第6章 第7話:それでも、会いたいのは変わらない
翌朝、澪はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄く、部屋の中は青みがかっている。机の上にはスマート端末が伏せて置かれていて、その隣にはフルダイブ装置が静かに沈黙していた。
昨日、ノアとしてアークに会った。
けれど、それは今までのような夜ではなかった。
ノアと呼ばれるたび、胸が痛んだ。
澪と呼ばれた瞬間、息が止まりそうになった。
でも、アークは言った。
――切りたくはない。
その言葉だけが、夜の間ずっと胸の奥で灯っていた。
すべてが解決したわけじゃない。
むしろ、これからどう繋ぎ直すのかは何も決まっていない。
それでも、完全に終わらなかった。
壊れて粉々になるのではなく、痛みを抱えたまま、それでも切れずに残った。
それだけで、今朝の澪はどうにか立ち上がれた。
制服へ着替え、鏡の前で髪を整える。
顔色は少しだけ悪い。
でも、昨日ほどではなかった。
怖さはまだある。
けれどその奥に、かすかな希望のようなものもある。
家を出ると、朝の空気は澄んでいた。
住宅街の道には、いつも通りの音が流れている。自転車のブレーキ音、遠くの車の走行音、誰かが玄関を開ける音。
曲がり角を曲がれば、そこに朔がいる。
その当たり前が、今は少し怖い。
でも、会いたくないわけじゃない。
角を曲がると、朔はいた。
電柱のそばに立ち、端末を見ていた。
顔を上げた瞬間、目が合う。
その目に、昨日までとは違う迷いが一瞬だけ浮かんだ。
「……おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
距離は昨日より少しだけ遠い。
それは錯覚かもしれない。
でも、澪にはそう感じられた。
しばらく、会話はなかった。
何を言えばいいのかわからない。
天気の話をするには、二人の間にあるものが大きすぎる。
かといって、いきなり核心へ触れるには、朝の通学路は明るすぎた。
「昨日」
先に口を開いたのは朔だった。
「ログインしてくれて、ありがと」
その言葉に、澪は胸の奥が少し熱くなる。
「……朔も」
「うん」
「来てくれて、ありがとう」
短い会話。
でも、昨日の夜がなかったことにされていないとわかるだけで、少し息がしやすくなった。
信号の前で立ち止まる。
横断歩道の向こうに、登校中の生徒たちの姿がちらほら見えた。
「まだ」
朔が言う。
「整理できたわけじゃない」
「うん」
「ノアって呼ぶのも、澪って呼ぶのも、どっちも変な感じする」
「……うん」
「でも」
そこで信号が青に変わる。
朔は歩き出しながら続けた。
「会いたくないとは、思わなかった」
その言葉に、澪の足が一瞬だけ遅れた。
会いたくないとは思わなかった。
たったそれだけなのに、胸の奥に溜まっていた不安が少しだけほどける。
「……ほんとに?」
聞いてしまう。
情けないと思う。
でも、聞かずにはいられなかった。
朔は少しだけ困ったように笑った。
「ほんと」
「無理してない?」
「してないとは言わない」
正直な返事だった。
「でも、無理してでも会いたい、とは思った」
澪は言葉を失った。
嬉しい。
けれど、その嬉しさは痛みと一緒に来る。
朔に無理をさせている。
それでも会いたいと思わせている。
そのどちらも本当なのだ。
「……ごめん」
思わず言うと、朔は小さく息を吐いた。
「謝られると、何か俺が悪いこと言ったみたいになる」
「でも」
「澪」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「俺、まだ混乱してる」
「うん」
「でも、混乱してることと、澪に会いたいことは別だった」
その言葉が、朝の光の中で静かに胸へ落ちた。
別。
そう言ってもらえたことが、今の澪には救いだった。
学校へ着く頃には、緊張は完全には解けていなかったけれど、朝の始まりよりは少しだけ呼吸が楽になっていた。
教室へ入ると、夏希がすぐにこちらを見た。
澪が席へ着くと同時に、机へ肘をついて小声で聞いてくる。
「どう?」
「……まだ、怖い」
「うん」
「でも、会いたくないとは思わなかったって」
夏希の表情が、少しだけやわらぐ。
「神谷、ちゃんと言ったじゃん」
「うん」
「それ、かなり大きいよ」
「わかってる」
わかっている。
だからこそ、胸の奥がまた熱くなる。
午前中の授業は、昨日より少しだけ頭に入った。
それでも、ふとした瞬間に朔の背中を見てしまう。
前方の席でノートを取る横顔。
誰かに話しかけられて短く返す声。
その全部を、今は前より複雑な気持ちで見ている。
朔も時々こちらを見る。
目が合うと、すぐに逸らすわけではない。
でも、長く見つめ合えるほど自然でもない。
そのぎこちなさが痛い。
けれど、完全に切れていない証拠でもある。
昼休み、澪は一人で廊下の窓際に立っていた。
外のグラウンドでは、数人の生徒がボールを追いかけている。風が窓ガラスを軽く震わせ、校舎の中に昼のざわめきが広がっていた。
「澪」
背後から声がして振り向く。
朔だった。
「……何」
「少しだけ」
そう言って、朔は隣ではなく、少し斜めの位置に立った。
近すぎない。
でも、遠くもない。
今の二人に合った距離だった。
「昨日の続き」
朔が言う。
「うん」
「ちゃんと話したくて」
澪は小さく頷く。
朔は窓の外を見たまま、少しだけ言葉を探していた。
その横顔はいつもより真剣で、少しだけ疲れても見えた。
「俺さ」
「うん」
「昨日からずっと考えてた」
「……うん」
「ノアとして話したことと、澪として見てたこと」
胸が小さく痛む。
「そこが、まだうまく繋がらない」
「うん」
「でも、繋げたくないわけじゃない」
澪は顔を上げる。
「ほんと?」
「うん」
「無理に繋げようとしてない?」
「無理はしてる」
朔は苦く笑う。
「でも、無理してでも繋げたいとは思ってる」
その正直さが、今は何よりありがたかった。
「ノアと話してた時間」
朔は続ける。
「正直、今はまだ複雑」
「……うん」
「澪が知ってたんだって思うと、恥ずかしいこともあるし、ちょっと痛いこともある」
「うん」
「でも」
朔はそこで、澪を見る。
「助けられたのも本当なんだよ」
その一言で、胸の奥が震えた。
「ノアに言われて楽になったこととか」
「……」
「一緒に戦って安心したこととか」
「……」
「話しやすいと思ったこととか」
朔の声は静かだった。
「それまで嘘にしたくない」
澪は目を伏せた。
泣きそうだった。
でも、ここで泣いたらまた何かが崩れそうで、必死にこらえる。
「……ありがとう」
「うん」
「その言葉、本当に」
声が少しだけ震える。
「すごく、救われる」
朔は困ったように息を吐く。
「俺も、言って整理してるだけかも」
「それでも」
「うん」
短い返事。
けれどその短さが、今はちょうどよかった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
廊下の生徒たちが教室へ戻り始める。
朔は一度教室のほうを見てから、また澪へ視線を戻した。
「放課後」
「え」
「少し、時間ある?」
その問いに、澪の心臓が強く打つ。
「ある」
すぐに答えていた。
「じゃあ」
朔は少しだけ考える。
「帰り、途中まで一緒に」
「……うん」
「ちゃんと話したい」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
放課後までの時間は、少しだけ長く感じた。
でも昨日までのような、ただ恐怖で押し潰される長さではなかった。
話すことが怖い。
けれど、話せることが少しだけ嬉しい。
そんな矛盾した時間だった。
六限が終わり、教室の中がざわめく。
凛花が一瞬こちらを見る。
由良も、ひなも、何かを察したような目をしていた。
けれど誰も何も言わなかった。
朔と澪は、少し時間をずらして教室を出た。
校門を抜け、住宅街へ向かう道を並んで歩く。
昨日より近い。
でも前よりは少し遠い。
そんな距離だった。
「澪」
「何」
「今日、朝言ったこと」
「うん」
「もう一回言うけど」
朔は前を向いたまま言う。
「会いたいのは、変わらなかった」
澪は息を止める。
「驚いた」
「うん」
「混乱した」
「うん」
「今も、全部わかったわけじゃない」
「うん」
「でも、澪に会いたくないとは一度も思わなかった」
視界が少しだけ滲む。
それは、欲しかった言葉だった。
ずっと怖かった。
ノアだと知られたら、澪としても見られなくなるかもしれない。
ノアとしても、澪としても、どちらにも会いたくないと思われるかもしれない。
その恐怖が、ずっと胸の奥にあった。
でも、朔は違うと言った。
「……それだけで」
声が震える。
「十分、救われる」
朔は少しだけ歩調を緩めた。
「十分ではないだろ」
「え」
「まだちゃんと整理しないといけないことあるし」
「うん」
「たぶん、話さないといけないこともいっぱいある」
「うん」
「でも」
朔は澪を見る。
「まずそれは、ちゃんと言っときたかった」
澪は頷く。
涙は落ちなかった。
でも、胸の奥で何かが静かにほどけていく感覚があった。
住宅街の角で、二人は足を止めた。
いつもの別れ道。
何度もここで「また明日」と言ってきた場所。
でも今は、そこに別の意味が重なっている。
「朔」
澪は小さく呼ぶ。
「何」
「私も」
一度、息を吸う。
「会いたかった」
朔の目が少しだけ揺れる。
「ノアとしてじゃなくても」
「うん」
「澪として」
「……うん」
「ちゃんと、会いたかった」
言い終えた瞬間、頬が少し熱くなった。
でも、今はそれを言っておきたかった。
朔はしばらく黙って、それから小さく笑う。
「それ、結構来るな」
「何が」
「普通に」
少しだけ困ったような顔。
「嬉しい」
その言葉に、澪の胸もまた熱くなる。
「じゃあ」
朔が言う。
「また明日」
「うん」
「あと」
「何」
「夜、無理にログインしなくていい」
その言い方はやさしかった。
「でも、したくなったら言って」
澪は少しだけ目を伏せた。
「うん」
「俺も、ちゃんと言う」
「うん」
「ノアとしても、澪としても」
朔は少しだけ言葉を探してから続ける。
「どっちも、雑に扱いたくないから」
その一言で、澪はまた胸がいっぱいになる。
「……ありがとう」
「またそれ」
「だって」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「でも、今は受け取る」
その返しに、澪もほんの少し笑えた。
家へ帰って自室へ入ると、澪はベッドへ腰を下ろした。
部屋の中はいつも通りだ。
机の上の端末も、フルダイブ装置も、何も変わっていない。
けれど、澪の中にあった重たい不安は、昨日より少しだけ形を変えていた。
拒絶されてはいない。
逃げられてはいない。
会いたい気持ちは変わらないと、言ってもらえた。
それだけで、今夜の澪は少しだけ息ができる。
「……私も、会いたかった」
もう一度、小さく呟く。
その言葉は、ノアとしてでも、澪としてでもなく、どちらも含んだ自分の本音だった。




