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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第7章 第3話:恋人として帰るだけで、こんなに照れる


 放課後の教室は、いつもより少しだけ騒がしく感じた。


 六限が終わったあとの開放感。

 椅子を引く音。

 鞄を閉める音。

 部活へ向かう誰かの声。

 廊下から流れてくる足音。


 全部、いつも通りのはずだった。


 でも澪の胸の中だけは、朝からずっと落ち着かないままだった。


 放課後なら、繋げるかも。


 朝、朔がそう言った。

 その言葉が、授業中も休み時間も、ずっと頭の奥で繰り返されていた。


 手を繋ぐ。

 それだけのことだ。

 昨日の夜、公園で一度繋いだ。

 それなのに、学校帰りの通学路で恋人として手を繋ぐと考えると、昨日とは違う緊張があった。


 澪は机の上のノートを鞄にしまいながら、そっと前方を見る。

 朔は自分の席で帰り支度をしていた。

 何でもない顔をしているように見える。

 でも、教科書を一度入れ間違えて、また取り出しているのを見てしまった。


 緊張している。

 たぶん、朔も。


 そう思うと少しだけ安心するのに、同時にもっと意識してしまう。


「朝倉」


 背後から夏希の声がした。


「……何」

「顔」

「今日はそればっかり」

「だって今日ずっと顔が忙しい」

「忙しいって何」

「嬉しい、恥ずかしい、緊張、にやけるな、の四つが交互に出てる」

「実況しないで」

 澪は鞄のファスナーを閉めながら、少しだけ睨む。


 夏希は楽しそうに笑っていた。

 けれど、その目は優しい。


「神谷と帰るんでしょ」

「……うん」

「手、繋ぐ?」

「声」

「小声だよ」

「小声でも言わないで」

「はいはい」

 夏希は肩をすくめる。

「まあ、頑張って」

「何を」

「恋人として帰ること」

 その言葉だけで、また顔が熱くなる。


「普通に帰るだけだから」

「普通じゃないんでしょ」

「……」

「ほら」

「夏希」

「はいはい。邪魔しない」

 夏希は鞄を肩にかけて立ち上がった。

「でも、朝倉」

「何」

「ちゃんと楽しみな」

 その一言に、澪は少しだけ目を瞬かせた。


「楽しむ?」

「そう。緊張ばっかりだと、せっかく好きな人と帰るのにもったいない」

 夏希は軽く笑う。

「好きな人っていうか、彼氏だけど」

「……言わないで」

「慣れな」

「無理」

「そのうち慣れる」

 そう言って、夏希は先に教室を出ていった。


 澪は深く息を吐いた。

 楽しむ。

 そんな余裕があるだろうか。


 でも、確かにそうだ。

 ずっと欲しかった時間だ。

 幼馴染としてではなく、片想いとして見守るだけでもなく、恋人として朔と帰る時間。


 怖いだけで終わらせたくはなかった。


 前方で朔が立ち上がる。

 目が合う。

 ほんの少しだけ、互いに固まる。


 朔が小さく顎で廊下を示した。

 澪は頷く。


 二人は少し時間をずらして教室を出た。

 それだけで、何かを隠しているみたいになってしまう。

 でも、今はまだ堂々と一緒に並んで出ていく勇気が足りなかった。


 廊下に出ると、放課後の空気が流れていた。

 部活へ急ぐ生徒。

 友人と寄り道の相談をする生徒。

 先生に呼び止められている生徒。

 その中を、澪は少しだけ早足で歩く。


 昇降口の手前で、朔が待っていた。


「……待たせた?」

 澪が小さく聞くと、朔は首を振った。

「いや」

「そっか」

「うん」

 短い。


 でも、その短さの中に妙な照れがある。


 靴を履き替える時も、隣にいるだけで意識してしまう。

 肩が近い。

 手が近い。

 同じ動作をしているだけなのに、全部に意味がついてしまう。


 昇降口を出ると、夕方の光が校庭を薄く照らしていた。

 空は少しずつ青から橙へ変わり始めている。グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえ、校門のほうへ生徒たちが流れていく。


 二人は並んで歩き出した。


 朝と同じ道。

 けれど、朝よりもさらに意識している。

 理由はわかっていた。


 放課後なら、繋げるかも。


 言ったのは朔だ。

 でも、覚えているのは澪だけではないはずだった。


 校門を出て少し歩く。

 まだ周りには同じ学校の生徒がいる。

 この状態で手を繋ぐのは、さすがに無理だ。

 澪はそう思いながら、少しだけほっとした。


 けれど同時に、少しだけ残念にも思った。


「今日」

 朔が口を開く。

「大丈夫だった?」

「何が」

「教室」

「ああ」

 澪は鞄の持ち手を握り直す。

「夏希には話した」

「早いな」

「見抜かれた」

「だろうな」

「朔も隠せてなかった」

「……まじか」

「まじ」

 朔は少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「ひなにも言われた」

「何て」

「空気が甘いって」

「……」

 朔が黙る。

 耳が少し赤くなった気がした。


「甘いらしいよ」

 澪がわざと少しだけ言うと、朔がこちらを見た。

「澪も言うようになったな」

「言われっぱなしは悔しいから」

「そっか」

 朔が少し笑う。


 その笑い方が優しくて、澪はまた胸が温かくなる。


 住宅街へ入る頃には、周囲の生徒の数も減っていた。

 道幅が少し狭くなり、家々の塀の影が長く伸びている。

 夕飯の支度の匂いがどこかの家から漂ってきた。


 いつもの帰り道。

 でも、今日だけはやっぱり違う。


 隣を歩く朔の手が、また視界の端に入る。

 今なら、周りに人は少ない。

 伸ばせば届く。

 朝と違って、言い訳が少しずつなくなっていく。


 澪は何も言えない。

 けれど、意識しているのが自分でもわかる。


 朔の歩調が、少しだけ遅くなった。


「澪」

「何」

「朝の」

 心臓が跳ねる。

「朝の?」

「放課後ならって言ったやつ」

 やっぱり覚えていた。


 澪は視線を足元へ落とす。

「……うん」

「今」

 朔の声が少しだけ低くなる。

「人、少ないけど」

「うん」

「手」

 そこで朔は言葉を止めた。


 続きは言わなくてもわかる。

 でも、ちゃんと言ってほしい気もした。

 自分でも面倒だと思う。

 けれど、今はその一つ一つが大事だった。


「手?」

 澪が小さく聞き返すと、朔は少しだけ眉を寄せた。


「……繋ぐ?」

 その言い方が、少し不器用で、真剣で、朔らしかった。


 澪の胸がいっぱいになる。

 顔が熱い。

 でも、逃げたくはなかった。


「……うん」

 小さく頷く。

「繋ぐ」


 朔の手が、ゆっくり近づいてくる。

 澪も、鞄を持っていないほうの手を少しだけ差し出した。


 指先が触れる。


 昨日の夜と同じなのに、違う。

 外の道で。

 帰り道で。

 恋人として。


 朔の指が、ぎこちなく澪の手を包む。

 最初は少しだけ形がわからない。

 どう握ればいいのか、お互い探っているようだった。

 でも、数秒後には指が自然に馴染んだ。


 あたたかい。


 澪は胸の奥がじんとするのを感じた。


「……緊張する」

 思わず呟く。

「俺も」

 朔がすぐ返した。

「朔も?」

「する」

「昨日も繋いだのに」

「昨日と違うだろ」

「……うん」

「帰り道だし」

「うん」

「彼女だし」

 その言葉に、澪は手を離しそうになった。


「急に言わないで」

「事実だろ」

「事実でも」

「だめ?」

「だめじゃないけど」

 澪は顔を逸らす。

「心臓がうるさい」

 言ってから、自分で恥ずかしくなる。


 朔が少しだけ黙った。

 そして、手にわずかに力を込める。


「俺も」

 低い声だった。

「結構うるさい」

 その言葉で、澪はもう何も言えなくなった。


 二人は手を繋いだまま歩いた。

 会話は少ない。

 でも、手の温度だけで十分すぎるほどだった。


 歩くたびに、繋いだ手が少し揺れる。

 その小さな揺れが、やけにくすぐったい。

 前を向いているのに、意識はずっと手にある。


 角を曲がったところで、前方から同じ学校の制服を着た生徒が二人歩いてきた。


 澪の肩がびくっと跳ねる。


「あ」

 思わず声が漏れる。

 手を離そうとしたわけではない。

 でも、反射的に指先が少し動いた。


 朔はそれに気づいた。

 けれど、手を離さなかった。

 むしろ、ほんの少しだけ握り直した。


 澪は朔を見る。

 朔は前を向いたまま、小さく言った。


「嫌なら離す」

「……嫌じゃない」

「じゃあ、このまま」

 その一言に、胸が強く鳴った。


 前から来た生徒たちは、こちらに気づいたかどうかもわからない。

 普通にすれ違って、そのまま通り過ぎていった。


 たったそれだけ。

 でも、澪にとっては大きかった。


 見られたかもしれない。

 でも、離さなかった。

 朔も、離さなかった。


「……すごい」

 澪が小さく言う。

「何が」

「今、ちょっと勇気いった」

「俺も」

「朔も?」

「当たり前だろ」

 朔は少しだけ苦笑した。

「でも、離したくなかった」

 また、そういうことを言う。


 澪は目を伏せる。

 でも、繋いだ手には少しだけ力を込めた。


「……私も」

 小さく返す。

「離したくなかった」

 朔の手が、また少しだけ温かくなった気がした。


 その後も、二人はゆっくり歩いた。

 いつもなら何でもない道なのに、今日はひとつひとつが記憶に残りそうだった。

 夕方の空。

 電柱の影。

 遠くで鳴く犬の声。

 繋いだ手の温度。


 幼馴染として何度も歩いた道を、恋人として初めて歩いている。


「朔」

「何」

「変な感じ」

「俺も」

「でも」

「うん」

「嫌じゃない」

 朔は少しだけ笑った。


「それ、最近よく聞く」

「本当だから」

「便利な言い方」

「朔がいつも使うやつ」

「そうだった」

 二人で少し笑う。


 笑えるようになったことが、嬉しかった。

 正体を明かしてからの痛みも、恋人になったばかりの照れも、全部抱えたまま、それでもこうして笑えている。


 家へ近づくにつれて、澪は少しだけ寂しくなった。

 この道が終われば、手を離さなければいけない。

 昨日も同じような気持ちになったけれど、今日はさらに強い。


 繋いだ手に少しだけ力を込めると、朔も気づいたようにこちらを見た。


「どうした」

「……もうすぐ着く」

「うん」

「手、離すの、ちょっと嫌」

 言ってから、澪は自分で驚いた。


 こんなことを言えるようになったのか。

 いや、言ってしまっただけだ。

 でも、取り消したくはなかった。


 朔は一瞬だけ目を見開いた。

 それから、少し困ったように笑った。


「それ、かなり来る」

「何が」

「嬉しい」

 その返しに、澪の胸がまた熱くなる。


「じゃあ」

 朔が言う。

「家の前まで、このまま」

「……うん」

 二人はまた歩き出す。


 ほんの数分の距離。

 でも、その数分がとても大事に思えた。


 澪の家の前に着く。

 街灯がまだ点き始めたばかりで、玄関先に薄い光が落ちている。


 二人は立ち止まった。

 繋いだ手は、まだ離していない。


「着いた」

 澪が言う。

「着いたな」

「……」

「……」

 沈黙。


 手を離すタイミングがわからない。

 どちらから離せばいいのかもわからない。

 そんなことで迷っている自分たちが、少しおかしくて、でも愛しかった。


「また明日」

 朔が言った。

「うん」

「彼女として」

 また言った。


 澪は顔を熱くしながら、でも今日は逃げなかった。


「また明日」

 小さく息を吸う。

「彼氏として」

 朔の目が少しだけ揺れる。


「……それ、やばいな」

「朔が言わせた」

「言ってほしかった」

「ずるい」

「知ってる」

 二人で小さく笑う。


 ようやく、手を離す。

 指先が離れる瞬間、少しだけ寂しい。

 でも、その寂しさすら嬉しかった。


「おやすみ」

 澪が言う。

「おやすみ」

 朔も返す。

「また明日」

「うん」


 家に入ってドアを閉めた瞬間、澪はその場にしゃがみ込んだ。


 心臓がまだうるさい。

 手のひらに、朔の温度が残っている。

 何度も帰った道なのに、今日の帰り道はまるで別の場所みたいだった。


「……恋人として帰るだけで」


 小さく呟く。

 その続きは、言わなくてもわかっている。


 こんなに照れるなんて、知らなかった。


 澪は自分の手のひらを見つめた。

 まだ少しだけ温かい気がする。

 その温度を消したくなくて、そっと胸の前で握りしめた。3

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