第6章 第9話:ノアも澪も、どっちも君だった
その日の夜、澪はログインするかどうかを、いつもより長く迷っていた。
部屋の明かりは落としてある。
机の上にはスマート端末が置かれ、その横にフルダイブ装置が静かに待っている。窓の外では、住宅街の灯りがぽつぽつと並び、遠くを走る車の音だけが低く流れていた。
昨日までと同じ夜。
でも、もう同じではない夜。
ノアが澪だと朔に明かしてから、世界の見え方が少しずつ変わっている。
朝の通学路も、教室の視線も、ライバルたちの言葉も、朔との沈黙も。
全部が、知ったあとの距離になっていた。
戻るのではなく、作り直す。
由良に言われたその言葉が、ずっと胸に残っている。
スマート端末が小さく震えた。
朔からだった。
『今日、少しログインできる?』
澪の心臓が跳ねる。
指先が画面の上で止まる。
ノアとして会う。
でも、もうノアだけではいられない。
アークとして会う。
でも、その向こうには朔がいる。
それでも、会いたいと思った。
『できる』
送ると、すぐに既読がつく。
『前に行った水鏡庭でいい?』
『今日は少し、ちゃんと話せそう』
その一文を見た瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。
ちゃんと話せそう。
それは朔の中で、少しずつ何かが整理され始めているということだろうか。
期待してしまう。
でも期待しすぎるのが怖い。
澪は深く息を吸い、フルダイブ装置へ手を伸ばした。
視界が暗転し、意識が沈む。
次に目を開けた時、ノアは《薄明の水鏡庭》に立っていた。
薄紫の空。
浅い水面。
点々と浮かぶ石の飛び石。
遠くに白い東屋があり、水面には月と朝焼けが混ざったような淡い光が揺れている。
戦闘のない、静かな場所。
けれど今のノアには、どんな高難度エリアよりも緊張する場所だった。
『ノア』
声がした。
振り向くと、アークが少し離れた飛び石の上に立っていた。
黒い装備も、背負った剣も、見慣れたままだ。
でも、こちらを見る目だけが以前と違う。
ノアだけを見る目ではない。
澪を知ったあとで、ノアを見る目だった。
「……アーク」
呼ぶと、彼はほんの少しだけ息を吐いた。
『来てくれて、ありがと』
「うん」
『今日は』
そこで少しだけ言葉を探す。
『昨日より、話せると思う』
「……うん」
ノアは小さく頷いた。
二人は水面の上に浮かぶ石を渡り、白い東屋のそばまで歩いた。
足元の水がわずかに揺れ、二人分の影をぼんやり歪ませる。
アークとノア。
朔と澪。
その影は、まだきれいに重ならない。
東屋の前で、アークが立ち止まった。
『ずっと考えてた』
低い声だった。
「うん」
『ノアのことと、澪のこと』
その名前を並べて言われるだけで、胸が少し痛む。
でも、もう逃げる痛みではなかった。
『最初は、全然追いつかなかった』
「うん」
『ノアに言ってたことを、澪が知ってたって思うと、正直きつい部分もあった』
「……うん」
『今も、そこが全部平気になったわけじゃない』
ノアは目を伏せた。
当然だと思う。
むしろ、それを正直に言ってくれることがありがたかった。
痛いものを痛くないふりで包まれたら、きっともっと怖かった。
「うん」
ノアは静かに答える。
「それは、ちゃんと受け止めたい」
『うん』
アークは小さく頷いた。
水面を渡る風が、二人の間を抜ける。
しばらく、静かな水音だけが響いた。
『でも』
アークが再び口を開く。
『それだけじゃなかった』
「……それだけ?」
『混乱とか、驚きとか、そういうのだけじゃなかった』
ノアは顔を上げた。
アークは水面に映る自分たちの影を見ていた。
少しだけ迷うように視線を落とし、それからまっすぐこちらを見る。
『ノアと話して楽だったこと』
「うん」
『ノアに助けられたこと』
「……うん」
『一緒に戦って、一番やりやすいと思ったこと』
胸の奥が静かに震える。
『それを、澪がやってたんだって思ったら』
アークは少しだけ息を吸った。
『腹が立つとかより先に、納得した部分もあった』
「納得?」
『うん』
彼は小さく頷く。
『澪と話してる時も、最近ずっと思ってた』
「……何を」
『前より近いのに、どこかで知ってる感じがするって』
その言葉に、ノアは息を止めた。
『ノアといる時も同じだった』
アークは続ける。
『会ったばかりのはずなのに、なんか話しやすくて、戦いやすくて、黙ってても変じゃなくて』
それは、ノアとして何度も感じていたことだった。
きっとアークも同じように感じていたのだ。
『それが全部、澪だったなら』
アークの声が少しだけやわらかくなる。
『変に納得できるところもある』
ノアは言葉が出なかった。
許されたわけではない。
全部がきれいに片づいたわけでもない。
それでも、ノアとしての時間がただの嘘や裏切りだけではないと受け止めてもらえている。
それが、どうしようもなく胸に染みた。
「……私」
ノアはゆっくり口を開く。
「ノアとして朔に近づいたこと、ずっとずるいと思ってた」
『うん』
「でも、ノアでいた時間も、本当だった」
声が少しだけ震える。
「楽しかったし、嬉しかったし、救われた」
『うん』
「嘘にしたくなかった」
言い終えると、アークは静かに頷いた。
『俺も』
「え」
『嘘にはしたくない』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
『隠されてたことは、まだ引っかかる』
「うん」
『そこは消えない』
「うん」
『でも、ノアと過ごした時間が嘘だったとは思いたくない』
アークは少しだけ苦く笑った。
『たぶん、それを嘘にしたら、俺のほうがしんどい』
ノアは目を伏せた。
水面に映った自分の顔が、少し滲んで見える。
「……ありがとう」
『うん』
「何回言っても足りない」
『言いすぎると困る』
「でも」
『でも、今は受け取る』
その返しが朔らしくて、澪は思わず少しだけ笑った。
笑えた。
正体を明かしてから、初めてノアとしてアークの前で自然に笑えた気がした。
アークも、それを見て少しだけ表情を緩める。
その変化が、今のノアにはとても大きく感じられた。
『澪』
アークが言った。
ノアの姿のまま、その名前で呼ばれる。
まだ胸は少し痛む。
でも、昨日ほど息が詰まる痛みではなかった。
「……うん」
『ノアも澪も』
アークはゆっくり言葉を置く。
『どっちも君だった』
その一言で、ノアは呼吸を忘れた。
どっちも君だった。
その言葉が、水鏡庭の静けさの中で、深く深く胸へ沈んでいく。
『ノアとして惹かれたところもある』
「……」
『澪として、ずっと近くにいて当たり前だと思ってたところもある』
「……」
『その二つが別々だと思ってたから、混乱した』
アークは少しだけ目を伏せる。
『でも、別じゃなかった』
ノアの目の奥が熱くなる。
『ノアも澪も、どっちも君だった』
もう一度、彼は言った。
『だから』
少しだけ息を吸う。
『たぶん、最初からずっと君に惹かれてたんだと思う』
言葉が、出なかった。
嬉しいとか、苦しいとか、そういう一つの感情では足りない。
今まで別々に抱えてきた時間が、ようやく一本の線になっていくようだった。
ノアとして近づいた夜も、
朝倉澪として言えなかった日々も、
どちらも自分だったと、ようやく誰かに認めてもらえた気がした。
「……そんなの」
声が震える。
「泣く」
『泣くなとは言えない』
「ずるい」
『それは何回も言われた』
「何回でも言う」
言いながら、ノアの視界が滲んだ。
水面に落ちる涙はない。
アバターの涙は現実の身体とは違う。
それでも、胸の奥からこみ上げるものは本物だった。
「私」
ノアは震える声で続ける。
「ずっと、どっちかが偽物みたいになるのが怖かった」
『うん』
「ノアとして近づいたことが、ただの嘘になるのも怖かった」
『うん』
「澪としての気持ちが、ノアに隠れてたって思われるのも怖かった」
『うん』
「でも」
言葉が詰まる。
「今、少しだけ」
ノアは胸元に手を当てる。
「自分がひとつに戻った気がする」
アークは静かに聞いていた。
茶化さず、急かさず、ただちゃんと受け止める。
『それなら』
彼は言う。
『よかった』
「うん」
『まだ全部整理できたわけじゃない』
「うん」
『でも、そこは今、ちゃんと言っておきたかった』
その声には、朔としての誠実さと、アークとしての近さが混ざっていた。
もう、完全には分けられない。
それでいいのだと思った。
しばらく二人は、水面を見ていた。
薄紫の空が少しずつ深い青へ変わり、遠くの東屋の柱が静かに影を落とす。
沈黙はまだ少しぎこちない。
でも、前より苦しくなかった。
「アーク」
『何』
「今、アークって呼ぶの」
『うん』
「前より、少しだけ大丈夫になった」
アークは一瞬だけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
『俺も』
「え」
『ノアって呼ぶの、さっきより少しだけ大丈夫』
その言葉に、また胸が熱くなる。
痛みが消えたわけではない。
でも、少しずつ形を変えている。
その変化を、二人で確かめている。
『ただ』
アークが続ける。
『現実でも話したい』
「……うん」
『アークとしてじゃなくて、朔として』
「うん」
『ノアじゃなくて、澪に』
ノアはゆっくり頷いた。
「私も」
「澪として、話したい」
そう言えたことが、今夜は何より大きかった。
ログアウトの時間が近づいても、二人はすぐに別れなかった。
何か大きな話を続けたわけではない。
ただ、同じ場所にもう少しだけいた。
それだけで、切れかけた糸を少しずつ結び直しているような気がした。
『じゃあ』
アークが言う。
『また明日』
「……うん」
『現実で』
その言葉に、ノアは少しだけ息を吸った。
「うん」
「現実で」
ログアウトして目を開けると、部屋は静かだった。
天井の暗がりを見つめたまま、澪はしばらく動けなかった。
胸の奥が、まだ熱い。
痛みは残っている。
不安もある。
でも、その奥に、今までとは違う救いがあった。
ノアも澪も、どっちも君だった。
その言葉が、何度も胸の中で響く。
ずっと別々に抱えてきた自分が、ようやく同じ一人として受け取られた。
完全ではない。
まだ怖い。
でも、もう自分のどちらかを捨てなくていいのかもしれない。
澪はスマート端末を手に取り、朔とのメッセージ画面を開いた。
少し迷ってから、短く打つ。
『明日、少し話したい』
送ると、すぐに既読がついた。
『俺も』
『現実で話そう』
その文字を見て、澪は胸に手を当てた。
夜の君と、現実の私。
その二つが、ようやく同じ名前で向き合うところまで来ていた。




