第7章 第5話:アステリオでも隠せない
ピピの声は、近づいてくる前からもう賑やかだった。
『ノアさーん! アークさーん! どこですかー!』
『声が大きい』
フレアの冷静な声がすぐに重なる。
『だって、水鏡庭って広いじゃないですか!』
『広いけれど、通話は繋がっているでしょう』
セレスのやわらかい声まで聞こえてきて、ノアは思わず小さく笑いそうになった。
いつもの三人だ。
でも、今のノアには、その“いつもの”が少しだけ怖かった。
水鏡庭の薄紫の空。
浅い水面。
さっきまでアークと手を繋いでいた場所。
その余韻が、まだ指先に残っている。
現実で恋人になったあと、ノアとしてアークと会った。
ぎこちなくて、照れくさくて、変だった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
その嬉しさが、今の自分の表情に出ていない自信がまったくない。
『ノア』
隣でアークが小さく個別回線に切り替える。
『大丈夫?』
「……大丈夫じゃないかも」
『俺も』
「アークも?」
『たぶん顔に出てる』
「アバターなのに?」
『出てる気がする』
その言い方が妙に真剣で、ノアはまた笑いそうになる。
だめだ。
笑うと余計に怪しい。
遠くの飛び石の向こうから、三人の姿が見えてきた。
先頭を跳ねるように進んでくる小柄なアバターがピピ。
その少し後ろを、涼しい顔で歩いてくる赤系装備のフレア。
最後に、白と淡い青を基調にしたセレスが穏やかに続いている。
『いました!』
ピピが大きく手を振る。
『二人とも、ほんとに奥にいたんですね!』
『水鏡庭で二人きりとは、珍しいわね』
フレアがこちらを見ながら言う。
『珍しいというか』
セレスが小さく微笑む。
『少し、静かに話していたのかなと思いました』
その一言に、ノアの肩が小さく跳ねた。
セレスは鋭い。
やわらかく、穏やかに、でも確実に核心の近くへ触れてくる。
『いや、別に』
アークが返す。
少し早い。
そして少し硬い。
ピピがすぐに目を輝かせた。
『今の返し、怪しいです!』
『怪しくない』
『怪しい人はみんなそう言います!』
『それは偏見だろ』
『でも今のアークさん、ちょっと変でした!』
ピピはくるくるとノアとアークの周りを見比べる。
『ノアさんも静かですし!』
「私はいつも静か」
『いつもの静かと違います!』
「違わない」
『違います! 何か、こう、ふわっとしてます!』
「ふわっと」
『はい! 甘い感じのふわっとです!』
ノアは思わず言葉を失った。
アステリオでも言われるのか。
甘い、と。
現実ではひなに言われた。
今度はピピに言われている。
場所が違っても、同じようなことを言われる自分たちは、もしかすると本当に隠すのが下手なのかもしれない。
フレアが腕を組む。
『確かに』
「フレアまで」
『隠すの下手になったわね』
『なった、ということは前は上手だったんですか?』
ピピが首を傾げる。
『前は、少なくとももう少し不自然ではなかった』
『つまり今は不自然!』
『そう言っている』
『やっぱり!』
ピピが勝ち誇ったように胸を張る。
ノアは水面を見た。
映る自分のアバターはいつも通りのはずなのに、今はなぜか頬が熱い気がする。
『何かありました?』
ピピは遠慮なく聞いてくる。
『ありましたよね? ありますよね?』
『ピピさん』
セレスが穏やかにたしなめる。
『無理に聞くことではありませんよ』
『でも気になります!』
『気になるのはわかりますけれど』
セレスはノアへ視線を向けた。
その目はやさしい。
問い詰めるものではなかった。
『大事なことがあったんですね』
静かな声だった。
ノアはすぐには答えられなかった。
何と言えばいいのかわからない。
アークと付き合うことになった。
でも、それは現実の澪と朔としての話でもある。
ノアとアークとしても、たしかに関係は変わった。
けれど、ここでどこまで言うべきなのか、まだ二人で決められていない。
ノアが迷っていると、アークが一歩だけ前に出た。
『大事なことは、あった』
その声は、落ち着いていた。
でも少しだけ照れが混じっている。
ノアは思わずアークを見た。
ピピが目を輝かせる。
『やっぱり!』
『ただ』
アークが続ける。
『今、全部話せるかはまだ決めてない』
『えー!』
『ピピ』
フレアが短く呼ぶと、ピピは口を尖らせながらも引いた。
『……わかりました』
『いい子ですね』
セレスが微笑む。
『むう。いい子扱いでごまかされました』
『でも、本当にそういうことなら』
セレスはノアとアークを見た。
『無理に言わなくて大丈夫です』
その言葉に、ノアの胸が少しだけ軽くなった。
セレスはいつもそうだ。
距離を間違えない。
踏み込むべきところと、待つべきところをちゃんと知っている。
「……ありがとう」
ノアが言うと、セレスは穏やかに頷いた。
『ただ』
フレアが口を開く。
『言わないなら、もう少し隠し方を考えたほうがいい』
「……そんなに?」
『そんなに』
即答だった。
『連携前の立ち位置、近すぎ』
『えっ、そうなんですか!?』
ピピがまた食いつく。
『今も、アークがノア側に半歩寄ってる』
『えっ、ほんとだ!』
『あと、ノアがアークのほうを見すぎ』
「見てない」
『見てる』
『見てます!』
ピピまで全力で頷く。
ノアは返す言葉を失った。
アークも少しだけ顔を逸らす。
『……そんな見てたか』
アークが小さく言う。
『アークも見ている』
フレアが冷静に刺す。
『正確には、ノアが何か言う前に表情を見ている』
『すごい観察力ですね、フレアさん』
『見ればわかる』
『いや、見てもわからない人はわからないと思います』
ピピが感心したように言う。
ノアは恥ずかしさで水面に沈みたくなった。
でも、その一方で、少しだけ嬉しかった。
アークが自分の表情を見てくれている。
近くに寄ってくれている。
それが周囲にわかるくらい、二人の距離は変わっている。
隠せていない。
でも、それは悪いことだけではないのかもしれない。
『じゃあ、今日はどうします?』
セレスが話題を変えるように言った。
『軽く周回しますか?』
『行きたいです!』
ピピがすぐに手を挙げる。
『水鏡庭の奥の《反照回廊》、まだ行ってないです!』
『敵は弱いけれど、視界反転ギミックがある場所ね』
フレアが言う。
『面倒だけど、練習にはなる』
『行きましょう! ノアさんとアークさんの怪しい距離も観察できます!』
『観察目的にするな』
アークが少し低い声で返す。
『わー、怒った!』
『怒ってない』
『怒ってる時の声です!』
ピピが笑う。
いつものやり取り。
それだけで、ノアは少しだけ肩の力が抜けた。
五人で移動を開始する。
水鏡庭の奥にある反照回廊は、透明な水壁に囲まれた細い通路だった。
壁には周囲の景色が反転して映り込み、敵の位置も味方の影も複雑に重なって見える。
慣れないと、自分がどちらを向いているのか一瞬わからなくなる場所だ。
『うわ、酔いそうです!』
ピピが早速騒ぐ。
『視界補正を少し落とすと楽ですよ』
セレスが言う。
『設定どこですか!?』
『右上の補助メニュー』
『右上がどっちかわからないです!』
『それは重症ね』
フレアが淡々と突っ込む。
ノアは思わず笑った。
その横でアークも小さく笑う。
目が合う。
また、ほんの一瞬だけ二人の空気が変わった。
『はい! 今!』
ピピがすかさず指差す。
『今、何かありました!』
「何もない」
『あります! 目が合って笑いました!』
『それは普通では?』
セレスがやわらかく言う。
『普通より甘かったです!』
『甘い判定が雑』
フレアが言う。
『雑じゃないです、直感です!』
『直感はだいたい雑』
『ひどい!』
ノアはもう否定する気力が少し薄れてきた。
アークも、どこか諦めたように息を吐く。
『集中するぞ』
アークが言う。
『敵来る』
その声で、場の空気が切り替わる。
水壁の向こうから、反射する影のようなモンスターが複数現れた。
実体と鏡像が混じっていて、本体を見極めないと攻撃がすり抜けるタイプだ。
フレアがすぐに前へ出る。
『左の二体は偽物』
セレスが補助術式を展開する。
『本体反応、中央と右奥です』
『右奥行きます!』
ピピが飛び出す。
「アーク、中央」
『任せる』
ノアの声に、アークが即座に動いた。
ノアは拘束陣を水面へ走らせる。
反射で位置がずれて見える敵の足元に、薄い光の輪を置く。
アークは迷わずそこへ踏み込んだ。
剣が振り下ろされる。
一体目が砕ける。
「後ろ、鏡像」
『見えた』
「本体は右、二歩先」
『了解』
短いやり取り。
それだけで、アークは正確に動く。
身体が勝手にわかる。
ノアが見ている場所。
アークが踏み込むタイミング。
二人の呼吸は、恋人になったからといって変わらない。
むしろ、前より少し深く繋がっている気さえした。
『……ほんと』
フレアが戦闘の合間に呟く。
『連携、近くなったわね』
『ですよね!?』
ピピが叫びながら敵を叩く。
『やっぱり何かありましたよね!?』
『ピピ、前』
『わあっ!』
セレスが補助を飛ばし、ピピがぎりぎりで回避する。
ノアは戦闘中なのに笑いそうになった。
アークも同じだったのか、剣を振る合間にほんの少し口元が緩んでいる。
最後の敵を倒すと、反照回廊の水壁が淡く光った。
視界の反転が解除され、通路の奥に小さな報酬箱が現れる。
『勝利です!』
ピピが両手を上げる。
『そして観察結果も勝利です!』
『何に勝ったの』
フレアが冷静に聞く。
『二人が怪しいという確信にです!』
『それは勝利なのかしら』
セレスがくすりと笑う。
ノアはさすがに困ってアークを見た。
アークも少しだけ苦笑している。
『……そんなに変か?』
アークが聞くと、ピピは大きく頷いた。
『変です! でも、悪い変じゃないです!』
その言葉に、ノアは少しだけ目を瞬かせる。
ピピは続けた。
『何か、前より安心してる感じがします』
「安心?」
『はい。前は近いけど、ちょっと苦しそうな時があったんです』
その言葉に、ノアの胸が静かに揺れた。
ピピは明るい。
でも、何も見ていないわけではない。
むしろ、明るいからこそ、空気の変化に素直に反応する。
『今は、照れてるけど』
ピピはにっと笑う。
『前より楽しそうです』
ノアはすぐには返せなかった。
楽しそう。
そう見えるのなら、少し嬉しい。
正体を隠していた頃は、たしかに苦しかった。
近いのに言えない。
好きなのに隠している。
その痛みが、ノアの態度にも出ていたのかもしれない。
でも今は、隠していない。
全部を話しきったわけではないけれど、アークにはもう知られている。
そして受け止められている。
その違いが、見えるのだろう。
『無理に言わなくてもいいですけど』
セレスが静かに言った。
『何か良いことがあったのなら、私は嬉しいです』
『私も、悪い変化ではないと思う』
フレアが短く続ける。
『戦闘効率は上がっているし』
『フレアさん、そこなんですか!?』
『大事でしょう』
『大事ですけど!』
また、ピピが騒ぐ。
ノアは小さく笑った。
そして、少しだけ勇気を出して口を開く。
「大事なことがあったのは、本当」
三人がこちらを見る。
アークも、静かにノアを見る。
「でも、まだちゃんとどう話すか決めてない」
『うん』
セレスが頷く。
「だから、今は全部は言えない」
『はい』
「でも」
ノアは一度、アークを見た。
アークは何も言わずに、ただ頷いてくれた。
「悪いことじゃない」
ノアは言った。
「たぶん、すごく大事で、嬉しいこと」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ピピが目を輝かせた。
『やっぱり!』
『ピピ』
セレスがたしなめる。
『わかってます、聞きません! 聞きませんけど、にやにやします!』
『それもどうかと思う』
フレアが言う。
『でも、ノアさんが嬉しいなら、わたしも嬉しいです!』
そのまっすぐな言葉に、ノアは少しだけ胸が詰まった。
「ありがとう」
『はい!』
ピピは元気よく返事をする。
アークが隣で静かに息を吐いた。
個別回線に、彼の声が落ちる。
『言ってくれて、ありがと』
「全部じゃないよ」
『それでも』
「うん」
『嬉しかった』
その言葉だけで、ノアはまた顔が熱くなる。
そして、そんな二人のわずかな空気の変化を、ピピが見逃すはずもなかった。
『今また甘かったです!』
「ピピ」
『すみません! でも甘かったです!』
『否定しても無駄そうね』
フレアが言う。
『無駄ですね』
セレスも笑う。
ノアはもう、水面に映る自分を見るしかなかった。
アークは小さく肩を震わせている。
笑っている。
少し悔しい。
「アーク」
『何』
「笑ってる」
『笑ってない』
「笑ってる」
『少しだけ』
「ずるい」
『知ってる』
そのやり取りに、ピピがまた声を上げそうになったが、セレスがやんわり制した。
周回はそのあとも続いた。
反照回廊のギミックを抜け、小さな報酬を回収し、水鏡庭の出口へ戻る。
五人の会話はいつも通り賑やかで、時々少しだけノアとアークへ向けられる視線が増えた。
隠せていない。
けれど、責められてはいない。
むしろ、待ってくれている。
それがありがたかった。
ログアウト前、セレスがノアへ個別回線でそっと言った。
『ノアさん』
「何?」
『無理に言葉にしなくても、幸せそうなのは伝わります』
その声はやさしかった。
『それが本当に幸せなことなら、いつか聞けたら嬉しいです』
ノアは胸が熱くなる。
「……うん」
小さく頷いた。
「いつか、ちゃんと話す」
『はい』
セレスは微笑んだ。
『待っています』
ログアウトして現実へ戻ると、澪はベッドの端に座ったまま、しばらく動けなかった。
アステリオでも、隠せなかった。
ピピに騒がれ、フレアに見抜かれ、セレスにやさしく待たれた。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
ノアとしても、少しずつ隠れない方向へ進んでいる。
アークの隣にいることを、前よりも苦しまずに受け取れるようになっている。
スマート端末が震えた。
朔からだった。
『今日、隠せてなかったな』
澪は少し笑って返信を打つ。
『現実でもアステリオでも隠せてないね』
すぐに返事が来た。
『でも、悪い感じはしなかった』
澪は画面を見つめる。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
『私も』
送信して、スマート端末を胸の前で抱える。
現実でも。
アステリオでも。
自分たちの距離は、少しずつ変わっていく。
まだ全部は言えない。
まだ照れるし、ぎこちない。
それでも、もう隠れるための恋ではないのだと、澪は少しずつ実感し始めていた。3




