第6章 第5話:知りたかったのに、追いつけない
その夜、朔は自分の部屋でひとり、椅子に座ったまま動けずにいた。
机の上にはスマート端末が置かれている。
画面は暗い。
それなのに、そこに何かが映っているみたいに、朔は何度も視線を落としてしまう。
澪が言った言葉が、まだ耳から離れなかった。
――ノアは、私です。
最初は、意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかった。
でも、理解が追いつかなかった。
ノア。
アステリオで何度も隣にいた相手。
戦闘で背中を預けた相手。
相談した相手。
誰よりも話しやすいと思った相手。
名前の奥にいる誰かを知りたいと、本気で思い始めていた相手。
その全部が、澪だった。
幼馴染の朝倉澪。
朝、同じ道を歩いてきた相手。
教室で何度も目で追ってしまった相手。
最近、もう前と同じではいられないと感じていた相手。
好きと言いたい、と震える声で言った相手。
その二つが、ひとりだった。
「……まじかよ」
誰もいない部屋で、朔は小さく呟いた。
何度考えても、その言葉しか出てこない。
怒っているのかと聞かれたら、違うと思う。
でも平気かと聞かれたら、絶対に違う。
胸の中で、いろんな感情が一度にぶつかっていた。
驚き。
戸惑い。
混乱。
少しの痛み。
それから、言葉にしづらいほど強い何か。
知りたかった。
確かに知りたかった。
ノアの奥にいる人を知りたいと、自分から何度も言った。
それなのに、いざ知った瞬間、心がすぐには追いつかない。
ノアに話したことがある。
澪には言っていないと思っていたこと。
弱音も、迷いも、誰かには見せにくかった小さな本音も。
それを、澪は全部知っていた。
そう考えると、胸の奥がざらついた。
騙された、とまでは思わない。
でも、何も感じないわけがない。
同時に、思い出してしまう。
ノアが黙る時の間。
言いにくいことをごまかす声。
困った時に少しだけ目線を落とす癖。
戦闘中に自分を呼ぶ声。
そして、最近の澪と重なりすぎていた違和感。
気づけたかもしれない。
いや、気づきかけていた。
それでも最後の線を、自分は越えなかった。
まさか、と思っていた。
澪がそんなことをするはずがない。
幼馴染だからこそ、そう思っていたのかもしれない。
でも澪は、していた。
近づくために。
言えない恋を抱えて。
現実では届かないと思いながら、夜の名前で隣に立っていた。
そこまで考えて、朔は額に手を当てた。
「……重いな」
思わずこぼれた。
その言葉は澪を責めるためのものではなかった。
ただ、事実として重かった。
ノアとしての時間も、
澪としての時間も、
どちらも本物だったからだ。
もしノアとの時間が軽いものだったなら、もっと簡単だったかもしれない。
ゲーム上の知り合い。
たまたま話しやすかった相手。
そう割り切れたなら、驚きだけで済んだかもしれない。
でも違う。
ノアは、かなり大事な相手になっていた。
澪も、かなり大事な相手になっていた。
そして、その二人が同じ人だった。
知りたかったのに、追いつけない。
今の自分を表すなら、それが一番近かった。
スマート端末が震える。
朔は反射的に画面を見た。
通知はグループの雑談だった。
アステリオの周回予定について、ピピが騒いでいる。
セレスがそれに穏やかに返し、フレアが短く時間だけを確認している。
そこに、ノアの名前はまだない。
朔はしばらく画面を見つめた。
ログインするか。
アークとしてノアに会うか。
それとも今日はやめるか。
今ログインして、ノアを見たらどうなるのだろう。
ノア、と呼べるだろうか。
その向こうに澪の顔が浮かぶに決まっている。
でも、澪、と呼ぶのもたぶん違う。
あの世界での彼女は、確かにノアでもあったからだ。
「……無理だろ、今は」
朔は端末を伏せた。
逃げているのかもしれない。
でも今ログインして、何も整理できないまま向き合えば、余計に傷つける気がした。
澪は、言った。
泣きそうな顔で、それでも逃げずに言った。
ノアは私です、と。
好きと言う前に、それを話したいと。
そのことだけは、ちゃんと受け止めなければいけない。
驚いたからといって、雑に扱っていいものではない。
朔は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
頭の中で、ノアの声がする。
――今は、まだだめ。
――逃げないようには、してる。
――たぶん、君が思ってるより近いところにいる。
そして、澪の声が重なる。
――好きって言いたい。
――その前に、言わなきゃいけないことがある。
――ノアは、私です。
同じだった。
当たり前だ。
同じ人なのだから。
でも、その同じが今はまだ心に馴染まない。
馴染まないのに、否定もできない。
むしろ、重なった瞬間に、今まで見えなかった感情の流れが一気に見えてしまう。
ノアがなぜ困っていたのか。
澪がなぜ苦しそうだったのか。
なぜどちらも、近づくたびに少しだけ泣きそうな空気をまとっていたのか。
全部が繋がる。
繋がりすぎて、苦しい。
その頃、澪もまた、自室でひとり座り込んでいた。
ベッドの上で膝を抱えたまま、スマート端末を握っている。
画面は暗い。
朔からの連絡はまだない。
当然だと思う。
あんなことを言われて、すぐに返事ができるはずがない。
むしろ、逃げないと言ってくれただけで十分すぎる。
それでも、待つ時間は苦しかった。
「……言えたのに」
小さく呟く。
言えた。
ずっと隠していたことを、ようやく言えた。
でも今が一番怖い。
言う前は、言えば何かが変わると思っていた。
もちろん、怖かった。
壊れるかもしれないと思っていた。
それでも、隠したままよりは前へ進めるはずだと信じていた。
でも実際に言ってみると、前へ進むより先に、足元がなくなったような感覚がした。
ノアという隠れ場所は、もうない。
朝倉澪としても、まだ受け止めてもらえたわけではない。
宙ぶらりんのまま、ただ朔の返事を待っている。
それが、思ったよりずっと怖い。
フルダイブ装置が机の横にある。
いつもなら、夜になればそこへ逃げることができた。
ノアになって、アステリオへ行って、アークの隣に立てた。
でも今夜は違う。
ログインしたら、アークはどうするだろう。
ノアを見て、何を思うだろう。
呼び方は変わるのだろうか。
距離は変わるのだろうか。
変わらないほうがおかしい。
でも変わるのが怖い。
澪はスマート端末を両手で握りしめる。
連絡したい。
大丈夫か聞きたい。
でも、今すぐ何かを求めるのは違うと思った。
朔には整理する時間が必要だ。
自分がずっと隠していたものを、たった一日で受け止めろなんて言えない。
それでも、胸の奥は落ち着かない。
不安が、じわじわ広がっていく。
嫌われたらどうしよう。
距離を置かれたらどうしよう。
ノアとしても、澪としても、どちらの自分にも会いたくないと思われたら。
そこまで考えて、澪は目を強く閉じた。
「……だめ」
怖さに飲まれたら、また逃げたくなる。
でも、逃げないと決めた。
朔も逃げないと言ってくれた。
なら、自分もこの待つ時間から逃げてはいけない。
端末が震えた。
澪は反射的に画面を見た。
心臓が跳ねる。
朔からだった。
『今日はログインしない』
短い一文。
それを見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
やっぱり。
そう思う。
でも、続けてもう一件届く。
『逃げるつもりじゃない』
『ちょっと整理したい』
澪は画面を見つめたまま、息を吐いた。
涙が出そうになる。
逃げるつもりじゃない。
整理したい。
それだけで、どれほど救われるかわからなかった。
指先が震えながらも、澪は返信を打つ。
『わかった』
『待ってる』
送信する。
既読はすぐについた。
けれど返事はない。
それでよかった。
今は、それで十分だった。
澪は端末を胸の前に抱え、ゆっくり息を吐く。
待つ。
今度は自分が待つ番だ。
朔がノアと澪を繋ぎ直すまで。
自分の中で、その二つをちゃんと受け止め直すまで。
夜は長かった。
フルダイブ装置のランプは消えたままだ。
アステリオの夜へは行かない。
ノアとしても、アークとしても、今夜は会わない。
それは初めての空白みたいだった。
でも、完全な断絶ではない。
むしろ、次にちゃんと会うために必要な沈黙なのだと、澪は思いたかった。
一方で、朔は端末の画面を見つめていた。
『わかった』
『待ってる』
澪からの返信は短かった。
でも、その短さの中に、震えながらも自分を待とうとしている気配があった。
胸が痛む。
傷つけたくない。
でも、自分の混乱もなかったことにはできない。
「……待たせてるな」
小さく呟く。
そして、すぐに思う。
待たせている。
でも、今ちゃんと整理しなければ、もっとひどい形で傷つける。
朔はもう一度、目を閉じた。
ノア。
澪。
アーク。
自分。
四つの名前と時間が、頭の中で絡まっている。
それをひとつずつほどいていかなければならない。
知りたかった。
でも、追いつけない。
それでも、逃げるつもりはなかった。
ノアが澪だったことを。
澪がノアとして隣にいたことを。
そして、どちらの時間にも自分が心を動かされていたことを。
なかったことには、できないのだから。




