第6章 第1話:もう次は、隠れたままではいられない
朝の光は、思ったより白かった。
カーテンの隙間から差し込む光が、机の上の端末と、その隣に置かれたフルダイブ装置を淡く照らしている。どちらも同じようにそこにあるのに、今の澪にはまるで別の意味を持ったものに見えた。
ひとつは、朝倉澪として生きる現実。
もうひとつは、ノアとして近づいてしまった夜。
そして今、自分はその二つを分けたまま持ち続ける限界へ来ている。
ベッドの端に座ったまま、澪はしばらく動けなかった。
昨夜、朔へ言った。
好きと言いたい、と。
その前に隠しているものがある、と。
朔は受け止めてくれた。
待つと言った。
でも、ただ待つだけではなく、ちゃんと受け取るとも言った。
それがうれしい。
うれしいからこそ、もうこのまま隠れているのがひどくずるく思える。
「……もう次は」
小さく呟く。
その続きは、声にしなくても自分でわかっていた。
もう次は、隠れたままではいられない。
制服へ着替えて鏡の前に立つ。
顔色は悪くない。
でも、緊張している顔だとはすぐにわかった。
当たり前だと思う。
これから向き合おうとしているのは、好きな人で、幼馴染で、夜の中でも特別になってしまった相手なのだから。
家を出ると、朝の空気は少しだけ冷たかった。
住宅街の道は静かで、遠くで車の走る音だけが低く聞こえている。曲がり角を曲がれば、きっと朔がいる。
その当たり前だった時間が、今は前よりずっと意味を持ってしまう。
角を曲がる。
やっぱり、いた。
電柱のそばに立つ朔は、いつも通りのはずだった。
片手にスマート端末、少しだけ無造作な髪、眠そうにも見える横顔。
でも澪に気づいて顔を上げた瞬間、その目の中に一拍ぶんの静けさが生まれる。
「……おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
それだけで、互いに昨夜を覚えているのがわかる。
並んで歩き出す。
歩幅は合う。
昔から何百回もこうして歩いてきたから、身体が勝手に距離を知っている。
でも今は、その自然さの上にもうひとつ別の緊張が重なっていた。
「眠そう」
朔が言う。
「……そっちも」
「まあ」
少しだけ苦く笑う。
「寝たようで寝てない」
「私も」
短い会話。
それだけなのに、胸の奥は少しも落ち着かない。
朝の風が二人のあいだを抜ける。
信号の手前で自然に歩調が緩む。
そんな何でもない動作の全部が、前より近く感じる。
「澪」
朔が名前を呼んだ。
「何」
「昨日のこと」
その一言だけで、心臓がひとつ強く打つ。
「……うん」
「ちゃんと覚えてる」
低く静かな声だった。
「うん」
「好きって言いたいって言ったことも」
澪は目を伏せる。
「……うん」
「その前に、言わなきゃいけないことがあるってことも」
「うん」
返事をするたび、胸の奥が熱くなる。
軽く流されていない。
ちゃんと持たれている。
それがどれだけ救いか、今の澪にはよくわかる。
「だから」
朔が続ける。
「待つって言ったけど」
「うん」
「今回は、ただ待ってるだけじゃなくて、ちゃんと受け取る側でいたい」
その言葉が、朝の光の中で静かに胸へ落ちる。
受け取る側でいる。
待つだけではなく。
逃げずに向き合うという意味だとわかる。
「……ありがとう」
自然にこぼれた声は少しかすれていた。
朔は少しだけ視線を前へ戻し、それから小さく息を吐く。
「でも、正直」
「何」
「こわいのもある」
その正直さに、澪は顔を上げた。
「朔も?」
「そりゃな」
少しだけ困ったように笑う。
「澪がそこまで言うって、たぶんかなり大きいやつだろ」
「……うん」
「で、それ聞いたら今まで通りではいられない気もする」
その言葉に、澪は小さく頷くしかなかった。
今まで通りではいられない。
それは、自分もずっと思っていたことだ。
夜の名前を明かした瞬間、きっと全部が変わる。
でも、もう変わらないふりのほうが苦しい。
「でも」
朔が言う。
「それでも、聞く準備はしてる」
その一言が、また胸を打つ。
やさしい。
でも、それだけじゃない。
受け止めようとしてくれている。
知らないふりではなく、傷つくかもしれない変化ごと引き受けるつもりでいる。
「……うん」
澪は小さく返す。
「私も、ちゃんと話す準備する」
「ほんとに?」
「ほんとに」
ここだけは、もう曖昧にしたくなかった。
学校へ着くまでの道は、思っていたより短かった。
会話は多くない。
けれど沈黙のひとつひとつが、もう前とは違う意味を持っている。
遠ざかる沈黙ではなく、次の言葉のために残されている沈黙だった。
教室へ入ると、夏希がすぐにこちらを見た。
澪が席へ着くより先に、小さく口を開く。
「何か変わった?」
「そんなに顔に出てる?」
「出てる」
即答だった。
「神谷も」
そう言われて、澪は前方の朔をちらりと見る。
たしかに、どこか張っている。
授業の準備をしている手はいつも通りなのに、気配だけが少し違う。
「……今度はちゃんと受け取る側でいるって」
小声で言うと、夏希の目が少しだけ細くなる。
「へえ」
「聞く準備してるって」
「かなり来てるね」
澪は頷く。
「だから」
「うん」
「もう逃げられない」
そう言うと、夏希は少しだけやわらかい顔をした。
「逃げるなよ」
「逃げない」
昨日も自分で決めた。
そして今朝、もう一度決めた。
午前中の授業は、内容がほとんど頭に入らなかった。
板書は写している。
先生の声も聞こえている。
でも、その全部の上にずっと別の意識が乗っている。
次に話す時、
自分は何から言うのか。
どこまで言うのか。
ノアだと明かしたその瞬間、朔はどんな顔をするのか。
こわい。
でも、その怖さの先に行かなければ何も変わらない。
昼休み、澪は教室を出て廊下の窓際へ逃げた。
少しでも一人になりたかった。
でも、その逃げ方さえ今は少しだけ変わっている。
前みたいにただ隠れるためではない。
決めたことを心の中で固めるための時間がほしかった。
窓の外では、グラウンドに白い光が落ちている。
風が細く吹いて、校舎の壁に立てかけられた案内板を小さく鳴らした。
「澪」
背後から声がして、肩が揺れる。
振り向くと、朔がいた。
以前ならこんなふうに廊下で二人きりになることにも、今ほど意味はなかっただろう。
でも今は違う。
「……何」
「ちょっとだけ」
朔は無理に近づきすぎず、少し離れた位置で窓枠へ寄りかかった。
「朝、言い忘れた」
「何を」
「どんな話でも」
少しだけ言葉を探すような間。
「ちゃんと聞くから」
その一言が、ひどくまっすぐだった。
「……うん」
「だから」
「うん」
「一人で抱えすぎるなよ」
その声音が、やさしすぎて苦しくなる。
一人で抱えてきた。
ずっと。
ノアとして積み上げた時間も、朝倉澪としての片想いも、自分の中だけでなんとか抱えてきた。
でももう、それでは無理だと自分でもわかっている。
「……わかった」
小さく答えると、朔は少しだけ表情をやわらげた。
「ならいい」
それだけ言って、昼休みの終わりを告げる鐘の前に教室へ戻っていく。
その背中を見送りながら、澪はゆっくり息を吐いた。
やっぱり、もう次は隠れたままではいられない。
この人がここまで受け止めようとしてくれているのに、自分だけが夜の名前に逃げ込むのは違う。
放課後、教室の空気が夕方へ沈んでいく頃、澪は机の中を整理するふりをしながら何度も端末を見た。
今すぐ連絡するのか。
今日ではなく明日にするのか。
少し迷って、でも結局、指先は動いた。
『今度、本当にちゃんと話したい』
『時間をください』
送信すると、想像より早く既読がつく。
心臓がまた跳ねる。
『うん』
『いつでもいい』
『ちゃんと聞く』
その返事を見た瞬間、澪は端末を胸の前でぎゅっと握りしめた。
いつでもいい。
ちゃんと聞く。
逃げ道ではなく、受け止める言葉だった。
家へ帰って自室へ入ると、フルダイブ装置がまた静かにそこにあった。
夜になればノアとしてアークに会うかもしれない。
でも、今の澪はもうその名前だけに隠れたくなかった。
「……近いうちに」
小さく呟く。
誰に向けたわけでもない。
でも、自分への約束としては十分だった。
もう次は、隠れたままではいられない。
それは怖い決意だった。
でも同時に、ようやく本当に前へ進むための決意でもあった。




