第6章 第2話:その声を、知っている気がした
その夜、ノアはログインする直前まで、フルダイブ装置の前で手を止めていた。
部屋は静かだった。
机の上にはスマート端末が伏せて置かれている。昼間、朔から届いた言葉は、画面を見なくてもまだ胸の奥に残っていた。
――ちゃんと聞く。
その一言だけで、どれだけ救われたかわからない。
でも同時に、その言葉はもう逃げられないという合図でもあった。
現実の朔は、受け取る準備をしている。
夜のアークは、名前の奥にいる自分を知りたがっている。
どちらも同じ人で、どちらももう、澪の手前まで来ている。
ログインすれば、ノアになる。
でも今夜のノアは、もう安全な隠れ場所ではない。
「……行くしかない」
小さく呟いて、澪は目を閉じた。
視界が暗転し、次に開いた時には、アステリオの中央広場に立っていた。
白い塔。
青い噴水。
石畳を流れる淡い術式の光。
何度も見てきた景色なのに、今夜は少しだけ息苦しい。
『ノア』
すぐに個別回線が開いた。
アークの声だった。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。
現実の朔と同じ声。
なのに、ここではアークとして届く声。
「……来た」
『うん』
短い返事。
それだけなのに、今夜は互いに探り合うような間があった。
『少しだけ、行きたい場所ある』
「どこ」
『《硝子鐘の廃塔》』
聞き覚えのある名前だった。
以前、一度だけ五人で入ったことがある。透明な鐘と反響する音が特徴の、戦闘より探索寄りの静かなマップだ。
「二人?」
『今は』
やっぱり。
でも、今夜はもうその言葉に驚かなかった。
「……行く」
『うん』
転送された先は、青白い月明かりに照らされた廃塔だった。
足元は半透明の硝子石でできていて、歩くたびにかすかな音が鳴る。塔の内部は吹き抜けになっていて、中心には巨大な硝子の鐘が吊るされていた。風が通るたび、鐘は鳴らないまま淡い光だけを返す。
壁には割れたステンドグラスが残り、そこから差し込む光が床に細い模様を落としていた。
「ここ、音が響く」
ノアが小さく言う。
『だから、足音で敵の位置拾える』
アークが少し前を歩きながら答える。
『ノアなら気づくと思った』
「……またそういう言い方」
『嫌?』
「嫌じゃない」
そう答えてから、ノアは少しだけ目を伏せた。
嫌じゃない。
現実でも同じことを言った。
困るけれど、嫌じゃない。
その感情が、最近はどちらの名前でも同じになっている。
塔の一層目を進むと、小型の影獣が硝子柱の陰から湧いた。
ノアが即座に拘束陣を展開し、アークが剣で斬り払う。床に反響する金属音、影獣の消える音、術式がほどける音。そのすべてが普段よりはっきり聞こえた。
「左、まだ一体」
『見えた』
「足元、割れてる」
『了解』
短いやり取り。
それだけで動ける。
その自然さが、今は少しだけ怖かった。
戦闘が終わり、アークは剣を収めた。
『やっぱり、わかるんだよな』
「何が」
『ノアの指示』
アークは少し振り返る。
『短くても、どこを見てるかわかる』
「……それは、慣れたから」
『慣れだけじゃない気がする』
その声が、静かに近づいてくる。
ノアは答えなかった。
答えると、何かがこぼれそうだった。
二層目へ上がる階段は、硝子でできた螺旋階段だった。
足を置くたびに、澄んだ音が薄く鳴る。下を見れば、塔の底まで見えてしまうほど透明で、少しだけ足元が頼りない。
「高い」
『怖い?』
「怖くない」
『嘘』
即答だった。
ノアは思わず足を止める。
その返し方。
その声音。
現実の朔が、何度も澪へ向けてきたものと同じだった。
「……そういうとこ」
『何』
「何でもない」
『またそれ』
アークの声が少しだけ低くなる。
『最近、何でもないが増えた』
「知ってる」
『知ってるなら』
「でも今は、それしか言えない」
そこまで言ってしまってから、ノアは自分で息を止めた。
まただ。
また、半分認めるようなことを言ってしまった。
アークはすぐには返事をしなかった。
螺旋階段の途中で、二人分の足音だけが止まる。
吹き抜けの下から、風が細く上がってきた。
『ノア』
「何」
『その声』
アークがゆっくり言う。
『知ってる気がした』
ノアの背筋が、ひやりと冷えた。
「……声?」
『声っていうか』
アークは言葉を探している。
『今の言い方。息の落とし方とか、黙る直前の感じとか』
「そんなの、よくある」
『そうかもしれない』
けれど、アークの声は引かなかった。
『でも、よくあるって思えないくらい、引っかかる』
ノアは手すりへ指先を置いた。
透明な硝子は冷たく、少しだけ現実感があった。
「……気のせい」
『それも最近、聞き飽きた』
「アーク」
『うん』
「今は、まだだめ」
言ってしまった。
否定ではなく、延期。
それはもう、ほとんど認めているようなものだった。
アークは黙った。
長い沈黙だった。
責められるかもしれない。
問い詰められるかもしれない。
そう思って、ノアは喉の奥をきゅっと締める。
けれど返ってきた声は、思っていたよりずっと静かだった。
『じゃあ』
「……」
『君の言葉で聞く』
ノアは顔を上げた。
『俺が当てにいくんじゃなくて』
アークはまっすぐこちらを見る。
『ノアが、自分の言葉で言うまで待つ』
その言葉に、胸の奥が痛いほど熱くなる。
優しい。
でも、逃げ道ではない。
待つけれど、なかったことにはしない。
現実の朔と同じだ。
「……ずるい」
『何が』
「そうやって、ちゃんと待つところ」
『待ちたいわけじゃない』
アークは正直に言った。
『本当は今すぐ知りたい』
ノアの呼吸が浅くなる。
『でも、無理に取るものじゃないだろ』
「……」
『たぶん、大事なことだから』
その言い方に、もう何も返せなかった。
大事なこと。
そうだ。
これはただの正体ではない。
ノアとして積み上げた時間と、澪として抱えてきた恋の、両方に関わることだ。
「アーク」
『何』
「もし」
言いかけて、言葉が詰まる。
でも今夜は、少しだけ進まなければいけない気がした。
「もし、聞いたら」
『うん』
「今までのノアとしての時間も、変わるかもしれない」
『うん』
「アークが思ってるより、面倒なことかもしれない」
『それでもいい』
即答だった。
ノアは息を呑む。
『面倒でも』
アークは続ける。
『変わっても』
『俺は、それごと知りたい』
その言葉が、胸に深く刺さった。
昨夜、現実の朔も言った。
それごと知りたい、と。
同じ人だから当たり前なのに、同じ言葉が違う名前へ向けられるたび、心の中の境界線がさらに薄くなる。
「……ほんとに」
ノアは小さく言う。
「君は、同じこと言う」
『同じ?』
しまった、と思った。
アークの目がわずかに変わる。
『誰と』
「……何でもない」
『ノア』
「今は」
声が少しだけ震えた。
「本当に、まだ」
アークはそれ以上聞かなかった。
ただ、静かに頷いた。
『わかった』
その一言に、救われる。
でも同時に、もっと苦しくなる。
二人は再び階段を上った。
塔の上層に近づくほど、硝子の鐘から反射する光が強くなる。周囲のステンドグラスが割れているせいで、月明かりが複雑に床へ散り、二人の影をいくつにも分けていた。
三層目の広間に着くと、中央に小さな鐘が浮かんでいた。
近づくと、敵ではなく記憶再生型のギミックらしい淡い映像が立ち上がる。
古いプレイヤーの声が、塔の中にぼんやり響いた。
『本当の名前を言うのが怖いなら』
『せめて、呼ばれたい名前を選べばいい』
その台詞に、ノアは思わず足を止めた。
偶然だ。
ただのマップ演出。
そうわかっているのに、あまりに今の自分へ向けられているみたいだった。
『ノア』
アークの声が低くなる。
『大丈夫?』
「……大丈夫」
『嘘』
また、同じ返し。
でも今度は逃げなかった。
「大丈夫じゃない」
ノアは小さく言った。
アークが息を止める気配がした。
「でも」
続ける。
「逃げないようには、してる」
それが今夜の限界だった。
アークはしばらく黙って、それから静かに言う。
『うん』
『それなら、待つ』
その言葉で、ノアはやっと少しだけ息ができた。
共通通話にセレスの接続音が入ったのは、その直後だった。
続いてフレア、少し遅れてピピの声も重なる。
『二人とも、どこまで行ってるの』
フレアが呆れたように言う。
『硝子鐘の廃塔、三層』
アークが答える。
『また二人でしんみりしてそうな場所行ってるー!』
ピピの声が明るく響く。
『ノアさん、大丈夫ですか?』
セレスの声はいつも通りやさしかった。
「……大丈夫」
ノアは今度は、少しだけ本当にそう答えられた。
合流後の探索は、にぎやかに進んだ。
ピピが硝子床を怖がり、フレアが冷静に罠を解除し、セレスが全体を支え、アークはいつも通り前に立つ。
でも、時々こちらを見る目だけは、もう以前とは違っていた。
知っている気がした。
君の言葉で聞く。
その二つの言葉が、探索が終わっても消えなかった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はしばらく天井を見つめていた。
部屋は暗く、外の街灯がカーテン越しに薄く光っている。
アークは、もうほとんどそこまで来ている。
でも、無理に暴こうとはしなかった。
澪の言葉で聞くと言った。
それなら、自分はもう本当に言わなければいけない。
夜の名前ではなく。
誰かに当てられるのでもなく。
朝倉澪として、自分の言葉で。
「……次は、私から」
小さく呟く。
声は震えていたけれど、その言葉だけはもう逃げではなかった。




