第6章 第8話:知ったあとで、変わる距離
翌朝の教室は、いつもと同じようにざわついていた。
机を引く音。
椅子に鞄を掛ける音。
端末の通知音。
誰かが笑って、誰かが昨日の配信の話をして、先生が来る前の短い時間だけ、教室は少しだけ自由な熱を持つ。
その全部がいつも通りなのに、澪には少し違って見えた。
たぶん、変わったのは教室ではない。
自分と朔の間にある距離だ。
朝の通学路では、昨日より少しだけ話せた。
ぎこちなさはまだ残っている。名前を呼ばれるだけで、胸の奥が少し痛むこともある。
けれど、朔は言った。
――会いたいのは、変わらなかった。
その言葉が、澪の中でまだ静かに灯っている。
席に着くと、夏希がすぐ横から覗き込んできた。
「今日、昨日より顔いいね」
「……そう?」
「うん。まだ死にかけだけど、昨日よりは生きてる」
「言い方」
「事実」
夏希は机に頬杖をつきながら、前方へ視線を流す。
「神谷も、昨日よりちょっとまし」
澪は反射的に朔のほうを見そうになって、途中で止めた。
けれど、止めきれなかったらしい。
前方の席で端末を見ていた朔が、ちょうどこちらを振り返った。
目が合う。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬に昨日までとは違うものがあった。
気まずさ。
照れ。
まだ整理しきれていない痛み。
それでも、目を逸らさない意思。
朔は少しだけ困ったように笑った。
澪も、ぎこちなく小さく頷く。
それだけだった。
でも、教室の空気の中で、その小さなやり取りは思ったより目立ったらしい。
「……あれ?」
後方からひなの声がした。
明るいけれど、少しだけ探るような声だった。
澪は肩を揺らす。
振り返ると、ひなが自分の席の近くで首を傾げていた。
「何か」
ひなは朔と澪を交互に見る。
「前と違いますね」
その一言に、胸の奥がきゅっと縮む。
前と違う。
やっぱり、見えてしまうのだ。
自分たちがどれだけ普通の顔をしようとしても、知ったあとで変わった距離は、周りからも少しずつ見えてしまう。
「何が」
朔が前方から少しだけ困ったように返す。
「空気です」
ひなは遠慮がない。
「何か、二人とも変」
「変って」
「変です」
ひなはきっぱり言った。
「でも、悪い変じゃないです」
その言葉に、澪は少しだけ目を伏せた。
悪い変じゃない。
そう見えているのなら、少しだけ救われる。
けれど、ひなはそこで終わらなかった。
少しだけ笑顔を弱めて、澪へ視線を向ける。
「朝倉先輩」
「……何」
「何かありました?」
まっすぐ聞いてくる。
ひならしい。
逃げ道を塞ぐというより、明るい顔で正面から歩いてくる。
澪はすぐには答えられなかった。
ノアのことを言えるはずがない。
でも、何もないとも言えない。
「……少し」
それだけ言うと、ひなは目を丸くした。
「少し」
「うん」
「そっか」
ひなは何かを飲み込むように頷いた。
「少し、なんですね」
その言い方には、納得と寂しさが混じっている気がした。
ホームルームが始まる直前、凛花が教室へ入ってきた。
いつも通りの落ち着いた足取りで、自分の席へ向かう。
けれど、澪と朔の間に流れる空気を一瞬で見たのだろう。
足を止めるほどではない。
ただ、視線だけがほんの少し鋭くなった。
凛花は、何も言わなかった。
言わなかったからこそ、澪にはその視線が重く感じられた。
由良は少し遅れて教室へ入ってきた。
資料を抱えたまま、いつものように静かに歩く。
彼女もまた、朔の横を通り過ぎる時に一度だけ澪を見た。
その目は、ひなのように直接聞くものでも、凛花のように勝負を測るものでもない。
もっと静かで、深い。
何かが決定的に変わったのだと、言葉にしなくても理解している目だった。
知ってしまった後の距離。
由良の目は、まるでそう言っているようだった。
授業中、澪は何度もペンを止めた。
ノートの上には板書が並んでいる。
でも、頭の中では朝の教室での視線ばかりがよみがえっていた。
ひなに気づかれた。
凛花にも見られた。
由良にも、たぶん察された。
誰もノアのことは知らない。
でも、澪と朔の間に何かがあったことは、もう隠しきれない。
正体を明かしたことで、二人の間だけが変わったのではない。
周囲との関係も、少しずつ形を変え始めている。
昼休み、澪が弁当を開けようとした時、凛花が近づいてきた。
「朝倉さん」
静かな声。
「少しだけいい?」
澪は箸を置いた。
「……うん」
教室の外へ出ると、廊下は昼休みのざわめきで満ちていた。
それでも凛花は、人の流れから少し外れた窓際で立ち止まる。
数秒、沈黙があった。
先に口を開いたのは凛花だった。
「何かあったよね」
遠回しではなかった。
「……」
「言えないことなら聞かない」
凛花はまっすぐ澪を見る。
「でも、空気が変わったのはわかる」
その言い方が、ひどく凛花らしかった。
踏み込む。
でも、踏み荒らさない。
恋では強く前へ出るのに、相手が本当に守りたいものへは不用意に触れない。
「……うん」
澪は小さく頷いた。
「変わった」
「神谷くんも?」
「たぶん」
「そっか」
凛花は目を伏せる。
その横顔に、一瞬だけ痛みが見えた気がした。
でもすぐに消える。
「私」
凛花が言う。
「まだ譲ったわけじゃない」
「……うん」
「でも」
少しだけ息を吐く。
「朝倉さんがちゃんと前に出たことは、わかる」
その言葉に、澪の胸が少し熱くなる。
「私、まだ全部うまくできてない」
「それでも」
凛花は澪を見る。
「逃げてる顔じゃなくなった」
その一言が、思っていた以上に深く刺さった。
逃げてる顔じゃなくなった。
そう見えているのなら、自分は少しだけ変われているのかもしれない。
「……ありがとう」
澪が言うと、凛花は少しだけ目を細めた。
「お礼を言われることじゃない」
「でも」
「私は私で行く」
凛花ははっきり言った。
「だから、朝倉さんも中途半端な顔しないで」
その厳しさが、今はありがたかった。
「うん」
澪は頷く。
「もう、中途半端にはしたくない」
凛花はそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「ならいい」
それだけ言って、教室へ戻っていった。
午後の授業が終わる頃には、澪の胸の中にまた別の重さが生まれていた。
朔との距離が変わった。
それを周囲も感じ始めている。
このまま何もなかったふりはできない。
放課後、教室で帰り支度をしていると、今度は由良がそっと近づいてきた。
「朝倉さん」
「……何」
「今日、少しだけ顔が違うね」
澪は苦笑しそうになる。
「みんな、それ言う」
「みんな気づくくらい違うんだと思う」
由良はやわらかく言う。
そのまま二人で教室の後ろ側へ少し移動する。
窓から夕方の光が入り、机の影が長く伸びていた。
「何があったかは聞かない」
由良が言う。
「でも、神谷くんとの間で何か大事なことがあったんだろうなって思った」
「……うん」
「知ったあとで、変わる距離ってあるよね」
澪は息を止めた。
やっぱり、由良は鋭い。
何も知らないはずなのに、核心に近い言葉を静かに置いてくる。
「白瀬さん」
「うん」
「何で、そういうことわかるの」
由良は少しだけ困ったように笑った。
「わかるというより」
彼女は言う。
「朝倉さんが、もう隠れてるだけの顔じゃなかったから」
その言葉に、胸が揺れる。
隠れてるだけの顔。
自分はずっと、そうだったのだろうか。
見守るふりをしながら、夜の名前に隠れながら、好きな人の近くにいた。
でも今は、少しだけ違う。
隠していたものを差し出したあとだから。
「苦しい?」
由良が静かに聞く。
「……苦しい」
「でも、少し楽?」
その問いに、澪は驚いた。
でもすぐに、小さく頷く。
「うん」
「そっか」
由良はやさしく笑う。
「なら、ちゃんと進んでるんだと思う」
その言葉は、静かに澪の胸へ染みた。
由良はそれ以上、深く聞かなかった。
ただ最後に、少しだけ真面目な声で言う。
「朝倉さん」
「何」
「変わった距離って、戻すものじゃなくて、作り直すものだと思う」
澪はその言葉を、しばらく黙って受け止めた。
戻すのではなく、作り直す。
まさに今、朔と自分に必要なのはそれなのかもしれない。
「……ありがとう」
そう言うと、由良は首を横に振った。
「私も、まだ諦めたわけじゃないけどね」
やわらかい声だった。
でも、その中にある本気は消えていない。
「うん」
「でも、今の朝倉さんは少し強くなったと思う」
由良はそれだけ言って、静かに教室を出ていった。
その後、昇降口へ向かう途中で、ひなが追いかけてきた。
「朝倉先輩!」
「……今度はひな」
「今度はって何ですか」
ひなは少し頬を膨らませる。
でもすぐに真面目な顔になった。
「先輩」
「何」
「神谷先輩と、ちゃんと何かありましたよね」
澪はもう、完全に否定する気にはなれなかった。
「うん」
「そっか」
ひなは少しだけ目を伏せる。
それから、すぐに顔を上げた。
「悔しいです」
まっすぐな言葉だった。
「……うん」
「でも、先輩が逃げてないなら、わたしもちゃんと見ます」
その明るさが、今日は少しだけ痛い。
でも、逃げないと言ってくれるその強さがひならしかった。
「ひな」
「はい」
「ありがとう」
「お礼言われるの、変です」
「そうかも」
「でも」
ひなは少しだけ笑う。
「前より、朝倉先輩がちゃんと恋してる顔になった気がします」
その言葉に、澪の頬が少し熱くなる。
「何それ」
「そのままです」
ひなは軽く手を振る。
「じゃあ、また明日です」
そう言って、ぱたぱたと走っていった。
校門を出ると、朔が少し先で待っていた。
見つけた瞬間、胸がまた跳ねる。
「待ってたの?」
澪が聞くと、朔は少しだけ視線を逸らした。
「途中まで、一緒に帰るかと思って」
「……うん」
それだけで、十分だった。
二人で歩き出す。
昨日より少し近い。
でも、まだ前の距離ではない。
それでも、今の澪にはこの距離が大事だった。
「今日」
朔が言う。
「何か、周りに見られてたな」
「見られてた」
「ひながめちゃくちゃ見てた」
「凛花さんにも、白瀬さんにも言われた」
「まじか」
朔は少しだけ困ったように笑う。
「やっぱ、変わってるのか」
「たぶん」
澪は歩きながら小さく息を吐く。
「でも、悪い変じゃないって言われた」
「誰に」
「ひな」
「そっか」
朔は少しだけ黙ってから言う。
「なら、そうだといいな」
「うん」
「俺も、そう思いたい」
その言葉がやさしく胸に落ちる。
完全に戻るのではなく、作り直していく。
今日、由良が言った言葉を思い出す。
「朔」
「何」
「戻すんじゃなくて」
澪は少しだけ勇気を出す。
「作り直すんだと思う」
朔は隣で足を緩めた。
「何を」
「距離」
そう答えると、朔はしばらく黙った。
「……それ、いいな」
やがて、静かに言う。
「うん」
「前と同じにはできないけど」
「うん」
「違う形なら、作れるかもしれない」
澪は小さく頷いた。
知ったあとで、変わる距離。
その変化は怖い。
でも、壊れるだけではないのかもしれない。
夕方の道を並んで歩く。
完全に自然ではない。
でも、完全に遠くもない。
それが今の二人の距離だった。
家へ帰って部屋に入ったあと、澪は鞄を置いてから、そっと胸に手を当てた。
今日は、たくさんの人に見られた。
変わったと言われた。
逃げていない顔だと言われた。
ちゃんと恋している顔だと言われた。
恥ずかしい。
怖い。
でも、少しだけ嬉しかった。
隠れていただけの恋は、もう終わり始めている。
まだ不安定で、痛くて、ぎこちないけれど、
今の距離は、知ったあとでしか作れない距離なのだと思った。




