合う」
凛花はしばらく澪を見ていた。
それから、小さく頷く。
「なら、いい」
それは許しではない。
でも、認めてもらえたような気がした。
踊り場に、静かな沈黙が落ちた。
窓の外の空は、少しずつ夕方から夜へ傾いていく。
階段の下から、誰かの足音が一瞬聞こえて、すぐ遠ざかった。
「朝倉さん」
「何」
「今はまだ、普通には話せないかもしれない」
「……うん」
「悔しいから」
「うん」
「でも、避け続けるつもりはない」
凛花ははっきり言った。
「私は、そんな負け方したくない」
その言い方に、澪は少しだけ目を見開いた。
やっぱり凛花は、最後まで凛花なのだと思った。
負けても、背筋を曲げない。
痛みを抱えたまま、自分の立ち方を選ぶ。
「凛花さんらしい」
澪が言うと、凛花は少しだけ眉を上げた。
「それ、どういう意味」
「かっこいいって意味」
「……そう」
凛花は少しだけ目を逸らした。
ほんのわずかに照れているようにも見えた。
「私」
凛花は小さく息を吐く。
「まだ朝倉さんを心から祝えるほど、整理できてない」
「うん」
「でも」
目が合う。
「逃げなかったことは、認める」
その言葉に、澪の胸が熱くなる。
「ありがとう」
「だから、お礼じゃない」
「でも」
「言いたいなら、受け取る」
そう言って、凛花は少しだけ笑った。
その笑みは、痛みを含んでいた。
でも、確かに前を向こうとしている笑みだった。
二人は階段を下り、廊下へ戻った。
教室の近くまで来ると、凛花が足を止める。
「神谷くんには、私から何か言うかはまだ決めてない」
「うん」
「でも、朝倉さんが変に気を回さなくていい」
「……わかった」
「そこは私の問題だから」
凛花はそう言い切った。
澪は頷く。
その強さを、尊重したいと思った。
「じゃあ」
凛花が言う。
「また明日」
「……うん」
「また明日」
凛花は先に歩いていった。
その背中はいつも通りまっすぐで、でもほんの少しだけ遠く見えた。
澪はその場に立ったまま、ゆっくり息を吐く。
苦しかった。
でも、逃げなくてよかった。
教室へ戻ると、夏希がすぐにこちらを見た。
何か聞きたそうだったが、澪の顔を見て、すぐには口を開かなかった。
代わりに、前方にいた朔が近づいてくる。
「澪」
「うん」
「大丈夫?」
その声に、胸が少しだけほどける。
「大丈夫」
澪は答えた。
「でも、ちゃんと痛かった」
朔は少しだけ目を伏せる。
「そっか」
「うん」
「篠宮さんは?」
「ちゃんと悔しいって言ってた」
「……うん」
「でも、ちゃんと負けるって」
朔は言葉を失ったように黙った。
それから、深く息を吐く。
「そっか」
「うん」
「ちゃんと、向き合わないとな」
「うん」
「俺も」
その言葉に、澪は頷いた。
選ばれた側の責任。
その重さを、少しだけ実感した気がした。
帰り道、澪は朔と並んで歩いた。
今日は手を繋がなかった。
繋ぎたくなかったわけではない。
ただ、凛花の言葉がまだ胸に残っていて、その重さを少しだけちゃんと持って帰りたかった。
朔も何も言わなかった。
ただ隣を歩いてくれた。
それが今はありがたかった。
家に帰り、自室のドアを閉めると、澪は鞄を置いてから、そっと胸に手を当てた。
悔しい。
ちゃんと悔しい。
でも、朝倉さんが逃げなかったなら、私はちゃんと負ける。
凛花の声が、まだ耳に残っている。
「……ちゃんと、大事にする」
小さく呟く。
朔のことも。
自分の恋も。
凛花が本気で好きだった時間も。
嬉しいだけでは、きっと足りない。
それでもこの恋を選んだ以上、ちゃんと向き合っていかなければいけない。
好きだった人に、ちゃんと負ける。
その強さを見せてくれた凛花に、澪は心の中で深く頭を下げた。




