第6章 第3話:私の名前で、会いに行く
朝になっても、澪の胸の奥には昨夜の言葉が残っていた。
――君の言葉で聞く。
アークはそう言った。
無理に暴くのではなく、当てにいくのでもなく、ノアが自分の言葉で言うまで待つと。
その優しさは、逃げ道ではなかった。
むしろ、澪が自分で前へ出るための最後の場所を残されたような気がした。
カーテンを開けると、空は薄く曇っていた。
白い雲が低く広がって、街全体の色を少しだけ淡くしている。窓ガラスに映る自分の顔は、昨日より少し緊張して見えた。
制服に袖を通す。
髪を整える。
鞄を持つ。
いつもと同じ朝の支度なのに、今日はひとつひとつの動作が少し重い。
今日は、決める日だ。
まだ言う日ではないかもしれない。
でも、言うために動く日だ。
澪は机の上のスマート端末へ目を向けた。
朔とのメッセージ画面は、昨日のまま止まっている。
『今度、本当にちゃんと話したい』
『時間をください』
『うん』
『いつでもいい』
『ちゃんと聞く』
その文字を見ただけで、胸の奥が熱くなる。
ちゃんと聞く。
現実の朔も、夜のアークも、どちらも同じように待っている。
なら、次に動くのは自分だ。
家を出ると、朝の空気は少し湿っていた。
雨の匂いはしないけれど、空が低いせいで、いつもより音が近く聞こえる。遠くを走る車の音。誰かの玄関が開く音。自転車のブレーキの音。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつもの場所。
いつもの姿。
でも、顔を上げた瞬間の目が、今日も少しだけ違う。
互いに何かを待っているような、静かな緊張がそこにあった。
「おはよ」
朔が言う。
「……おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
昔から知っている距離。
でも今は、その距離にもう“知らないふり”ができないものが混じっている。
「昨日」
朔が静かに口を開いた。
「ログインしてた?」
胸がひとつ跳ねる。
「……してた」
「そっか」
朔はそれだけ言って、少し黙る。
その沈黙が、以前よりずっと意味を持つ。
朔は知らない。
いや、たぶんもうかなり近いところまで気づいている。
でも、まだ自分の口からは聞いていない。
だから、何も確定させないまま待っている。
「澪」
「何」
「焦らせたいわけじゃない」
「……うん」
「でも」
そこで少しだけ言葉を探す。
「待ってる」
その一言に、喉の奥が熱くなった。
責めるでもなく、
急かすでもなく、
ただ、待っている。
それはやさしいのに、同時に重い。
待たれている以上、自分はいつまでも同じ場所にいられない。
「……今日」
澪は気づけば、口を開いていた。
声が思ったより小さい。
でも、ちゃんと届いた。
朔がこちらを見る。
「今日?」
「放課後」
心臓がうるさい。
「少し、時間ある?」
言ってしまった。
朝の通学路で。
何でもない顔で歩いていたはずの時間に。
自分から、約束を取りに行った。
朔は一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐに真面目な顔になる。
「ある」
迷いのない返事だった。
「どこがいい?」
聞かれて、澪は少しだけ息を吸う。
場所。
どうするべきかは、昨日の夜から考えていた。
家の近くの公園でもいい。
学校の屋上前の階段でもいい。
でも、今日は少し違う。
夜の名前を明かすのに、夜へ逃げたくなかった。
ノアとしてではなく、朝倉澪として会いたい。
「放課後」
澪はゆっくり言う。
「学校の裏の、旧校舎側の渡り廊下」
朔が少しだけ目を細める。
「あそこ、あんまり人いないな」
「うん」
「わかった」
短い返事。
でも、その声にはきちんと覚悟があった。
「澪」
「何」
「ちゃんと聞く」
朝の道で、もう一度言われる。
それだけで胸がいっぱいになる。
「……うん」
「逃げないで来いよ」
「行く」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
学校へ着いてからの時間は、妙に現実味が薄かった。
ホームルーム。
一限目。
二限目。
休み時間のざわめき。
先生の声。
ノートに走るシャープペンの音。
全部がいつも通り進んでいるのに、澪の意識はずっと放課後の一点に向かっていた。
旧校舎側の渡り廊下。
そこで、朔に話す。
ノアが自分だと。
夜の中でずっと隣にいたのは、朝倉澪だったのだと。
何度も頭の中で言葉を組み立てる。
でも、どの言い方もしっくりこない。
謝罪から入るべきか。
好きの話から入るべきか。
それとも、ただ正体を先に言うべきか。
考えれば考えるほど、心臓が重くなる。
「朝倉」
昼休み、夏希が弁当箱を片手にやってきた。
「今日、何か決めた?」
さすがだと思う。
何も言っていないのに、顔でわかるらしい。
「……放課後、朔と話す」
小さく言うと、夏希の表情が引き締まった。
「どこまで」
「たぶん」
一度、息を吸う。
「ノアのこと」
夏希はしばらく黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「そっか」
「うん」
「行くんだ」
「行く」
「怖い?」
「怖い」
即答だった。
夏希は少しだけ笑う。
「だよね」
「でも、もう無理」
「うん」
「隠したままだと、好きって言えない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥の輪郭がまたはっきりした。
そうだ。
自分は好きと言いたい。
でもその前に、隠しているものを渡さなければいけない。
きれいな恋だけを差し出すには、ノアとして近づきすぎた時間があまりにも重い。
夏希は箸を止めて、静かに言った。
「朝倉」
「何」
「言い方を間違えないようにって考えすぎなくていいと思う」
「でも」
「大事なのは、きれいに言うことじゃなくて、自分の言葉で言うことでしょ」
その一言で、昨夜のアークの声が重なる。
――君の言葉で聞く。
そうだ。
正解の言い方を探すのではなく、自分の言葉で言うしかない。
「……うん」
「大丈夫」
夏希は短く言う。
「たぶん、神谷はちゃんと聞くよ」
「知ってる」
「なら、行ってきな」
その声に、少しだけ背中を押された。
午後の授業は、さらに長く感じた。
時計を見るたびに、針が進んでいないように思える。
けれど時間は確実に過ぎて、六限の終わりを告げるチャイムが鳴った。
教室が一気にざわめく。
椅子を引く音。
鞄を閉める音。
友人を呼ぶ声。
その全部の中で、澪はゆっくり立ち上がった。
前方で朔も席を立つ。
目が合う。
言葉はなかった。
でも、約束の場所へ行くことは互いにわかっていた。
澪は鞄を持ち、教室を出た。
廊下には帰る生徒たちがまだ多い。階段を下りる足音、部活へ向かう笑い声、端末越しに誰かと話す声。その中を抜けて、旧校舎側へ向かう。
旧校舎へ続く渡り廊下は、予想通り人が少なかった。
普段使われる教室から少し離れていて、夕方の光が斜めに差し込んでいる。窓の向こうには中庭が見え、木々の影が床へ細く揺れていた。
澪は渡り廊下の中央で立ち止まった。
手のひらが汗ばんでいる。
喉が乾く。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
少しして、足音が近づいてきた。
振り向くと、朔がいた。
鞄を片手に持って、こちらへ歩いてくる。
その表情は真剣で、でも怖がらせないように少しだけやわらかかった。
「待たせた?」
「ううん」
「そっか」
それだけの会話で、空気が張る。
窓の外で風が木を揺らした。
渡り廊下に、葉の影がちらちらと動く。
「澪」
朔が静かに言う。
「聞く」
その一言で、胸の奥がいっぱいになった。
ここまで来た。
もう、引き返せない。
「……うん」
澪は頷く。
「私の名前で、会いに来た」
朔の目が少しだけ揺れる。
「朝倉澪として」
声が震える。
でも止めない。
「ちゃんと話すために、来た」
それだけ言えただけで、もう泣きそうだった。
朔は何も言わない。
ただ、ちゃんと聞いている。
「好きって言いたいって、前に言った」
「うん」
「でも、その前に言わなきゃいけないことがあるって」
「うん」
「それを、今日」
喉が詰まる。
でも、ここで止まったらまた同じだ。
「今日、話したい」
朔が静かに頷く。
「わかった」
その声は少しだけ低かった。
「ちゃんと聞く」
夕方の渡り廊下に、二人だけの沈黙が落ちた。
澪はゆっくり息を吸う。
何度も頭の中で練習した言葉は、もうほとんど残っていない。
でも、それでいいと思った。
これは、きれいに整えた告白ではない。
隠してきた自分を、好きな人へ差し出すための言葉だ。
だから、自分の名前で言うしかない。
「朔」
「何」
「夜のこと」
声が震えた。
「ノアのこと」
朔の表情が、ほんのわずかに変わる。
でも口を挟まない。
澪はその目を見た。
逃げずに。
朝倉澪として。
「ずっと」
息を吸う。
「隠してたことがある」
言葉はそこまでで一度途切れた。
でも、もう止まるための沈黙ではなかった。
次に言うための沈黙だった。




