第7章 第1話:彼氏と彼女の、最初の朝
朝、目が覚めた瞬間から、澪は布団の中で固まっていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつもと変わらない。机の上のスマート端末も、制服も、鞄も、昨日と同じ場所にある。窓の外からは、遠くを走る車の音と、どこかの家の玄関が開く音が聞こえていた。
いつもの朝だ。
でも、いつもの朝ではなかった。
澪は布団の中で、そっとスマート端末を手に取る。
画面を点ける。
昨日の夜、最後に交わしたメッセージが、そこに残っていた。
『また明日』
『彼女として』
『また明日』
『彼氏として』
その文字を見た瞬間、澪は布団を頭までかぶった。
「……無理」
小さく呻く。
誰も聞いていないのに、声が熱い。
彼女。
彼氏。
その言葉が、昨日まではどこか遠くのものだった。
少女漫画や配信ドラマの中で、誰かが当たり前みたいに使っている言葉。
でも今は、その言葉が自分と朔の間にある。
神谷朔は、幼馴染で。
アークで。
そして、今日から彼氏だ。
「……彼氏」
声に出した瞬間、澪はまた布団の中で丸まった。
昨日、好きと言った。
好きと返ってきた。
付き合うことになった。
手も繋いだ。
家の前で、彼氏として、彼女として、と言い合った。
全部本当なのに、朝になってもまだ夢みたいだった。
けれど画面の文字は消えない。
夢ではない。
澪はゆっくり布団から出た。
足元が少しふわふわする。
制服に着替え、鏡の前に立つ。
顔が赤い。
寝起きのせいだけではない。
「……普通にしなきゃ」
そう呟いて、髪を整える。
でも、普通とは何だろう。
昨日まで通りに挨拶すればいいのか。
それとも恋人らしく、何か違うことを言うべきなのか。
朝から手を繋ぐのか。
いや、通学路でそんなことをしたら心臓がもたない。
そもそも、朔はどんな顔で待っているのだろう。
考えるほど、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
それでも家を出る時間は来る。
玄関を開けると、朝の空気はやわらかかった。
春の終わりの風が、制服の裾を小さく揺らす。住宅街にはいつもの音が満ちていた。自転車のベル。遠くの信号機の電子音。家の前を掃く箒の音。
その全部が、今日は少しだけ明るく聞こえる。
曲がり角の手前で、澪は一度立ち止まった。
心臓がうるさい。
この角を曲がれば、朔がいる。
昨日までもそうだった。
でも今日からは違う。
幼馴染として待っている朔ではなく。
彼氏として待っている朔。
「……落ち着いて」
自分に言い聞かせてから、澪は角を曲がった。
朔は、いつもの電柱のそばにいた。
スマート端末を片手に持っている。
でも画面はほとんど見ていないようだった。
澪に気づいた瞬間、顔を上げる。
目が合う。
二人とも、動きが止まった。
「……おはよ」
朔が先に言った。
声はいつもと同じにしようとして、少しだけ失敗していた。
「お、おはよう」
澪も返す。
自分でもわかるくらい、声がぎこちない。
沈黙。
いつもなら、すぐ歩き出す。
何でもない話題を拾う。
昨日の課題がどうとか、先生が面倒な連絡をしてきそうだとか、そういう話をする。
でも今日は、おはようの次が見つからない。
朔が小さく咳払いをした。
「行くか」
「うん」
二人で歩き出す。
通学路は同じだ。
歩幅も、自然に合う。
でも距離がわからない。
昨日までなら、肩が触れそうな距離でも気にしなかった。
幼馴染だから。
ずっと一緒に歩いてきたから。
でも今は、その距離が近すぎる気がする。
かといって少し離れると、それはそれで意識しているみたいで変だ。
澪が半歩だけ距離を取ると、朔もなぜか半歩ずれた。
そのせいで、また同じ距離になる。
「……何で合わせるの」
澪が小さく言うと、朔が目を瞬いた。
「え、合わせた?」
「合わせた」
「無意識」
「そういうところ」
「何が」
「……別に」
言ってから、澪は顔を逸らした。
頬が熱い。
朔も少しだけ視線を外した。
耳が赤い気がする。
それを見て、澪の胸がさらに忙しくなる。
昨日まで普通に隣を歩いていた。
それなのに、今日は歩くだけでこんなに難しい。
「昨日」
朔がぽつりと言った。
「うん」
「寝れた?」
「聞く?」
「俺も寝れなかったから」
「……私も」
「だよな」
朔が少しだけ笑う。
その笑い方が、いつもの朔に少し戻っていて、澪はほんの少しだけ息をつけた。
「何考えてたの」
澪が聞く。
聞いてから、少しだけ後悔する。
自分で聞くには照れくさい内容かもしれない。
朔は少しだけ考えたあと、正直に言った。
「彼女って、どう接すればいいんだろうって」
「……」
「今のなし」
「なしにできない」
「じゃあ聞かなかったことに」
「無理」
澪は思わず少し笑ってしまった。
朔も苦く笑う。
「だって、わかんないだろ」
「私もわからないよ」
「澪も?」
「彼氏ってどう接すればいいのかわからない」
「……だよな」
二人で並んで歩きながら、同じように黙る。
その沈黙は、さっきより少しだけやわらかかった。
「昨日まで」
澪はゆっくり言う。
「普通に隣歩いてたのにね」
「うん」
「普通じゃなくなったから、難しい」
「普通じゃなくなったっていうか」
朔は少しだけ言いよどむ。
「ちゃんと意識するようになった」
その言葉に、澪の心臓が強く鳴る。
「……そういうこと、朝から言わないで」
「言いたくなった」
「またそれ」
「便利だから」
「便利に使わないで」
そう返しながら、澪は少しだけ笑っていた。
通学路の途中、横断歩道で立ち止まる。
信号は赤。
周りには同じ学校の生徒も何人かいる。
ふと、朔の手が視界の端に入った。
昨日、繋いだ手。
少し冷たくて、でもすぐにあたたかくなった手。
今なら、隣にある。
伸ばせば届く。
でも、朝の通学路だ。
人もいる。
そもそも、手を繋いでいいのか。
恋人なら普通なのか。
それとも、まだ早いのか。
考えた瞬間、余計に手が動かなくなった。
朔も、同じことを考えていたのだろうか。
ほんの少しだけ、指先が動いた気がした。
けれど、その手は結局ポケットへ入ってしまう。
澪は見ていないふりをした。
でも、胸の奥がくすぐったいような、少し残念なような、よくわからない気持ちになる。
信号が青に変わる。
二人で歩き出す。
手は繋がない。
でも、さっきより少しだけ距離が近かった。
「……今」
朔が小さく言う。
「何」
「手、考えた?」
澪は足を止めそうになった。
「考えてない」
「嘘」
「考えてない」
「澪、嘘つく時ちょっと早口になる」
「うるさい」
顔が熱い。
朔は少しだけ笑って、それからすぐに真面目な声になる。
「俺も考えた」
「……言わなくていい」
「でも、朝は無理だった」
「うん」
「人いるし」
「うん」
「あと、普通に心臓が無理」
その言い方が妙に正直で、澪は小さく笑った。
「私も」
「じゃあ、放課後とか」
朔が途中で言葉を止める。
澪はちらりと横を見る。
「何」
「いや」
「言いかけたなら言って」
「放課後なら、繋げるかもって」
今度こそ、澪は何も言えなくなった。
放課後。
手を繋ぐ。
恋人として。
想像しただけで、胸が熱くなる。
「……考えとく」
やっとそれだけ返すと、朔が少しだけ口元を緩めた。
「うん」
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってる」
「少しだけ」
「ずるい」
「またそれ」
二人の会話は、まだぎこちない。
でも、昨日までとは違う甘さがあった。
学校が近づくにつれて、澪は少しだけ緊張し始めた。
教室へ入れば、夏希がいる。
ひなもいる。
凛花も、由良もいる。
昨日からすでに、二人の空気が変わったことは見抜かれ始めていた。
今日、隠せる気がしない。
校門をくぐる前、朔がふと足を緩めた。
「澪」
「何」
「今日、学校で」
「うん」
「まだ、全部言わなくていいよな」
「うん」
澪も頷く。
「私も、まだちょっと整理したい」
「だよな」
「でも」
少しだけ勇気を出して、澪は続ける。
「隠したいわけじゃない」
朔は顔を上げた。
「うん」
「ただ、ちゃんと話したい人には、ちゃんと話したい」
「俺も」
朔は静かに頷いた。
「雑に広まるのは嫌だ」
「うん」
「ちゃんと、俺たちの言葉で」
その言い方に、胸があたたかくなる。
俺たち。
その言葉が、今はまだ少し照れくさい。
でも、嬉しい。
「……うん」
澪は小さく頷いた。
昇降口に入る直前、朔が少しだけ近づいた。
人目があるから、本当に少しだけ。
「あと」
「何」
「彼女、って呼んでいいのかまだ慣れない」
その一言で、澪の顔が一気に熱くなった。
「今言う?」
「今思った」
「言わなくていい」
「でも、本当だから」
「朔って、昨日から急にそういうこと言う」
「昨日から言っていい立場になったから」
「……」
澪は何も返せなかった。
反則だ。
そんなふうに、真顔で不器用に言わないでほしい。
心臓がもたない。
朔も言ったあとで恥ずかしくなったのか、少しだけ目を逸らした。
「じゃ」
「……うん」
「教室で」
「うん」
靴を履き替えて、二人は少し間を空けて教室へ向かった。
廊下には登校してきた生徒たちの声が響いている。
何でもない朝の学校。
でも澪にとっては、すべてが少しずつ新しい。
彼氏。
彼女。
恋人。
その言葉にまだ慣れない。
幼馴染としての距離も、ノアとしての距離も、全部残ったまま、そこに新しい名前が加わった。
難しい。
照れくさい。
どうしていいかわからない。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥がずっとあたたかい。
教室の扉の前で、澪は一度深呼吸した。
中から、いつものざわめきが聞こえる。
夏希の声も、ひなの笑い声も、遠くに混じっていた。
今日から何かが劇的に変わるわけではない。
でも、確かに変わり始めている。
彼氏と彼女の、最初の朝。
その一歩目は、おはようを言うだけで精一杯だった。
それでも澪は、そのぎこちなさごと、ちゃんと大事にしたいと思った。




