第6章 第12話:それでも、ここから始めたい
翌朝、世界は少しだけ違って見えた。
カーテンの隙間から差し込む光も、机の上に置かれたスマート端末も、いつもと同じはずだった。フルダイブ装置も、制服のリボンも、鞄も、昨日までと何ひとつ変わっていない。
それなのに、澪の胸の奥だけが、昨日までとは違う温度を持っていた。
昨夜、言った。
ずっと好きだった、と。
幼馴染としてではなく、ノアとしてでもなく、私として好きだと。
そして、朔も言ってくれた。
澪が好きだ、と。
ノアとしても惹かれていて、澪としても気づいたら見ていたと。
もう、それ以外では見られないと。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
でも同時に、少しだけ怖くもなる。
好きと言えた。
返ってきた。
それなら、次はどうすればいいのだろう。
恋が実った瞬間に、すべてが自動的にうまくいくわけではない。
むしろ、ここから先をどう歩くかのほうが難しい気がした。
ノアとして隠していた時間がある。
幼馴染として長くそばにいた時間がある。
恋として始まったばかりの関係がある。
その全部を抱えて、どうやって隣に立てばいいのか。
それを、今日は朔とちゃんと話さなければいけない。
制服へ着替えて鏡を見る。
顔が少し赤い気がした。
昨夜のことを思い出しただけで、また頬が熱くなる。
「……だめだ」
小さく呟き、両手で頬を押さえる。
好きと言えたからといって、急に強くなれるわけではない。
むしろ今朝の澪は、昨日よりずっと落ち着かなかった。
家を出ると、朝の空気はやわらかかった。
住宅街の道に薄い光が落ちている。遠くで自転車のベルが鳴り、誰かの家の玄関が開く音がした。
いつもの通学路。
けれど今日は、曲がり角の向こうに朔がいると思うだけで、足が少し止まりそうになる。
深呼吸してから、角を曲がる。
朔はいた。
いつもの場所。
いつもの立ち姿。
でも今日は、目が合った瞬間、二人とも同時に少しだけ固まった。
「……おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
それだけで、顔が熱くなりそうになる。
昨日まで何度も交わしてきた挨拶なのに、今日は意味が違う。
好きだと言い合った翌朝の、おはよう。
そんなことを意識してしまう自分が恥ずかしい。
並んで歩き出す。
距離は近い。
昨日よりも、少しだけ。
でも急に手を繋ぐような距離ではない。
触れそうで、触れない。
その曖昧さが今は妙にくすぐったかった。
「昨日」
朔が口を開く。
「寝れた?」
「……あんまり」
「俺も」
「朔も?」
「そりゃそうだろ」
少しだけ苦笑する。
「いろいろ考えた」
「私も」
短い会話のあと、少し沈黙が落ちる。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
昨日までの重く張りつめたものとは違う。
言葉を選ぶための、少し照れくさい沈黙だった。
「澪」
「何」
「昨日言ったこと」
胸が強く鳴る。
「うん」
「後悔してない」
その一言だけで、澪の目の奥が少し熱くなった。
「……私も」
「うん」
「後悔してない」
「そっか」
朔は少しだけ安心したように息を吐いた。
信号の前で立ち止まる。
横断歩道の向こうには、同じ学校の生徒たちがちらほら歩いている。
朝の光の中で、朔が小さく言った。
「でも」
「うん」
「これからどうするかは、ちゃんと話したい」
澪は頷く。
「私も」
「うん」
「好きって言えたから、それで全部終わりじゃないと思う」
「だよな」
朔は少しだけ困ったように笑った。
「俺たち、普通に好きになっただけじゃないし」
「……うん」
「幼馴染で」
「うん」
「ノアとアークで」
「うん」
「その上で、今こうなってる」
言葉にされると、やはり少し重い。
でも、その重さを二人で見ようとしていることが嬉しかった。
「放課後」
朔が言う。
「少し話せる?」
「うん」
「昨日の公園でもいい?」
「……うん」
あの場所。
好きと言った場所。
言葉が返ってきた場所。
そこで、今度は始め方を話す。
学校へ着くと、教室の空気はいつも通り騒がしかった。
けれど、澪が席に着いた瞬間、夏希がすぐに顔を寄せてきた。
「朝倉」
「……何」
「顔」
「そんなに?」
「すごい」
即答された。
澪は思わず両手で頬を押さえる。
「やっぱり?」
「やっぱりって自覚あるんじゃん」
「ある」
「何かあった?」
夏希の声は、からかい半分、でも本気半分だった。
澪は少しだけ迷ってから、小さく頷いた。
「……言った」
夏希の目が少しだけ見開かれる。
「好きって?」
「うん」
「返事は」
澪は顔が熱くなるのを感じながら、さらに小さく頷いた。
「返ってきた」
夏希は数秒だけ黙った。
それから、深く息を吐く。
「やっとか」
「……それだけ?」
「いや、めちゃくちゃ言いたいことあるけど、今ここで騒いだら朝倉が死ぬでしょ」
「死ぬ」
「じゃあ我慢する」
夏希はそう言って、少しだけ優しく笑った。
「よかったね」
その一言で、澪の胸がまた熱くなる。
「うん」
「でも」
「うん」
「ここからでしょ」
その言葉に、澪は頷いた。
「今日、放課後また話す」
「関係のこと?」
「うん」
「ちゃんと話しな」
「うん」
「浮かれるのもいいけど」
「浮かれてない」
「顔は浮かれてる」
「……」
「でも、ノアの件もあるからね」
夏希の声が少し真面目になる。
「好きで終わりじゃなくて、どう向き合うかまで決めたほうがいい」
「わかってる」
わかっている。
だからこそ、今日はちゃんと話すのだ。
午前中の授業は、昨日より少しだけ現実感があった。
それでも、ふとした瞬間に昨夜の公園がよみがえる。
朔の声。
好きだと言ってくれた顔。
涙を拭いてくれた指先。
家の前で、もう一度好きだと言われたこと。
思い出すたびに、ペンが止まる。
そのたびに夏希から小さく机をつつかれた。
昼休み、澪が弁当箱を開けようとした時、ひなが教室の後ろからやってきた。
いつものように明るい顔。
でも、澪の前で立ち止まった瞬間、その目が少しだけ細くなる。
「朝倉先輩」
「……何」
「何か、昨日よりさらに変です」
澪の肩が跳ねる。
「変って」
「いい意味の変です」
ひなはそう言って、それから少しだけ唇を尖らせた。
「でも、悔しい感じの変です」
その言い方に、澪は何も返せなかった。
ひなはきっと察している。
何があったか全部ではなくても、少なくとも朔と澪の距離が決定的に変わったことを。
「……ひな」
「はい」
「ありがとう」
急に言われて、ひなは目を丸くした。
「何でお礼ですか」
「たくさん、背中押してくれたから」
「そんなつもりは」
「なくても」
澪は小さく笑う。
「押された」
ひなは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
「うん」
「なら、ちゃんと幸せになってください」
明るい声だった。
でも、少しだけ震えていた。
澪の胸が痛む。
ひなも本気だった。
凛花も、由良も、本気だった。
だからこそ、自分が前へ進んだことを軽く扱ってはいけない。
「……うん」
澪は頷いた。
「ちゃんとする」
「ならいいです」
ひなはいつもの笑顔を作る。
「でも、まだ神谷先輩のことかっこいいとは思ってますから」
「うん」
「そこは撤回しません」
「うん」
澪がそう返すと、ひなは少しだけ笑って教室の前方へ戻っていった。
放課後になるまでの時間は、ゆっくり過ぎた。
六限が終わり、教室のざわめきが広がる。
凛花と目が合った。
由良とも目が合った。
どちらも何も言わなかったけれど、澪は軽く頭を下げた。
逃げない。
この関係を、ちゃんと受け止める。
自分の恋だけではなく、周りの気持ちも含めて。
校門を出ると、朔が少し先で待っていた。
昨日までなら、その姿を見るだけで胸が苦しくなった。
今日は、胸が熱くなる。
「行く?」
朔が聞く。
「うん」
二人は並んで、夜に向かい始めた住宅街を歩いた。
公園に着く頃には、空は薄い群青へ変わっていた。
昨日と同じブランコ。
同じ滑り台。
同じ街灯。
でも今日は、昨日ほど張りつめていなかった。
二人はブランコの近くに立った。
少し迷って、澪は片方のブランコに腰を下ろす。
朔も隣のブランコに座った。
子どもの頃は、よくこうして隣に座った。
でも今日は、まったく違う意味を持っている。
「昨日」
朔が言う。
「好きって言った」
「……うん」
「返事もした」
「うん」
「それで」
少しだけ言葉を探す。
「じゃあ今日から何が変わるんだろうって、ずっと考えてた」
澪はブランコの鎖を軽く握る。
「私も」
「うん」
「急に全部変えるのは、たぶん無理」
「だよな」
「でも、何も変わらないのも違う」
「うん」
朔は小さく頷いた。
「俺さ」
「うん」
「澪とちゃんと向き合いたい」
その言葉に、胸が静かに熱くなる。
「幼馴染としての近さに甘えないで」
「うん」
「ノアだったことを、なかったことにもせずに」
「うん」
「今までの全部込みで」
朔はこちらを見る。
「澪として隣にいてほしい」
その言葉が、昨日の好きとはまた違う形で胸へ落ちた。
隣にいてほしい。
今までの全部込みで。
それは、澪がずっと望んでいた場所だった。
「私も」
澪はゆっくり言う。
「朔の隣にいたい」
「うん」
「でも、前みたいにただ幼馴染の近さに隠れるんじゃなくて」
「うん」
「ノアとしてだけ近づくんでもなくて」
声が少しだけ震える。
「私として」
澪は朔を見る。
「ここから始めたい」
朔は静かに頷いた。
「じゃあ」
「うん」
「ちゃんと始めよう」
その一言に、胸の奥が大きく震える。
ちゃんと始めよう。
その言葉は、派手な告白よりもずっと現実的で、ずっとあたたかかった。
「それって」
澪は少しだけ頬を熱くしながら聞く。
「付き合うってこと?」
言ってから、自分で顔がさらに熱くなる。
朔も一瞬だけ固まった。
それから、少しだけ目を逸らす。
「……そう、なるんじゃないか」
「何で疑問形」
「いや、言い慣れてない」
「私も慣れてない」
「だよな」
二人で少しだけ笑った。
照れくさい。
でも、嫌じゃない。
むしろ、胸がいっぱいになるくらい嬉しい。
朔は小さく咳払いをして、改めて澪を見た。
「澪」
「何」
「俺と、付き合ってください」
不器用で、少し硬い言い方だった。
でも、その真面目さが朔らしかった。
澪は胸の前で手を握りしめる。
涙がまた出そうになる。
でも今度は泣かずに、ちゃんと笑って答えたかった。
「はい」
声は少し震えた。
「よろしくお願いします」
朔の顔が、少しだけほっとしたように緩む。
「……よかった」
「断ると思った?」
「思ってないけど」
「けど?」
「やっぱ、ちゃんと言うと緊張する」
「私も」
澪は小さく笑う。
「でも、嬉しい」
「俺も」
その短い返事だけで、胸がまた熱くなる。
ブランコが少しだけ揺れる。
鎖がきしむ音が、夜の公園に小さく響いた。
「ノアのこと」
朔が少し真面目な声に戻る。
「うん」
「これからも、たぶんすぐ完全に普通にはならない」
「うん」
「でも、ノアとして一緒にいた時間も、澪としてこれから一緒にいる時間も」
「うん」
「どっちも大事にしたい」
澪は頷いた。
「私も」
「うん」
「ノアをなかったことにはしたくない」
「うん」
「でも、もうノアに隠れない」
それは、自分への約束でもあった。
朔は静かに頷く。
「それならいい」
「うん」
「アステリオでも」
「うん」
「現実でも」
「うん」
「ちゃんと澪を見る」
その言葉に、澪は胸がきゅっとなる。
「……ありがとう」
「また」
「だって」
「うん」
朔は笑った。
「今日は全部受け取る」
その優しさが、今はただ嬉しい。
しばらく二人は、ブランコに座ったまま話した。
明日から急にどう振る舞うのか。
学校ではどこまで言うのか。
夏希にはたぶんすぐバレるというか、もうほとんどバレていること。
ひなや凛花や由良には、ちゃんと自分たちなりに向き合わなければいけないこと。
話すほど、恋は夢ではなく現実になっていく。
それが少し怖くて、でも嬉しかった。
「手」
不意に朔が言った。
「え」
「繋いでもいい?」
心臓が跳ねた。
昨日、涙を拭いてもいいか聞いた時も思った。
朔はこういうところで、ちゃんと確認してくれる。
その優しさが、胸に染みる。
「……うん」
澪が頷くと、朔は少しだけぎこちなく手を伸ばした。
指先が触れる。
少し冷たい。
でも、すぐにあたたかくなる。
手を繋ぐだけで、こんなに心臓がうるさくなるなんて知らなかった。
幼馴染として何度も隣にいたのに、今はまったく違う。
「……緊張する」
澪が小さく言う。
「俺も」
「朔も?」
「するだろ」
「そっか」
「うん」
二人で照れたように笑う。
繋いだ手は、最初は少し硬かった。
でも、少しずつ自然に指が馴染んでいく。
その感覚が、これからの二人みたいだと思った。
急に全部うまくいくわけではない。
ノアのことも、周囲のことも、これから話すべきことはたくさんある。
それでも、こうして少しずつ馴染ませていけばいい。
夜が深くなり、公園の外を通る人影も少なくなった頃、二人はゆっくり立ち上がった。
手は、まだ繋いだままだった。
帰り道、住宅街の灯りが足元を照らしている。
会話は少ない。
でも、繋いだ手の温度だけで十分だった。
家の前に着くと、名残惜しさが胸に残る。
手を離す瞬間、少しだけ寂しくなる。
「また明日」
朔が言う。
「うん」
「彼女として」
不意に言われて、澪の顔が一気に熱くなった。
「……急に言わないで」
「言いたくなった」
「朔って、そういうとこある」
「そういうとこって何」
「ずるいところ」
「またそれ」
朔は笑った。
澪も笑う。
こんなふうに笑える日が来るなんて、少し前までは想像できなかった。
「また明日」
澪は改めて言う。
「うん」
「彼氏として」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなって目を逸らした。
朔が少しだけ驚いて、それから嬉しそうに笑う。
「うん」
やわらかい声だった。
「また明日」
家へ入り、自室へ戻ると、澪はドアを閉めてから、その場にそっと背中を預けた。
胸がいっぱいだった。
好きと言えた。
好きと返ってきた。
そして今日、ちゃんと始めようと言ってもらえた。
机の上には、フルダイブ装置がある。
ノアとして過ごした夜は、これからもなくならない。
でも、もうそこに隠れる必要はない。
ノアも、澪も、どちらも自分。
そして朔は、それを全部込みで隣にいてほしいと言ってくれた。
澪はスマート端末を開く。
朔から、もうメッセージが届いていた。
『また明日』
『彼女として』
画面を見た瞬間、顔が熱くなる。
でも、澪は笑って返信を打った。
『また明日』
『彼氏として』
送信してから、端末を胸に抱く。
隠れていた恋は、終わった。
でも恋そのものが終わったわけではない。
ここから始まる。
同じ名前で。
同じ現実で。
夜の時間も、幼馴染の時間も、全部抱えたまま。
それでも、ここから始めたい。
その願いはもう、澪ひとりのものではなかった。




