第6章 第11話:ずっと好きだったと、やっと同じ名前で言える
夜の公園は、昼間よりずっと小さく見えた。
ブランコが二つ。
古い滑り台。
低いフェンス。
砂場の端に置かれたままの、誰かの忘れ物みたいな小さなバケツ。
子どもの頃から何度も来た場所だった。
朔と一緒に走り回ったこともある。
くだらないことで喧嘩したこともある。
泣いたあと、何も言わずに隣へ座ってもらったこともある。
昔は、この場所に来ることに特別な意味なんてなかった。
ただ近所の公園で、ただ幼馴染と過ごす場所だった。
でも今夜は違う。
澪は公園の入口で、そっと息を吸った。
心臓が痛いほど鳴っている。
パーカーの袖の中で、指先が少し冷たい。
空には薄い雲がかかっていて、街灯の光が公園の地面を淡く照らしていた。
昨日、約束した。
逃げない。
朔も、自分も。
正体を明かした。
ノアも澪も、どっちも君だったと言ってもらえた。
それでもまだ、最後の言葉は残っている。
好き。
ずっと胸の奥にあった言葉。
何度も飲み込んできた言葉。
幼馴染という距離に隠して、ノアという名前に逃がして、それでも消えなかった言葉。
今夜、それを言う。
澪がブランコのほうへ歩いていくと、朔はもうそこにいた。
街灯の少し外側、ブランコの鎖に片手をかけて立っている。
いつものように端末を見ているわけでもなく、ただ静かにこちらを待っていた。
顔を上げる。
目が合う。
「……来た」
朔が言った。
「うん」
澪も小さく返す。
「来た」
たったそれだけのやり取りなのに、胸がいっぱいになる。
二人はしばらく黙っていた。
夜風がブランコの鎖をかすかに揺らし、金属が小さく鳴る。
遠くで車が通り過ぎる音がして、また静かになった。
「座る?」
朔が聞く。
「……ううん」
澪は首を振った。
「立ったままでいい」
「そっか」
朔はブランコから手を離し、澪の正面へ向き直る。
少しだけ距離がある。
でも、今までより遠くはない。
この距離で、ちゃんと言うのだと思った。
「今日」
朔が先に口を開いた。
「ずっと考えてた」
「……うん」
「昨日も、その前も、ずっと考えてたけど」
少しだけ苦く笑う。
「今日が一番、落ち着かなかった」
「私も」
澪は正直に言った。
「授業、全然入らなかった」
「俺も」
「朔も?」
「うん」
「意外」
「意外って何だよ」
ほんの少しだけ空気がゆるむ。
でも、すぐにまた静かになる。
その静けさは怖い。
でも、逃げ出したくなるものではなかった。
今から大事なことを置くための静けさだ。
「澪」
朔が名前を呼ぶ。
「何」
「先に、俺から話していい?」
澪の心臓が大きく鳴った。
「……うん」
「うまく言えるかわからない」
「うん」
「でも、ちゃんと言いたい」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
朔は少しだけ目を伏せた。
言葉を探している顔だった。
いつもならもっと軽く済ませるところで、今はひとつひとつを確かめるようにしている。
「ノアが澪だって知った時」
「うん」
「正直、すぐには受け止められなかった」
「うん」
「びっくりしたし、混乱したし、ちょっと痛かった」
澪は目を伏せる。
その痛みは、ちゃんと受け止めなければいけない。
もう、そこから逃げるつもりはなかった。
「でも」
朔は続ける。
「ノアと話してた時間を思い返したら、全部が嫌になるわけじゃなかった」
「……うん」
「むしろ、ああいうところが澪だったのかって思った」
澪は顔を上げる。
「言葉の選び方とか」
「……」
「困るって言う時の感じとか」
「……」
「こっちが踏み込みすぎた時、逃げるくせにちゃんと残るところとか」
朔は少しだけ笑った。
「全部、澪だった」
胸の奥が熱くなる。
「俺」
朔は静かに言う。
「ノアに惹かれてた」
その言葉に、息が止まりそうになった。
「……うん」
「澪にも、惹かれてた」
続けて置かれた言葉に、目の奥がじわりと熱くなる。
「でも、それを別々に考えてたから、ずっとわけわからなくなってた」
「うん」
「ノアが気になる。澪も気になる」
「……」
「でもその二人が同じだったなら」
朔はゆっくり澪を見る。
「俺はたぶん、ずっと同じ人を見てたんだと思う」
涙が出そうになる。
それは、澪がずっと欲しかった言葉だった。
ノアとして近づいた時間も、澪として言えなかった時間も、どちらも自分だったと受け取ってもらえる言葉。
「朔」
「うん」
「それ、すごく」
声が震える。
「すごく、嬉しい」
「うん」
「でも、泣きそう」
「泣いてもいい」
「今は泣きたくない」
「そっか」
朔は少しだけ困ったように笑う。
その笑い方が、昔から知っている朔で。
でも今は、昔とは違う朔でもあった。
「澪」
もう一度、名前を呼ばれる。
「何」
「まだ、全部綺麗に整理できたわけじゃない」
「うん」
「たぶん、これからも引っかかることはあると思う」
「うん」
「でも」
朔はまっすぐ言った。
「それでも、もう澪のことをただの幼馴染としては見れない」
心臓が強く鳴る。
「ノアとしても、澪としても」
朔の声が、少しだけ低くなる。
「俺にとって、特別になってる」
その言葉が、夜の空気の中で静かに響いた。
特別。
ずっとほしかった場所。
でも、ただの幼馴染の延長ではなく、ノアとしてだけでもなく、朝倉澪として、そこへ届き始めている。
澪は指先を握った。
もう、逃げない。
「朔」
「何」
「私も、言う」
声が震えている。
でも、もう止めない。
「うん」
朔は静かに頷いた。
「聞く」
その一言に背中を押される。
澪はゆっくり息を吸った。
夜の匂いがする。
少し冷たい空気。
街灯の淡い光。
ブランコの揺れる音。
この場所で、ちゃんと自分の名前で言う。
「私」
澪は朔を見る。
「ずっと、朔が好きだった」
言った瞬間、世界が少しだけ止まった気がした。
言えた。
やっと言えた。
幼馴染としてじゃない。
ノアとして隠れたままでもない。
朝倉澪として、神谷朔へ。
「子どもの頃から、ずっと隣にいた」
声が震える。
「でも、いつからかそれだけじゃ足りなくなった」
「……」
「朔の周りに誰かがいるたび、苦しくて」
「……」
「でも、言ったら今までの関係が壊れるのが怖くて」
胸の奥に溜まっていた言葉が、少しずつあふれていく。
「ノアになったのも」
澪は目を逸らさなかった。
「朔に近づきたかったから」
「……うん」
「ずるかったと思う」
「うん」
「でも、ノアとして話せた時間も、本当に大事だった」
「うん」
「アークの隣にいられるのが嬉しかった」
「うん」
「でも、朝倉澪として届きたいって、ずっと思ってた」
喉が熱い。
泣きそうだ。
でも、言い切りたい。
「だから」
澪は一歩だけ前へ出た。
「今、ちゃんと言う」
朔の目が揺れる。
「朔が好き」
胸が痛いほど熱い。
「幼馴染としてじゃなく」
「……」
「ノアでもなく」
「……」
「私として、朔が好き」
言い切った。
夜風が吹く。
ブランコの鎖が小さく鳴る。
遠くの家の窓に灯る光が、ぼんやり揺れて見えた。
朔は何も言わなかった。
数秒。
それとももっと長く。
澪には時間がわからなかった。
怖い。
でも、後悔はなかった。
言わないまま終わるほうが、ずっと怖かったから。
やがて、朔がゆっくり息を吐いた。
「……すごいな」
最初に出たのは、そんな言葉だった。
澪は少しだけ目を瞬かせる。
「何が」
「今の」
朔は苦く笑う。
「全部、ちゃんと来た」
その声が少し震えている気がした。
「澪」
「うん」
「俺も」
その二文字で、胸がまた大きく鳴る。
朔は一度目を伏せた。
そして、逃げないように顔を上げる。
「俺も、澪が好きだと思う」
言葉は少し不器用だった。
でも、だからこそ朔らしかった。
「思う?」
澪は思わず聞き返してしまう。
朔は少しだけ焦ったように眉を寄せる。
「いや、違う」
「違う?」
「言い方が逃げた」
朔は自分で苦笑した。
それから、もう一度息を吸う。
「澪が好きだ」
今度は、はっきり言った。
澪の胸の奥で、何かがほどけた。
「ノアとしても惹かれてた」
「……うん」
「澪としても、気づいたらずっと見てた」
「……うん」
「正体を知って、驚いて、混乱したけど」
「うん」
「でも、会いたいのは変わらなかった」
「うん」
「話したいのも、隣にいてほしいのも、変わらなかった」
朔の声が、少しずつ熱を持っていく。
「だから」
彼は言った。
「もう、それ以外で見れない」
涙が、こぼれた。
我慢したかった。
でも無理だった。
頬を伝う涙に気づいて、澪は慌てて袖で拭おうとする。
その手を、朔が少しだけ迷ってから、そっと止めた。
「……拭いていい?」
朔が聞く。
そんなところまで確認するのが朔らしくて、澪は泣きながら少し笑った。
「うん」
返事をすると、朔は指先でそっと涙を拭った。
触れたところが熱い。
近い。
こんなに近いのに、怖くない。
いや、怖さはある。
でも、それ以上に嬉しかった。
「泣かせた」
朔が困ったように言う。
「泣かせた」
「ごめん」
「でも、嬉しいから」
「なら、よかった……のか?」
「たぶん」
二人とも少しだけ笑う。
その笑いが、胸の奥へ深く染みていく。
「朔」
「何」
「本当に?」
「何が」
「好きって」
聞くのはずるいかもしれない。
でも、どうしても確かめたかった。
朔は真面目な顔で頷いた。
「本当に」
「後悔しない?」
「今それ聞く?」
「聞きたい」
「しない」
即答だった。
「混乱はまだある」
「うん」
「話さなきゃいけないこともある」
「うん」
「でも、好きだって言ったことは後悔しない」
その言葉で、澪はまた泣きそうになる。
「……ありがとう」
「また」
「だって」
「うん」
朔は少しだけ笑う。
「今日は受け取る」
その言い方に、澪も涙の残る顔で笑った。
少しの沈黙。
でも、今までのどの沈黙とも違った。
隠していたものが、ひとつになった。
好きという言葉が、ようやく同じ場所に置かれた。
まだ未完成でも、まだ不安が残っていても、今の沈黙は温かかった。
「これで」
澪は小さく言う。
「終わりじゃないよね」
「終わりじゃない」
朔はすぐに返した。
「むしろ、これからだろ」
「これから」
「うん」
「どうすればいいのかな」
「それ、今から二人で考えるやつじゃないの」
その言葉に、胸の奥がじんとする。
二人で。
その言葉が、今はとても大きい。
「朔」
「うん」
「私、ちゃんと隣にいたい」
「うん」
「ノアとして逃げるんじゃなくて」
「うん」
「澪として」
朔は静かに頷いた。
「俺も」
「うん」
「澪に、隣にいてほしい」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
夜の公園の空気は冷たい。
でも、二人の間だけは少しだけあたたかかった。
ブランコはまだ小さく揺れている。
昔から変わらない公園で、
昔から知っている幼馴染に、
澪はようやく、ずっと言えなかった言葉を渡した。
そしてその言葉は、ちゃんと返ってきた。
帰り道、二人は並んで歩いた。
距離は近い。
でも、急に全部が変わったわけではない。
触れるか触れないかの距離で、少しぎこちなく歩く。
それすらも、今は嬉しかった。
家の前に着くと、朔が立ち止まった。
「じゃあ」
「うん」
「また明日」
「……うん」
いつもの言葉。
でも、今日は意味が違う。
朔は少しだけ迷ってから、言った。
「澪」
「何」
「好きだ」
不意打ちだった。
澪の顔が一気に熱くなる。
「……もう言った」
「言ったけど」
「何でまた」
「言いたくなった」
そんなことを真顔で言うから、澪はどうしようもなく胸がいっぱいになる。
「……私も」
小さく返す。
「好き」
朔は目を細め、少しだけ照れたように笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
家へ入って、自室のドアを閉めた瞬間、澪はその場に座り込んだ。
足の力が抜けた。
涙がまた少しだけ出た。
でも今度の涙は、怖さではなかった。
「……言えた」
小さく呟く。
ずっと好きだった。
幼馴染としてじゃなく、ノアでもなく、私として。
やっと同じ名前で言えた。
そして、返ってきた。
その事実だけで、胸の奥が信じられないくらい熱かった。




