第7章 第2話:隠せてない恋人たち
教室の扉を開けた瞬間、澪は自分の顔がまだ熱いことに気づいた。
中はいつも通りだった。
机を動かす音。友人同士の朝の挨拶。端末の通知音。誰かが昨日の配信イベントの話をしていて、別の誰かが小テストの範囲を嘆いている。
何も変わっていない。
けれど澪には、教室の空気まで少し違って見えた。
自分だけが、昨日までとは違う秘密を胸に持っているからだ。
いや、秘密という言い方は少し違う。
隠したいわけではない。
ただ、まだどう伝えればいいのかわからないだけ。
朔と付き合うことになった。
幼馴染だった朔と。
アークだった朔と。
ずっと好きだった人と。
その事実を考えた瞬間、また胸の奥がきゅっと熱くなる。
「朝倉」
席に着いた瞬間、後ろから低い声が飛んできた。
夏希だった。
澪は鞄を机の横に掛ける手を止める。
振り向きたくない。
でも、振り向かないほうが不自然だ。
「……何」
「顔」
「顔?」
「顔が完全に“昨日何かありました”って言ってる」
「言ってない」
「言ってる」
「言ってない」
「朝倉、否定が早い時はだいたい図星」
澪は言葉に詰まった。
夏希は机に頬杖をつき、じっと澪を見る。
その目は、からかっているようでいて、かなり本気で観察している目だった。
「で」
「何」
「神谷と何があったの」
「……何も」
「朝倉」
「……」
「今のはさすがに無理」
夏希はため息をついた。
「昨日までの“もうすぐ何か起きます”みたいな顔じゃなくて、今日は“もう起きました”の顔してる」
「そんな顔ある?」
「ある。今してる」
澪は反射的に両手で頬を押さえた。
その動きが、余計に答えになってしまったらしい。
夏希の目がすっと細くなる。
「……まさか」
「まさかって何」
「言った?」
澪の心臓が跳ねた。
夏希は声を低くした。
周りに聞こえないように、でも逃がさない距離で続ける。
「好きって」
「……」
「で、返ってきた?」
「……」
「朝倉」
「……あとで」
やっとそれだけ言うと、夏希は一瞬だけ目を見開いた。
それから、深く息を吐く。
「あとで、ね」
「うん」
「つまり今ここでは言えないけど、言うことはあるってことね」
「……うん」
「了解」
夏希はそれ以上問い詰めなかった。
ただ、少しだけ口元をゆるめる。
「まあ、顔見ればだいたいわかるけど」
「わからないで」
「無理」
「お願いだから今は黙ってて」
「黙る。今は」
その“今は”が怖い。
澪は自分の席に向き直り、ノートを取り出すふりをした。
でも、手元が少し落ち着かない。
教科書の角が机に当たって、小さく音を立てる。
その時、教室の前方で朔が席に着くのが見えた。
見てしまった。
そして、向こうもこちらを見た。
目が合う。
たったそれだけで、澪の心臓が跳ねる。
昨日までも何度も目は合っていた。
でも今日のそれは、全部意味が違う。
朔は一瞬だけ固まった。
それから、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
あまりにも小さな笑みだった。
でも澪には十分すぎた。
反射的に、澪も小さく頷く。
「……はいアウト」
後ろから夏希の声がした。
澪はびくっと肩を揺らす。
「何が」
「今の」
「今のって」
「目が合って、二人で変な顔してた」
「してない」
「してた」
「変な顔って何」
「恋人になりたての顔」
澪は机に額を伏せそうになった。
「夏希」
「何」
「声、下げて」
「下げてる」
「もっと」
「はいはい」
夏希は楽しそうに笑っている。
そんなやり取りをしていると、教室の後方から軽い足音が近づいてきた。
「朝倉先輩」
ひなだった。
澪は嫌な予感を覚えながら顔を上げる。
ひなは今日も明るい。
でも、その目は妙に鋭かった。
「おはようございます」
「……おはよう」
「今日、何か空気違いますね」
「違わない」
「違います」
即答だった。
ひなは澪を見て、それから前方の朔を見る。
そしてもう一度、澪を見る。
「え、待ってください」
「待たない」
「空気が甘いです」
「甘くない」
「甘いです」
「甘くない」
「いや、これは甘いです」
ひなの声は明るいが、言っていることはかなり危険だった。
澪は慌てて周囲を見た。
何人かがこちらをちらっと見ている。
まずい。
「ひな」
澪はできるだけ落ち着いた声を出す。
「朝から変なこと言わないで」
「変じゃないです。先輩たち、何かありましたよね」
「……」
「あ、その沈黙はありますね」
「ない」
「あります」
ひなはじっと澪を見る。
その視線はまっすぐで、逃げ場がない。
でも、今日はまだ言えない。
少なくとも、教室の真ん中で明るく暴露するようなことではない。
「……あとで」
澪が小さく言うと、ひなは目を瞬かせた。
「あとで?」
「今は、やめて」
そう言うと、ひなは少しだけ表情を変えた。
明るさの奥に、ちゃんと察する色が浮かぶ。
ひなはふっと息を吐いて、笑った。
「わかりました」
「……ありがとう」
「でも」
「何」
「あとでちゃんと聞きます」
「聞かないで」
「聞きます」
「ひな」
「だって気になります」
ひなはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「でも、ちゃんとした話なら、ちゃんと聞きます」
その声に、ほんの少しだけ痛みが混じった気がした。
澪は胸が小さく痛む。
ひなは本気だった。
だからこそ、こちらの変化も敏感に感じ取ってしまうのだろう。
「……うん」
澪は小さく頷いた。
「ちゃんと、話す」
ひなは一瞬だけ澪を見て、それからいつものように笑った。
「はい」
「でも今は」
「黙ります」
「ありがとう」
「ただし、空気は甘いです」
「ひな」
「すみません」
そう言って、ひなはぱたぱたと自分の席へ戻っていった。
澪は深く息を吐く。
朝から心臓が忙しすぎる。
「隠せてないね」
夏希がぼそっと言った。
「うるさい」
「いや、これは無理だよ」
「そんなに?」
「うん」
夏希は前方の朔を見た。
澪もつられて見てしまう。
朔は朔で、男子に何か話しかけられながらも、どこか落ち着かない様子だった。
机の上に教科書を出す手が一度止まる。
ちらりとこちらを見る。
目が合いそうになって、互いに慌てて逸らす。
「ほら」
夏希が言う。
「神谷も全然隠せてない」
「……」
「二人して不自然」
「どうすれば自然なの」
「たぶん無理」
「無理って言わないで」
「付き合いたてなんてそんなもんでしょ」
付き合いたて。
その言葉だけで、また顔が熱くなる。
ホームルームが始まる直前、凛花が教室へ入ってきた。
いつも通りの姿勢。
乱れのない髪。
落ち着いた足取り。
けれど、教室に入ってすぐ、凛花の視線が澪と朔の間を一度だけ通った。
そして止まる。
澪は息を飲んだ。
凛花は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ目を細める。
それだけで、何かを察したのだとわかった。
痛い。
けれど、逃げてはいけない痛みだった。
凛花は自分の席へ向かった。
表情は大きく変わらない。
でも、その背中が少しだけ静かだった。
続いて、由良が教室へ入ってくる。
資料を抱え、いつものように穏やかな顔をしている。
けれど彼女もまた、朔と澪の空気を見た瞬間、わずかに足を緩めた。
目が合う。
由良は、何も聞かなかった。
ただ、澪へ小さく微笑んだ。
その微笑みは優しい。
でも、どこか切ない。
澪は小さく頭を下げた。
今はそれしかできなかった。
担任が教室へ入ってきて、ホームルームが始まる。
日直の声が響き、出席確認が進む。
いつも通りの時間のはずなのに、澪の心は全然落ち着かなかった。
視線を上げれば朔がいる。
後ろには夏希がいる。
少し離れたところにひな、凛花、由良がいる。
誰もまだ、はっきりとは知らない。
でも、何かが変わったことだけは確実に伝わっている。
隠せない。
本当に、隠せていない。
一限目の授業中、澪は何度もノートの文字を間違えた。
数字の式を書いているはずなのに、気づけば昨日のメッセージが頭に浮かぶ。
彼女として。
彼氏として。
そのたびにペンが止まる。
「朝倉」
小さな声。
後ろから夏希がシャープペンの先で椅子を軽くつつく。
「授業」
「……わかってる」
「顔」
「また?」
「また」
澪は必死に黒板を見る。
だめだ。
このままだと、一日もたない。
休み時間になると、夏希がすぐに机へ身を乗り出した。
「で」
「だから、あとで」
「昼休み」
「……わかった」
「場所は?」
「人気のないところ」
「了解」
夏希は頷く。
「正式報告待ってる」
「正式報告って言わないで」
「じゃあ何て言えばいいの」
「……言わないで」
「はいはい」
夏希は笑っている。
でも、その目は少しだけ優しかった。
午前中は、長いようで短かった。
授業と授業の間に、何度か朔と目が合った。
そのたびに、互いに少しだけぎこちなくなる。
昼休み。
澪は弁当箱を持って、夏希と一緒に校舎裏の中庭へ向かった。
人が少なく、ベンチがひとつある場所。
ここなら、少しは落ち着いて話せる。
夏希はベンチへ座るなり、まっすぐ言った。
「で、付き合った?」
あまりにも直球だった。
澪は持っていた弁当箱を落としそうになる。
「……言い方」
「遠回しに聞いたほうがいい?」
「いや」
「じゃあ、付き合った?」
澪は顔を熱くしながら、小さく頷いた。
「……うん」
言った瞬間、自分の声が震えた。
夏希はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「そっか」
「うん」
「神谷と」
「うん」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「好きって言った?」
「……言った」
「返ってきた?」
「返ってきた」
そこまで言うと、夏希はぐっと唇を結んだ。
何かをこらえるような顔だった。
「何」
「いや」
「何」
「叫びたい」
「やめて」
「我慢してる」
「して」
夏希は両手で顔を覆ってから、大きく息を吸った。
「よかった」
その一言は、とても小さかった。
でも、澪の胸に深く届いた。
「……うん」
「本当に、よかった」
夏希は顔を上げる。
「朝倉、長かったね」
その言葉で、澪は少し泣きそうになった。
長かった。
本当に長かった。
好きなのに言えなくて、ノアとして近づいて、正体を明かして、やっと同じ名前で好きと言えた。
「うん」
澪は小さく頷く。
「長かった」
「神谷は?」
「ちゃんと、好きって言ってくれた」
「うわ」
「何」
「朝倉の口から聞くと破壊力ある」
「やめて」
「いや、でも」
夏希は少しだけ笑う。
「よかった」
その声が、また優しい。
しばらく二人は弁当を食べながら話した。
昨日の公園のこと。
正式に付き合うことになったこと。
まだ周囲にはちゃんと話していないこと。
ひなや凛花、由良には、いずれ自分の言葉で向き合いたいと思っていること。
夏希は茶化しすぎず、でも時々耐えきれずににやけた。
「それで、今朝は?」
「……普通に挨拶するだけで難しかった」
「かわいい」
「言わないで」
「手は?」
「繋いでない」
「え、繋げばよかったのに」
「朝の通学路で?」
「まあ、朝倉には無理か」
「うるさい」
「神谷は?」
「考えたって」
「うわ」
「放課後なら繋げるかもって」
「うわ」
「夏希」
「ごめん、今のは耐えられなかった」
夏希は本当に楽しそうだった。
でも、その楽しさが嫌ではなかった。
隠していた頃とは違う。
誰かに話せることが、少しだけ嬉しかった。
昼休みが終わる頃、夏希は立ち上がって言った。
「朝倉」
「何」
「隠したくないなら、ちゃんと少しずつ言いな」
「うん」
「でも、無理に一気に言わなくていい」
「うん」
「二人で決めな」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「夏希に最初に言えてよかった」
そう言うと、夏希は少しだけ照れたように目を逸らした。
「そういうことを急に言うな」
「夏希も照れるんだ」
「うるさい」
二人で少し笑った。
教室へ戻ると、ひながすぐにこちらを見た。
凛花も、由良も、それぞれの場所から一瞬だけ視線を向ける。
澪は小さく息を吸う。
まだ全員に話せるわけではない。
でも、逃げるつもりはない。
ちゃんと、自分の言葉で話す。
放課後、朔と帰る約束をしている。
その時、もう一度話そう。
どこまで伝えるか。
どう向き合うか。
そして、今朝できなかったことをするのかどうか。
そう考えた瞬間、また顔が熱くなった。
「朝倉」
夏希が後ろから小さく言う。
「顔」
「もう言わないで」
「隠せてない」
「……知ってる」
澪は小さく返した。
隠せていない恋人たち。
その言葉が、今の自分たちにはぴったりすぎて、少しだけ恥ずかしくて、でも少しだけ嬉しかった。




