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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第7章 第4話:ノアとして会う恋人は、まだ少し変


 その夜、澪はフルダイブ装置の前で、しばらく手を止めていた。


 部屋の明かりは落としてある。

 机の上のスマート端末には、朔とのメッセージ画面が開いたままだった。


『今日はログインする?』


 その一文を見た瞬間から、胸の奥がずっと落ち着かない。


 現実では、もう恋人になった。

 朝、ぎこちなく並んで歩いた。

 放課後には手を繋いで帰った。

 家の前で、彼氏として、彼女として、と言い合った。


 それだけでもまだ心臓が騒がしいのに、今度は夜だ。


 ノアとして、アークに会う。

 でも、アークは朔で。

 朔は、今は自分の彼氏で。


「……無理じゃない?」


 ひとりで呟いて、澪はベッドに座り直した。


 ノアとして会うこと自体は、もう一度経験している。

 正体を明かしたあと、ぎこちないまま水鏡庭で話した。

 ノアも澪もどっちも君だったと言ってもらえた。

 ノアとして過ごした時間も、嘘ではないと受け止めてもらえた。


 でも、今日は違う。


 付き合ったあとの初ログインだ。


 アークを見た瞬間、自分はどんな顔をするのだろう。

 ノアの姿で、彼氏に会う。

 いや、彼氏という言葉をアステリオへ持ち込んだ瞬間、もう思考が止まりそうになる。


 スマート端末が震えた。


『無理なら今日はやめる?』


 朔からだった。

 その文面を見て、澪は少しだけ頬を緩めた。


 優しい。

 でも、逃げ道を用意されると、逆に行きたくなる。

 怖いけれど、会いたくないわけではない。


 むしろ、会いたい。


 澪は少し迷ってから、返信を打った。


『行く』

『でも変な顔すると思う』


 すぐに既読がついた。


『俺もたぶん変な顔する』


 その返事に、思わず笑ってしまう。


『じゃあ、お互い様』


『うん』

『水鏡庭でいい?』


 あの場所。

 正体を明かしたあと、ノアとアークとして向き合った場所。

 静かで、逃げ場がなくて、でも少しだけ救われた場所。


 澪は深く息を吸った。


『うん』


 送信してから、フルダイブ装置に手を伸ばす。

 目を閉じる直前、胸の奥で小さく呟いた。


 ノアとしても、逃げない。


 視界が暗転する。


 次に目を開けた時、ノアは《薄明の水鏡庭》の浅い水面の上に立っていた。


 薄紫の空が広がっている。

 水面には月とも朝焼けともつかない光が揺れて、石の飛び石が遠くの白い東屋へ続いていた。

 静かな水音。

 風に揺れる水草。

 何度来ても、ここは現実とは違う時間が流れているみたいだった。


 ノアは水面に映る自分の姿を見下ろす。


 淡い銀の髪。

 青みがかった瞳。

 現実の澪とは違う輪郭。

 けれど、その奥にいるのはもう隠れていない朝倉澪だ。


『ノア』


 声が聞こえた。


 振り向くと、少し離れた飛び石の上にアークが立っていた。

 黒い装備。背に負った剣。見慣れたアバター。

 何度も隣にいた姿。


 なのに、今日は見た瞬間に胸が跳ねた。


 アークだ。

 朔だ。

 彼氏だ。


 その三つが同時に頭に浮かんで、ノアは一瞬だけ言葉を失った。


「……アーク」

 ようやく呼ぶと、アークも少しだけ動きが止まった。


『うん』

「……」

『……』

 二人の間に、ものすごく気まずい沈黙が落ちる。


 前にもぎこちなかった。

 でも今日のぎこちなさは、少し違う。

 痛みよりも、照れが勝っている。

 それが余計に落ち着かない。


『えっと』

 アークが先に口を開いた。

『来てくれてありがと』

「うん」

『……昨日ぶり』

「昨日ぶり」

『現実では今日会ってるけど』

「うん」

『いや、何言ってるんだ俺』

 アークが自分で少しだけ顔を逸らした。


 その様子があまりに朔で、ノアは思わず小さく笑ってしまう。


『笑うな』

「笑ってない」

『笑った』

「少しだけ」

『ずるい』

「それ、私の台詞」

 少しだけ空気がゆるむ。


 ノアはようやく息を吐いた。

 アークも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


『変な感じするな』

「うん」

『ノアって呼ぶのも』

「うん」

『澪って呼ぶのも』

「うん」

『どっちも、昨日までと違う』

 ノアは小さく頷く。


「私も」

『うん』

「アークって呼んでるのに」

 そこで言葉が詰まる。

 でも、今さら隠しても仕方ない。


「彼氏って、混ざる」

 言った瞬間、アークが固まった。


『……それ』

「うん」

『今言うの反則』

「朔もよく反則なこと言う」

『今はアーク』

「じゃあ、アークもよく反則なこと言う」

『どっちでもだめじゃないか』

 そんなやり取りをして、二人とも少し笑った。


 笑えた。

 それだけで、ノアは少し安心する。


 恋人になっても、アステリオでの時間が壊れていない。

 形は変わっている。

 でも、完全に失われたわけではない。


『少し歩く?』

 アークが言った。

「うん」


 二人は飛び石を渡りながら、水鏡庭の奥へ進んだ。

 足元の水面が、歩くたびに薄く波紋を広げる。

 空の光が揺れ、二人の影が淡く重なる。


 距離が難しい。


 現実で帰り道に手を繋いだばかりだ。

 でもVRでアバター同士となると、また少し違う。

 近づいていいのか。

 どれくらい近づけば自然なのか。

 そもそもアステリオで恋人らしい振る舞いとは何なのか。


 考えるほど動きが硬くなる。


『ノア』

「何」

『歩き方、変』

「変って言わないで」

『いや、すごい慎重』

「だって」

『だって?』

「距離がわからない」

 正直に言うと、アークが少しだけ笑った。


『俺も』

「本当?」

『本当』

 アークは水面を見ながら言う。

『近づきたいけど、急に近づいたら変かなとか』

「うん」

『ノアとしては前から近かったし』

「うん」

『でも今は、澪としても近いから』

「うん」

『全部混ざって、よくわからない』

 その言葉に、ノアは胸の奥があたたかくなる。


 自分だけではない。

 アークも同じように、距離を測り直している。


「……ゆっくりでいい?」

 ノアが言う。

『うん』

「現実でも」

『うん』

「ここでも」

『うん』

「少しずつ、慣れたい」

 アークは静かに頷いた。


『俺も』

 その返事が、やけに優しかった。


 水鏡庭の奥にある小さな回廊へ入ると、低レベルの水影モンスターが数体現れた。

 戦闘エリアではないが、簡単な迎撃イベントだけは発生する場所だ。


 ノアは少しだけ身構える。

 アークも自然に剣へ手をかけた。


『来る』

「右、二体」

『左は任せる』

「うん」


 その瞬間、さっきまでのぎこちなさが少し消えた。


 ノアは術式を展開し、水面に薄い光の円を走らせる。

 水影の動きが鈍ったところへ、アークが踏み込む。

 一体、二体。

 短い剣閃で敵がほどける。


「後ろ」

『見えた』

 ノアが拘束陣を差し込み、アークが振り向きざまに斬る。

 最後の一体が水へ沈むように消えた。


 静寂が戻る。


 ノアは息を吐いた。

 アークも剣を収める。

 そして、二人はほぼ同時に顔を見合わせた。


『……やっぱり』

「うん」

『戦闘になると、いつも通りだな』

「ちょっと安心した」

『俺も』

 アークが小さく笑う。


『ノアと戦いやすいのは、変わらない』

 その言葉に、ノアの胸がじんとした。


「私も」

『うん』

「アークの隣、動きやすい」

『それ、今は前より嬉しいな』

「何で」

『彼女に言われてるから』

「だから急に言わないで」

 ノアは思わず一歩後ろへ下がる。


 アークが笑う。

『悪い』

「悪いと思ってない」

『少し思ってる』

「少しだけ?」

『少しだけ』

「ずるい」

『知ってる』

 そのやり取りに、また笑ってしまう。


 恥ずかしい。

 でも、嬉しい。

 ノアとしても、こんなふうに照れられるのだと初めて知った。


 回廊を抜けると、広い水面に出た。

 中央には小さな白い足場が浮いていて、その周囲を薄い光の魚が泳いでいる。

 アークは足場の端に立ち、ノアも隣に並んだ。


 少し近い。

 でも、さっきより自然だった。


『ノア』

「何」

『ここでも、続けていいんだよな』

「……何を」

『ノアとアークとして』

 アークは静かに言った。

『今までの時間も、これからの時間も』

 ノアは水面を見つめる。


 その問いは、澪自身もずっと考えていたことだった。


 恋人になったからといって、ノアをやめる必要はない。

 でも、ノアだけに逃げることももうしない。

 この姿も、自分の一部として続いていく。


「続けたい」

 ノアは言った。

「ノアとしても、アークに会いたい」

 言ってから、少しだけ頬が熱くなる。


 アークは静かにこちらを見ていた。

『そっか』

「うん」

『よかった』

「アークは?」

『俺も』

 迷いのない返事だった。


『アークとしても、ノアに会いたい』

「うん」

『でも、現実の澪ともちゃんと会いたい』

「……うん」

『どっちも大事にしたい』

 その言葉が、ノアの胸へ深く染みる。


 ノアだった時間を、消さなくていい。

 でも、そこに隠れなくてもいい。

 その両方を、アークはちゃんと選ぼうとしてくれている。


「私も」

 ノアは小さく言う。

「どっちも大事にしたい」

 アークは頷く。


 しばらく、水面だけを見ていた。

 薄い光の魚が泳ぎ、二人の影が水に揺れる。

 沈黙はもう、最初ほど気まずくなかった。


 アークがふと、手を動かした。

 ノアはそれに気づいて、少しだけ指先を見た。


 手。

 現実で繋いだ手。

 ここでも、繋ぐのだろうか。


 アークもそれを考えているらしく、指先が少し迷っている。

 その様子がわかりすぎて、ノアは小さく笑った。


『何』

「考えてること、たぶん同じ」

『……だと思う』

「どうする?」

『聞く前に言うなよ』

「だって、わかるから」

 アークは少しだけ困ったように笑った。


『手、繋いでもいい?』

 改めて、彼は聞いた。


 現実でも聞いてくれた。

 VRでも、ちゃんと聞いてくれる。

 そのことが、ノアにはとても嬉しかった。


「うん」

 ノアは手を差し出す。

「いいよ」


 アークの手が、そっと重なる。

 アバター同士の接触は、現実とは違う。

 感覚は調整されたものだ。

 でも、それでも確かに温度のようなものがある。


 現実の手とは違う。

 けれど、繋いでいる相手は同じだ。


「……変」

 ノアが呟く。

『嫌?』

「嫌じゃない」

『うん』

「現実とは違うのに、ちゃんとどきどきする」

 言った瞬間、アークの手に少しだけ力が入った。


『それも反則』

「今日はお互い様」

『たしかに』

 二人は手を繋いだまま、水面を見た。


 ノアとして会う恋人は、まだ少し変だ。

 でも、その変さが嫌ではない。

 ぎこちなくて、照れくさくて、時々どうすればいいかわからない。

 それでも、確かに嬉しい。


 しばらくして、共通通話に通知が入った。


『ノアさん、アークさん、ログインしてますか?』

 セレスの声だった。


 続いてピピの声が明るく飛び込んでくる。


『あ、いた! どこですかー?』

『二人で水鏡庭?』

 フレアの冷静な声も重なる。

『珍しいわね。というか、また二人?』


 ノアとアークは、同時に固まった。


 手は繋いだままだ。


 ノアは慌てて手を離そうとした。

 けれど、アークがほんの少しだけ握り直す。


『……どうする』

 アークが小声で言う。

「どうするって」

『離す?』

「……」

 ノアは少し迷った。


 まだ、みんなに言う準備はできていない。

 でも、慌てて隠すのも違う気がする。

 とはいえ、今この状態を見られたら、確実に何か言われる。


「……今日は」

 ノアは小さく言った。

「まだ、ちょっと」

『了解』

 アークはすぐに手を離した。

 その自然さに、少しだけ救われる。


 でも、離れた指先が少し寂しい。


『水鏡庭の奥』

 アークが共通通話へ返した。

『すぐ行きますね』

 セレスが穏やかに答える。

『なんか二人、声変じゃないですか?』

 ピピがすぐに突っ込んでくる。


 ノアの肩が跳ねる。


『変じゃない』

 アークが返す。

『今の返しが変です!』

『確かに少し不自然ね』

 フレアまで言った。


 ノアは思わずアークを見る。

 アークもこちらを見て、少しだけ困ったように笑った。


「……隠せる気がしない」

『現実でも言われてたな、それ』

「アステリオでもなんだ」

『たぶん』

 アークが小さく息を吐く。

『俺たち、隠すの下手なんだろうな』

「かも」

 ノアも小さく笑った。


 遠くから、ピピの明るい声が近づいてくる。

 セレスの穏やかな気配。

 フレアの冷静な足音。


 いつもの仲間たちが来る。

 でも、今日からは少し違う。

 ノアとアークの間にあるものが変わったから。


 まだ全部を言う準備はない。

 それでも、いつかは話さなければいけない。

 ノアとしても、アークとしても、隠れない関係へ進むために。


 ノアはそっと自分の手を見た。

 さっきまでアークと繋いでいた手。

 現実とは違うはずなのに、そこにはまだ確かに温度が残っている気がした。


 少し変。

 でも、嬉しい。


 ノアとして会う恋人との時間は、まだぎこちなくて、照れくさくて、どうしようもなく新しかった。

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