第6章 第10話:恋として言うには、まだ少しだけ怖い
翌朝、澪はスマート端末の画面を何度も見返していた。
『明日、少し話したい』
『俺も』
『現実で話そう』
昨夜のやり取りは、短い。
でも、その短さの中に、今までとは違う確かさがあった。
ノアとしてではなく。
アークとしてでもなく。
現実で、朝倉澪と神谷朔として話す。
それが嬉しい。
嬉しいのに、胸の奥はずっと落ち着かなかった。
正体を明かした。
ノアも澪も、どっちも君だったと言ってもらえた。
それだけで、今まで抱えていた罪悪感や不安の一部は確かにほどけた。
でも、だからこそ、次に残っている言葉が重い。
好き。
ずっと胸の中にあった一番単純な言葉。
それなのに、正体を明かすより怖い気がした。
「……何で」
鏡の前で髪を整えながら、澪は小さく呟いた。
あんなに大きな秘密を言えたのに、どうして今さら好きの二文字がこんなに怖いのだろう。
答えはわかっている。
正体は、隠していたものを差し出す言葉だった。
でも好きは、これからを求める言葉だ。
受け止めてほしい。
同じ気持ちでいてほしい。
隣にいたい。
そういう願いが全部入ってしまうから、怖い。
家を出ると、朝の空気は少しだけ涼しかった。
住宅街の道には薄い光が落ちていて、遠くで車が走る音がする。曲がり角を曲がれば、朔がいる。
今まで何度も繰り返してきた朝のはずなのに、今日は足が少し重かった。
角を曲がる。
朔は、いつもの場所にいた。
電柱のそばで端末を見ていて、澪に気づくと顔を上げる。
目が合った瞬間、互いに少しだけ動きが止まった。
「……おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
距離は、昨日より少し自然だった。
でも、前と同じではない。
戻ったのではなく、少しずつ作り直している途中の距離。
それが、今の二人にはちょうどよかった。
「昨日」
朔が口を開く。
「ログインして、話せてよかった」
「……私も」
「だいぶ、整理できた」
「うん」
「まだ全部じゃないけど」
「うん」
短い会話の中に、今までより深いものがある。
それが少しだけ嬉しくて、でも胸の奥がざわつく。
整理できた。
なら、次は何を話すのだろう。
現実で話そうと言った今日、二人はどこまで踏み込むのだろう。
「放課後」
朔が言う。
「時間、大丈夫?」
「うん」
「昨日と同じ、旧校舎の渡り廊下でいい?」
「……うん」
あの場所。
ノアが自分だと明かした場所。
怖い場所でもある。
でも、あそこで続きを話すことには意味がある気がした。
「澪」
「何」
「今日は」
朔は少しだけ言葉を探した。
「ちゃんと、俺のほうからも話す」
その一言に、胸が強く鳴る。
「……うん」
「うまく言えるかわからないけど」
「うん」
「でも、言う」
それは、逃げないという意思だった。
澪は小さく頷く。
嬉しい。
でも、怖い。
朔が何を言うのか聞きたいのに、聞いたらもう戻れない気がする。
学校へ着くと、教室の空気はいつも通りだった。
でも周囲の視線は、昨日より少しだけ多い気がした。
ひなは何か言いたそうにこちらを見て、凛花は一瞬だけ目を細め、由良は静かに微笑んだ。
何かが変わっていることは、もう隠せていない。
けれど今の澪は、その視線から逃げたいとは思わなかった。
席に座ると、夏希がすぐに寄ってきた。
「今日?」
「……うん」
「神谷と話す?」
「うん」
「どこまで?」
その問いに、澪は答えに詰まった。
どこまで。
正直、自分でもわからない。
でも、きっと好きという言葉のすぐ手前までは行く。
あるいは、その向こうへ行ってしまうかもしれない。
「わからない」
澪は小さく言った。
「でも、逃げない」
夏希は少しだけ表情をやわらげる。
「それならいい」
「怖い」
「そりゃそうでしょ」
「正体のこと言うより、怖いかも」
そう言うと、夏希は少しだけ目を細めた。
「そっちのほうが本丸だからじゃない?」
「本丸」
「正体は過去のことも含むけど、好きはこれからのことだから」
その言葉に、澪は胸の奥をぎゅっと掴まれた気がした。
そうだ。
まさにそれだ。
好きと言うことは、これからを求めることだ。
だから怖い。
壊れるだけではなく、選ばれない未来まで見えてしまうから。
「朝倉」
「何」
「言うかどうかは、その時決めればいいよ」
「うん」
「でも、言いたい気持ちだけは嘘にしないほうがいい」
澪は頷いた。
言いたい。
それはもう、確かだった。
怖くても、言いたい。
幼馴染としてではなく、ノアとしてでもなく、朝倉澪として。
午前中の授業は、ほとんど上の空だった。
黒板の文字を写していても、すぐに放課後のことを考えてしまう。
朔の背中を見るたびに、胸が熱くなる。
もう彼はノアのことを知っている。
その上で、現実の自分と話そうとしている。
それは、どれだけ大きなことなのだろう。
昼休み、澪は廊下へ出て、少しだけ一人になろうとした。
けれど、窓際に立っていると、すぐに足音が近づいてきた。
「朝倉先輩」
振り向くと、ひながいた。
今日はいつもの明るさより、少しだけ真面目な顔をしている。
「……何」
「今日、神谷先輩と話すんですか?」
いきなり核心だった。
澪は少しだけ目を伏せる。
「うん」
「やっぱり」
ひなは小さく頷いた。
「何か、今日の二人、そういう顔してます」
「そういう顔って」
「ちゃんと逃げない顔」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
「ひな」
「はい」
「怖い」
思わず言っていた。
ひなは目を丸くしたあと、少しだけ笑う。
「怖いですよね」
「うん」
「でも、好きって怖いです」
あまりにまっすぐ言われて、澪は言葉を失う。
「好きって」
ひなは続ける。
「言ったら、返ってこないかもしれないじゃないですか」
「……うん」
「でも、言わないと何も返ってこないんですよ」
その言葉は、明るいのに痛かった。
返ってこないかもしれない。
でも、言わないと何も返ってこない。
ひなはそれを実際にやった子だ。
好きだと伝えた。
返事がなくても、それでも言った。
だからその言葉には重みがある。
「朝倉先輩」
「何」
「今日、言えなくてもいいです」
ひなは少しだけ笑う。
「でも、言いたいなら、ちゃんとその気持ちは持って行ってください」
澪は小さく頷いた。
「……ありがとう」
「わたし、まだ悔しいですけど」
「うん」
「でも、逃げる先輩より、ちゃんと行く先輩のほうが好きです」
その言い方に、思わず胸が詰まった。
「……ひな、強いね」
「強くないです」
ひなはすぐ返す。
「でも、弱いままでも行くって決めてるだけです」
そう言って、軽く手を振って教室へ戻っていった。
弱いままでも行く。
その言葉が、昼休みの終わりまでずっと胸に残った。
放課後が近づくにつれて、澪の緊張はどんどん高まっていった。
六限の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室のざわめきが一気に広がる。
椅子が引かれ、鞄が閉められ、誰かが部活の話をしながら出ていく。
澪はゆっくり立ち上がった。
前方で、朔も席を立つ。
目が合う。
今日は、互いに逸らさなかった。
旧校舎へ続く渡り廊下は、前と同じように夕方の光が差し込んでいた。
窓の外の中庭では、木々の影が床へ揺れている。
あの日、ノアが自分だと告げた場所。
今日は、その続きを話す場所。
澪が先に着いて少し待っていると、朔の足音が近づいてきた。
「待たせた?」
「ううん」
「そっか」
短いやり取り。
でも、この場所ではその短さすら重い。
二人は前と同じように向き合った。
少し距離を置いて。
でも、あの日よりは少しだけ近く。
「昨日」
朔が先に口を開いた。
「ノアとして話して、かなり整理できた」
「うん」
「ノアも澪も、どっちも君だったって」
「……うん」
「それは今も変わってない」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。
「ありがとう」
「うん」
「本当に、救われた」
朔は小さく頷いた。
「俺も」
「え」
「そう思えたことで、かなり楽になった」
朔は窓の外へ少しだけ視線を向ける。
「でも、まだ残ってることがある」
澪の心臓が強く鳴る。
「残ってること?」
「うん」
朔は視線を戻した。
「ノアと澪が同じだって受け止めたあとで」
「うん」
「じゃあ俺は、澪のことをどう見てるんだろうって」
息が止まりそうになった。
その問いは、まさに澪が一番怖がっている場所だった。
正体を受け止めたあと、その先に恋があるのか。
それとも、大事な相手としての整理で止まるのか。
「……考えた?」
澪の声は小さかった。
「考えた」
朔は少しだけ苦く笑う。
「でも、言葉にするの、こんな難しいんだな」
その言い方に、胸がじわりと痛む。
朔も怖いのだ。
自分の気持ちに名前をつけることが。
「私も」
澪は小さく言った。
「正体より、好きのほうが怖いなんて思わなかった」
言った瞬間、空気が静かに震えた気がした。
好き。
また、その言葉を口にした。
まだ告白ではない。
でも、明らかにその近くにある言葉だった。
朔の目が揺れる。
「澪」
「……うん」
「今の」
「わかってる」
澪は視線を逸らさなかった。
「かなり、近いこと言ってる」
「うん」
「でも」
声が震える。
「まだ、少し怖い」
朔は長く息を吐いた。
「俺も」
静かな声。
「怖い」
「朔も?」
「うん」
「何が」
「言葉にしたら、ほんとに変わるだろ」
その通りだ。
言葉にすることは、世界を変える。
正体を明かした時のように。
いや、もしかするとそれ以上に。
「でも」
朔が続ける。
「変わるのが嫌なわけじゃない」
「……」
「ただ、ちゃんとしたい」
その言葉に、澪の胸がまた熱くなる。
ちゃんとしたい。
朔らしい。
不器用だけれど、雑にしない。
だからこそ、この人を好きになった。
「私も」
澪は言う。
「ちゃんとしたい」
「うん」
「ノアとして隠れてた時間も、澪として近くにいた時間も」
「うん」
「全部含めて、ちゃんと言いたい」
そこまで言って、喉が詰まった。
言いたい。
でも今日はまだ、言い切れない。
それが自分でもわかった。
怖さがなくならない。
けれど、逃げではない。
次にちゃんと言うための、一歩手前だ。
朔はそれを見て取ったように、少しだけ表情をやわらげた。
「今日、無理に言わなくていい」
「え」
「俺も、まだ完璧に言える気がしない」
朔は困ったように笑う。
「でも、逃げたくはない」
「うん」
「だから」
彼はまっすぐ澪を見る。
「次、ちゃんと会って話そう」
その言葉に、胸が強く鳴る。
「次」
「うん」
「逃げるための次じゃなくて?」
「違う」
即答だった。
「ちゃんと言うための次」
その返しに、澪の目の奥が熱くなる。
逃げるためではなく、言うための次。
それなら、今の自分にも受け取れる。
「……うん」
澪は頷いた。
「会う」
「場所、どうする」
「公園」
ほとんど反射で言っていた。
「夜の?」
「うん」
「あそこか」
「うん」
幼い頃から何度も一緒にいた場所。
何度も少しずつ近づいてきた場所。
たぶん、次に言うならあそこがいいと思った。
「わかった」
朔は頷く。
「明日」
「明日?」
「うん」
澪の胸がまた跳ねる。
早い。
でも、これ以上先延ばしにしたくもない。
「……うん」
「明日、夜」
「うん」
「ちゃんと話す」
朔がそう言う。
澪も、同じように頷いた。
「ちゃんと話す」
言葉にすると、少しだけ怖さが形を持つ。
でも、その形はもう逃げ出したいだけのものではなかった。
渡り廊下には夕方の光が満ちていた。
前にここで正体を明かした時より、少しだけ空が明るく見える。
すべてが解決したわけじゃない。
まだ、好きという言葉は宙に浮いたままだ。
でも、もう逃げてはいない。
二人とも、同じ方向を見ようとしている。
「澪」
朔が呼ぶ。
「何」
「明日、逃げない?」
少しだけ冗談めかした言い方だった。
でも、声は真面目だった。
「逃げない」
澪は答える。
「朔は?」
「逃げない」
「うん」
その約束だけで、今は十分だった。
帰り道、二人は途中まで並んで歩いた。
会話は多くなかった。
でも沈黙は、前より少しだけあたたかかった。
明日、ちゃんと言う。
その約束が、二人の間に静かに置かれている。
家へ帰って自室に入ると、澪はベッドへ腰を下ろした。
胸の奥はまだずっと騒がしい。
怖い。
でも、明日が来ることを、怖いだけではなく待っている自分もいる。
「……好きのほうが怖いなんて」
小さく呟く。
でも、それでいいのかもしれない。
それだけ本気だということだから。
澪はスマート端末を開き、朔とのメッセージ画面を見る。
少し迷ってから、短く打った。
『明日、逃げない』
送信すると、すぐに既読がつく。
『俺も』
その二文字を見て、澪は端末を胸に抱いた。
恋として言うには、まだ少しだけ怖い。
でも、その怖さごと、明日へ持っていくと決めた。




