第6章 第6話:ノアとして会うのか、澪として待つのか
翌日の夜、澪はフルダイブ装置の前で、長い間立ち尽くしていた。
部屋の明かりは落としてある。
机の上のスマート端末だけが、薄い光を放っていた。画面には朔とのメッセージ履歴が残っている。
『今日はログインしない』
『逃げるつもりじゃない』
『ちょっと整理したい』
そして、自分が返した言葉。
『わかった』
『待ってる』
あれから一日が過ぎた。
学校では、朔と普通に顔を合わせた。
朝も会った。
教室でも目が合った。
けれど、会話は少なかった。
避けられているわけではない。
それはわかる。
でも、前みたいに自然に言葉が出てこない。
朔も何かを考えていて、自分も何を言えばいいのかわからなくて、二人の間には今までにない種類の沈黙があった。
それは当然だ。
ノアが澪だったと知った翌日なのだから。
それでも、苦しいものは苦しかった。
澪はフルダイブ装置へ視線を落とす。
今夜、ログインするべきなのだろうか。
ノアとして会うべきなのか。
それとも、朝倉澪として待つべきなのか。
正体を明かした以上、もうノアだけでいることはできない。
でも、アステリオの中で積み上げてきた時間も、嘘にしたくない。
ノアとしての自分も、確かに自分だった。
その場所でしか言えなかった言葉も、そこでしか近づけなかった距離も、全部本物だった。
けれど、朔はどうだろう。
アークとしてノアを見る時、もうそこに澪を重ねずにはいられないはずだ。
ノアと呼ぶたび、現実の顔が浮かぶかもしれない。
戦闘中に隣へ立つたび、隠されていた時間を思い出すかもしれない。
それでも、会っていいのだろうか。
スマート端末が震えた。
澪は反射的に手を伸ばす。
画面には朔の名前が表示されていた。
『今日、ログインする?』
それだけの短い一文だった。
胸が跳ねる。
指先がすぐには動かない。
向こうから聞いてきた。
それはつまり、朔も同じことを考えているということだ。
ノアとして会うのか。
澪として距離を置くのか。
その境界で、同じように立ち止まっている。
澪はしばらく画面を見つめたあと、ゆっくり返信を打った。
『迷ってる』
正直に返す。
すぐに既読がついた。
『俺も』
その二文字で、少しだけ息ができた。
自分だけが揺れているわけではない。
朔も揺れている。
それでも、会うかどうかをちゃんと考えてくれている。
しばらくして、もう一件届いた。
『少しだけなら』
『会えると思う』
澪は目を閉じた。
怖い。
でも、嬉しい。
『私も』
『少しだけなら』
送信する。
画面の向こうで、短い沈黙があった。
『じゃあ、アステリオで』
『中央広場じゃなくて、静かな場所がいい』
澪はすぐには返せなかった。
静かな場所。
それはつまり、ちゃんと向き合うための場所だ。
『わかった』
送ってから、澪はフルダイブ装置へ手を伸ばした。
視界が暗転する。
意識がゆっくり沈み、次に開いた時には、ノアはアステリオの夜の中に立っていた。
けれど、いつもの中央広場ではない。
指定された転送先は、《薄明の水鏡庭》だった。
浅い水面が一面に広がる庭園マップ。
水の上には石の飛び石が点々と浮かび、遠くには白い東屋がある。空は夜と朝のあいだみたいな薄紫で、どこからか静かな水音が聞こえていた。
戦闘エリアではない。
ただ話すための場所。
ノアは水面に映る自分の姿を見下ろした。
淡い銀の髪。
青みがかった瞳。
現実の朝倉澪とは違う姿。
でも、もうその違いで隠れることはできない。
『ノア』
声が聞こえた。
振り向くと、少し離れた飛び石の上にアークが立っていた。
黒い装備。
見慣れた剣。
何度も一緒に戦ってきた背中。
でも今は、その姿を見るだけで胸が痛くなる。
彼の向こうに、現実の朔がいることを、もう互いに知っているからだ。
「……アーク」
呼ぶ声が、少しだけ震えた。
アークは一歩だけ近づき、でも近づきすぎない場所で止まった。
その距離に、今の二人の全部が出ている気がした。
『来たんだな』
「来た」
『俺も』
短い言葉。
それだけで、二人とも同じように緊張しているのがわかる。
沈黙が落ちる。
水面が小さく揺れ、薄紫の空を歪ませた。
『変な感じする』
先に言ったのはアークだった。
「……うん」
『今、ノアって呼ぶたび』
少しだけ間がある。
『少し変な感じする』
胸が痛む。
でも、澪は目を逸らさなかった。
「私も」
『うん』
「アークって呼ぶの、少し変」
『だよな』
アークは苦く笑う。
『でも、朔って呼ばれてもたぶん変だ』
「……わかる」
その正直さに、少しだけ空気がゆるんだ。
でも、楽になったわけではない。
ただ、互いに同じ違和感を持っていると知れただけだ。
『ノアは』
アークが言う。
『ノアなんだよな』
その言葉に、ノアは目を上げた。
『でも、澪でもある』
静かな声だった。
『その整理が、まだ追いつかない』
「……うん」
『責めたいわけじゃない』
「うん」
『でも、今までと同じようにすぐ戻れるわけでもない』
「わかってる」
その言葉は、ちゃんと受け止めなければいけないものだった。
正体を明かしたからといって、すべてがきれいに繋がるわけではない。
むしろ、繋がったことで見える歪みもある。
朔がノアに話していたこと。
澪には知られていないと思っていたこと。
その全部を、実は澪が聞いていたこと。
それが何も引っかからないはずがなかった。
「ごめん」
ノアは小さく言った。
『謝らなくていい、って言いたいけど』
アークは少しだけ目を伏せる。
『まだ、そこまで言い切れない』
「うん」
『でも』
アークは顔を上げた。
『切りたくはない』
その一言で、胸の奥が強く震えた。
「……ほんとに?」
『うん』
「ノアとも?」
『ノアとも』
「澪とも?」
『澪とも』
短い返事。
でも、そのひとつひとつが今のノアには救いだった。
『ただ』
アークが続ける。
『同じ距離ではいられないと思う』
「……」
『前と同じに戻すんじゃなくて』
少しだけ言葉を探すようにする。
『ちゃんと別の形にしないと、たぶん無理』
ノアはゆっくり頷いた。
「私も、そう思う」
『うん』
「もう、ノアだけで近づくのは違う」
『うん』
「でも、ノアだった時間を嘘にもしたくない」
言葉にすると、胸の中で絡まっていたものが少しだけほどけた気がした。
そうだ。
そこが一番怖かった。
ノアを明かした途端、あの時間が全部“隠していた時間”としてだけ扱われてしまうことが。
でも自分にとっては、あれも確かに本当だった。
『嘘ではないだろ』
アークが静かに言った。
ノアは顔を上げる。
『今はまだ混乱してる』
「うん」
『でも、ノアと話して楽だったことも、助けられたことも』
声が少しだけ低くなる。
『そこまで嘘にする気はない』
目の奥が熱くなる。
「……ありがと」
『礼を言われる話かはわからないけど』
「それでも」
ノアは小さく息を吸う。
「それを言ってくれるだけで、今はすごく助かる」
アークは困ったように目を伏せた。
『たぶん』
彼は言った。
『俺も助かってる』
「え」
『ノアのほうも、ちゃんと本物だったって思いたいから』
その言葉が、静かな水面に落ちるみたいに胸へ広がった。
それは、許しではない。
解決でもない。
でも、否定ではなかった。
『澪』
不意に、アークがそう呼んだ。
ノアの体が小さく強張る。
アステリオの中で、その名前を呼ばれるのは初めてだった。
ノアの姿で、澪と呼ばれる。
その違和感と痛みと、少しの救いが、同時に胸へ来る。
『……ごめん』
アークがすぐに言う。
『今の、変だった』
「ううん」
ノアは首を振る。
「変だけど」
『うん』
「でも、嫌じゃない」
言うと、アークの目が少しだけ揺れた。
『そっか』
「うん」
「ただ」
ノアは自分の胸元を軽く押さえる。
「今はまだ、どっちで呼ばれても少し痛い」
『わかる』
アークは静かに頷いた。
『俺も、どっちで呼んでも痛い』
その共有だけで、少しだけ楽になる。
痛いのは自分だけじゃない。
でも、同じ痛みを持ったまま、二人ともここに来ている。
水鏡庭の空が、薄紫から少しだけ青へ変わる。
足元の水面に、二人の影がぼんやり映っていた。
アークとノア。
朔と澪。
どちらとも言い切れない、今だけの曖昧な影。
『今日は』
アークが言う。
『長くは無理かも』
「うん」
『でも、会えてよかった』
その言葉に、ノアは静かに頷く。
「私も」
声が少しだけ震える。
「会えてよかった」
今夜は、前みたいには話せない。
軽く冗談を言ったり、何でもない相談をしたり、迷いなく隣で戦ったりは、まだできない。
でも、切れなかった。
それだけで十分だった。
『次』
アークが言う。
「うん」
『現実でも、話したい』
ノアは目を伏せる。
「うん」
『ノアとしても会うけど』
少しだけ間がある。
『澪としても、ちゃんと話したい』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「……うん」
「私も」
ようやくそう返せた。
ログアウトの前、二人は少しだけ水面を見ていた。
何を話すでもなく、ただ同じ場所にいる。
その沈黙はまだぎこちない。
でも、昨日までの完全な空白よりはずっといい。
現実へ戻ったあと、澪はフルダイブ装置からゆっくり体を起こした。
部屋は暗い。
窓の外の街灯が、カーテン越しに淡く光っている。
スマート端末には、まだ何も通知はない。
けれど、今夜はそれでよかった。
ノアとして会った。
澪として見られた。
痛かった。
でも、切れなかった。
澪はベッドへ腰を下ろし、ゆっくり息を吐く。
「……切りたくないって、言ってくれた」
それだけで、今夜は少しだけ眠れそうな気がした。
ノアとして会うのか。
澪として待つのか。
その答えは、まだきれいには出ていない。
でも少なくとも、どちらかを捨てて進むのではないのだと、澪はようやく思い始めていた。




