第6章 第4話:夜の君は、私です
渡り廊下の夕方は、ひどく静かだった。
旧校舎へ続く窓の向こうで、中庭の木々が風に揺れている。葉の影が床に細く落ちて、光と影がゆっくり動いていた。遠くの校舎からは、部活へ向かう生徒たちの声がかすかに聞こえる。
でも今、澪の耳に一番大きく響いているのは、自分の心臓の音だった。
朔が目の前にいる。
いつもの幼馴染。
朝、一緒に歩く人。
教室で何気なく目が合う人。
そして夜、アークとしてノアを呼ぶ人。
その全部が、同じ人だ。
だからこそ、もう隠せない。
「ずっと」
澪はもう一度、言葉を続けた。
「隠してたことがある」
朔は何も言わなかった。
ただ、視線だけを澪から逸らさない。
その沈黙が怖い。
でも同時に、その沈黙が澪を逃がさずに支えてくれている気もした。
「前に」
喉が少し乾く。
「私、好きって言いたいって言ったよね」
「うん」
朔が静かに頷く。
「でも、その前に言わなきゃいけないことがあるって」
「言ってた」
「それが」
言葉が喉の奥で止まりかける。
ここで言えば、もう戻れない。
ノアとしての時間も、朝倉澪としての時間も、全部ひとつに繋がってしまう。
ごまかしも、逃げ道も、もうなくなる。
怖い。
でも、ここまで来てまだ隠すほうがもっと怖かった。
「VRのこと」
澪は言った。
「アステリオでのこと」
朔の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きというより、何かが近づいてきたことを感じ取ったような顔だった。
「アステリオ?」
「うん」
「……ノアのこと?」
その名前を朔の口から聞いた瞬間、澪の胸が痛いほど揺れた。
ノア。
夜の名前。
ずっと逃げ場所だった名前。
でも同時に、朔へ一番近づけた名前。
「うん」
澪は頷いた。
「ノアのこと」
朔はまだ口を挟まない。
でも、その目はもう前よりずっと鋭くなっている。
おそらく、気づきかけている。
それでも、最後の言葉を澪に渡してくれている。
――君の言葉で聞く。
昨夜のアークの声が、胸の奥で響いた。
自分の言葉で。
朝倉澪として。
「私」
声が震えた。
でも、止めなかった。
「ずっと、ノアとして朔の近くにいた」
朔の息が、わずかに止まった。
渡り廊下の空気が、一瞬で変わった気がした。
外の風の音も、遠くの声も、全部が薄く遠のく。
「……え」
朔の声は、かすれていた。
「澪」
「うん」
「今」
朔は一度言葉を切った。
信じたいのに、まだ理解が追いついていないような顔だった。
「ノアが」
低い声。
「澪、ってこと?」
澪は逃げずに頷いた。
「うん」
それだけの返事に、今まで隠してきた時間の全部が詰まっている気がした。
朔は数秒、何も言わなかった。
その沈黙が怖くて、澪は指先を握りしめる。
「……まじで」
やっとこぼれた声は、ひどく小さかった。
「言ってる?」
「うん」
澪はもう一度頷いた。
「本当」
朔は手すりに片手を置いた。
支えが必要になったみたいに見えた。
視線が床へ落ちる。
それから、また澪を見る。
「ノアが」
「うん」
「ずっと」
「うん」
「アステリオで、一緒にいたノアが」
「……私」
言い切ると、胸の奥が痛いほど熱くなった。
言えた。
ついに言ってしまった。
でも、そこに解放感はほとんどなかった。
むしろここからが本当に怖いのだと、澪はすぐに思い知る。
朔は何かを言おうとして、言えないまま口を閉じた。
その顔に浮かんでいるのは、怒りではなかった。
でも、ただの驚きでもない。
混乱。
衝撃。
そして、今までの時間を必死に繋ぎ直そうとしている痛み。
「……ごめん」
澪は小さく言った。
「最初から言えなくて」
「……」
「近づきたかった」
声が揺れる。
「でも、現実だとできなくて。朔の周りにはいつも誰かがいて、私が入る場所なんてない気がして」
言葉が止まらなくなった。
今まで隠してきたものが、開いた扉からこぼれていく。
「ノアなら、話せた」
「……」
「ノアなら、朔の隣にいられた」
「……」
「最初は、ただ少しだけ近くにいられればいいと思ってた。でも、どんどん」
喉が詰まる。
「どんどん、本当に大事になって」
朔はまだ何も言わない。
その沈黙が苦しい。
でも、澪はもう止まれなかった。
「朔がアークとしてノアを頼ってくれるたび、嬉しかった」
目の奥が熱い。
「でも、苦しかった」
「……」
「朝倉澪として届いてない気がしたから」
そこまで言って、澪は小さく息を吸った。
「でも最近は、現実でも近づいてくれた」
「……」
「朔が、澪を見てくれるようになった」
「……」
「だから余計に、隠してるのが苦しくなった」
声が震えていた。
でも、涙はまだ落ちなかった。
泣いたら、ずるい気がした。
今泣いてしまえば、朔に何かを許させるみたいで嫌だった。
「好きって言いたいのに」
澪は続ける。
「その前に、ノアのことを言わないままじゃだめだと思った」
「……」
「だから」
手のひらに爪が食い込む。
「今日、言った」
朔は長い間、黙っていた。
渡り廊下の向こうを、誰かの足音が遠く通り過ぎていく。
でもこちらへ来る人はいない。
夕方の光は少しずつ弱くなり、床に落ちていた葉の影も薄くなっていた。
「……ちょっと」
朔がようやく口を開いた。
声は低く、掠れていた。
「整理、追いつかない」
澪の胸が痛んだ。
「うん」
「ノアが澪で」
「うん」
「今まで話してたことも、相談したことも」
「うん」
「全部、澪に言ってたってことだよな」
「……うん」
そのひとつひとつに頷くたび、胸が締めつけられる。
「俺」
朔は手すりを握ったまま言う。
「ノアに、かなり色々言った」
「うん」
「澪には言ってないと思ってたことも」
「……うん」
「でも、澪は知ってた」
「うん」
短い返事しかできない。
言い訳をしたくなかった。
朔が傷ついたなら、それは自分が受け止めるべきことだった。
「それ」
朔は少しだけ顔を歪めた。
「けっこう、すごいな」
責める声ではない。
でも、軽く受け止められるものでもない。
その温度が、澪には痛いほど正しく感じられた。
「ごめん」
「謝るなって言いたいけど」
朔はそこで言葉を切る。
「……今は、ちょっと言えない」
胸が、ぎゅっと縮む。
「うん」
澪は頷いた。
「わかってる」
「怒ってる、とは違う」
「うん」
「でも、驚いてる」
「うん」
「かなり」
「……うん」
朔は深く息を吐いた。
「ノアのこと」
朔が言う。
「ずっと、知りたかった」
「うん」
「名前の奥にいる人を知りたいって、本気で思ってた」
「うん」
「でも」
目が合う。
「それが澪だとは、思ってたような、思ってなかったような」
その言葉に、澪は少しだけ目を伏せた。
「気づきかけてた?」
「たぶん」
朔は正直に言った。
「声とか、言い方とか、反応とか」
「……うん」
「でも、まさかって思う部分もあった」
「うん」
「澪がそんなことするって、想像しきれてなかった」
その言葉は、胸に刺さった。
でも、責めではない。
ただ事実を整理しているだけだ。
「……ごめん」
また謝ってしまった。
朔は小さく首を振る。
今度は何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
澪は、その沈黙の中で初めて本当に怖くなった。
拒絶されるかもしれない。
距離を置きたいと言われるかもしれない。
ノアとして積み上げた時間も、朝倉澪として近づいた時間も、両方が一度に崩れてしまうかもしれない。
でも、それでも言った。
言うしかなかった。
隠したまま好きになることは、もうできなかったから。
「澪」
朔が名前を呼んだ。
「何」
「今すぐ」
声はまだ少し硬い。
「ちゃんと答え出せない」
澪は小さく頷いた。
「うん」
「整理したい」
「うん」
「でも」
そこで朔は、少しだけ息を吸った。
「逃げるつもりはない」
その一言に、澪の目が熱くなった。
「……ほんとに?」
「うん」
朔はまっすぐ言った。
「今すぐ全部受け止められるほど器用じゃない」
「うん」
「正直、混乱してる」
「うん」
「でも、聞かなかったことにはしない」
胸の奥が、痛いほど震える。
「ノアが澪だったことも」
朔は続けた。
「澪がそれを言ったことも」
「……」
「好きって言う前に、ちゃんと隠してたことを言おうとしたことも」
言葉のひとつひとつが、澪の中へ落ちていく。
「なかったことにはしない」
その声は、前より少しだけ揺れていた。
でも、確かだった。
澪は涙をこらえきれず、目を伏せた。
視界が滲む。
でも、泣き崩れるわけにはいかなかった。
「……ありがとう」
「今は、礼言われる感じでもない」
「うん」
「でも」
朔は少し困ったように息を吐く。
「言ってくれてよかった、とは思う」
その言葉で、ついに涙が一粒落ちた。
許されたわけではない。
何も解決していない。
むしろこれからが大変だ。
それでも、“言ってよかった”と思ってもらえたことが、今の澪には何より救いだった。
「澪」
「うん」
「今日は」
朔は少し迷ってから言った。
「ここまでにさせて」
胸が痛む。
でも、それは当然だった。
「うん」
「ちゃんと考える」
「うん」
「で、また話す」
澪は涙を拭いながら頷いた。
「待ってる」
言ったあとで、少しだけ苦くなる。
今度は自分が待つ番なのだと思った。
朔は小さく頷く。
「帰れる?」
「帰れる」
「送る」
「でも」
「送る」
その言い方は、いつもの朔に少しだけ近かった。
けれど、並んで歩く帰り道は、やはりいつも通りではなかった。
会話はほとんどない。
沈黙は重い。
でも、完全に突き放すものではなかった。
それだけで、澪はどうにか立っていられた。
校門を出る頃には、空はほとんど夜へ変わっていた。
住宅街の灯りがぽつぽつと点き始めている。
朔はいつもより少し離れた隣を歩いていた。
その距離が痛かった。
でも、今は仕方ないと思った。
家の近くで立ち止まる。
「じゃあ」
朔が言う。
「……うん」
「連絡する」
「うん」
「逃げない」
その言葉をもう一度聞いて、澪は小さく頷いた。
「私も」
「うん」
「逃げない」
朔はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
そして、何か言いかけて、やめた。
「また」
「また」
家へ入った瞬間、澪は玄関の内側でしばらく動けなかった。
言った。
言ってしまった。
ノアは私です、と。
夜の君の隣にいたのは、朝倉澪です、と。
自室へ戻り、ドアを閉める。
ベッドへ座ると、急に身体の力が抜けた。
怖い。
今が一番怖い。
言う前より、ずっと怖い。
でも、もう隠れてはいない。
夜の君は、私です。
その言葉を、澪はようやく現実の光の中で差し出したのだった。




