第5章 第12話:君が知りたいのは、夜の名前の奥にいる私
その夜、ノアはログインした瞬間から、胸の奥に静かな痛みを抱えていた。
現実では、もうかなり近いところまで来ている。
好きと言いたいと口にした。
その前に、言わなければいけないことがあるとも言った。
朔はそれを受け止めて、待つと言った。
それなのに、夜の名前のほうではまだ何も明かしていない。
いや、明かせていない。
ノアとして隣に立ち、ノアとして言葉を交わし、ノアとして特別になってきた時間が、本物であればあるほど、朝倉澪としての告白の前に立ちはだかる。
このままではいけない。
でも、どう壊せばいいのかはまだわからない。
アステリオの夜景は、今日も変わらずきれいだった。
白い塔の窓明かり。石畳を流れる淡い術式。中央広場の噴水に反射する青白い光。どれも見慣れた景色のはずなのに、今夜は少しだけ遠い。
『ノア』
個別回線が開く。
アークの声は、前より静かだった。
『来た』
「……来た」
『少しだけ、先にいい?』
「どこ」
『《月蝕の縁庭》』
その名前に、ノアは小さく息を呑む。
月蝕の縁庭は、アステリオ外縁に浮かぶ半壊の庭園マップだ。
戦闘はほとんどなく、視界は開けていて、夜空がひどく近い。
話すための場所みたいなマップだった。
「みんなは」
『フレアたちは別件。セレスはあとで来るかも。ピピはまだログインしてない』
少しの間。
『だから、今は二人』
やっぱり、そうなる。
でも今夜は、その“二人”が今までよりずっと重かった。
「……行く」
『うん』
転送された先は、白い石畳と崩れた円柱だけが残る静かな庭園だった。
空は濃い群青で、巨大な月が低い位置にかかっている。庭の外縁はそのまま奈落へ落ち込んでいて、足元の向こうには淡い星霧が流れていた。ひび割れた床の隙間からは、細い銀の草が風に揺れている。
「ここ、静かすぎる」
ノアが小さく言う。
「だから選んだ」
アークが返す。
「……何で」
「今夜は、ちゃんと話したかったから」
その一言で、胸の奥がまた強く鳴る。
二人は庭園の中央までは行かず、少し外縁寄りの崩れた欄干のそばで立ち止まった。
近い。
でも、まだ互いに一歩ぶんの距離を残している。
その距離が今の二人の限界みたいだった。
「ノア」
「何」
「この前の続き」
低く、静かな声。
「……うん」
「今まで通りじゃなくても、知りたいって言った」
「うん」
「変わってない」
ノアは目を伏せる。
変わっていないどころか、たぶん向こうはさらに確信へ近づいている。
「ノアが隠してるもの」
アークが続ける。
「それが何なのか、最近ずっと考えてる」
「……」
「考えるたび、ただの情報じゃないんだろうなって思う」
風が、銀の草を小さく揺らした。
「ただの情報じゃない」
アークは繰り返す。
「ノアそのものに近いものなんだろうって」
その言葉が、静かに胸へ刺さる。
そうだ。
もうそこまで来ている。
アークは、ノアの向こう側に人がいると知っている。
しかもその人のことを、ただ暴きたいわけではない。
知りたいのだ。
近づきたいのだ。
だから苦しい。
「……アーク」
ノアはやっと声を出す。
「何」
「君、最近ほんとにずるい」
「何回目」
「何回でも言う」
アークがほんの少しだけ笑う。
でも、その笑いはすぐに消えた。
「ノア」
「うん」
「知りたいのは、ノアって名前じゃない」
その一言で、空気が変わった気がした。
風の音が遠のく。
月の光が白すぎる。
心臓の音だけが、やけにはっきり響く。
「……」
「その奥にいる君だ」
ノアは息を止めた。
それはもう、正体を知りたいという言葉よりずっと近かった。
名前でも、アバターでも、偶然似ている誰かでもなく。
その奥にいる“君”。
「……それ」
ノアは喉の奥から絞り出す。
「聞いたら、もう戻れない」
「戻りたい?」
アークが静かに聞く。
戻りたいわけじゃない。
でも、戻れないことが怖い。
その先には、告白も、正体も、全部が一気に繋がってしまう未来があるから。
「……怖い」
ノアは正直に言った。
「うん」
「知ってほしい気持ちもある」
「うん」
「でも、知ったら壊れるかもしれない」
声が少しだけ震える。
「今のままじゃいられない」
「それも知ってる」
アークの返事はやわらかかった。
でも、やわらかいだけでは終わらない声音だった。
「でも」
アークが続ける。
「今のままでも、もうたぶん限界なんだろ」
その言葉が、胸の奥の一番痛いところへ落ちる。
限界。
そうだ。
現実の朔にも、好きの前に隠しているものがあると言った。
だったら夜のアークにも、もう何もない顔はできない。
「……うん」
小さく頷く。
「限界」
「なら」
アークは少しだけ前へ踏み出した。
「いつかじゃなくて、近いうちに向き合ってほしい」
ノアは顔を上げる。
いつか、ではなく。
近いうちに。
それは猶予をくれる言葉でありながら、先延ばしの逃げ道はくれない言葉でもあった。
「今すぐじゃなくていい」
アークは続ける。
「でも、俺はもうノアって名前だけ見てるわけじゃない」
「……」
「その奥を知りたい」
その真っ直ぐさが苦しい。
でも、どうしようもなくうれしい。
「知りたいのは」
アークは少しだけ視線を落としてから、またまっすぐこちらを見る。
「たぶん、俺が今いちばん近づきたい相手だから」
ノアの喉が熱くなる。
いちばん近づきたい相手。
その言葉は、恋と呼ぶにはまだ曖昧かもしれない。
でも、もう友人や仲間だけではない場所にある言葉だった。
「……反則」
またそれしか言えない。
「何が」
「そんな言い方」
「本気だから」
現実の朔と同じだ。
軽く流せない。
やさしいのに、逃がしてくれない。
だから、好きになってしまったのだと、今夜ははっきり思う。
「ノア」
また呼ばれる。
「何」
「君が誰でも」
少しだけ息を置く。
「そのことを知って、嫌いになる気はしない」
ノアは目を見開いた。
そこまで言うのかと思った。
まだ何も知らないのに。
それでも、知った先まで想像して言うのかと思った。
「……そんなの」
声がうまく出ない。
「わからないじゃん」
「そうだな」
アークは頷く。
「わからない」
「なら」
「でも」
かぶせるように続ける。
「わからないまま遠ざかるほうが、今は嫌だ」
それは、今の澪自身の本音でもあった。
わからないから怖い。
でも、わからないまま離れていくほうがもっと嫌だ。
だからここまで来た。
現実でも、夜でも、少しずつ前へ出てしまった。
「……私」
ノアはゆっくり息を吸う。
今ここで全部明かすことはできない。
でも、もう何もないふりはできない。
「何」
「たぶん、君が思ってるより」
喉が少し詰まる。
「近いところにいる」
言った瞬間、自分でも何を言ったのかと思った。
かなり危うい。
でも、それ以上ごまかすのも違う気がした。
アークが目を見開く。
「近い?」
「……うん」
「それって」
「今はそこまで」
ノアはすぐに言葉を切る。
「それ以上言うと、ほんとに戻れない」
アークはしばらく黙っていた。
その沈黙が、怖い。
でも、やがて返ってきた声は静かだった。
「戻れなくていいって思ってるの、俺だけじゃなさそうだな」
その一言に、ノアは返事ができなかった。
図星だったからだ。
本当は、自分だって戻りたいわけじゃない。
ただ、壊し方が怖いだけだ。
その時、共通通話にセレスの接続音が入った。
続いてフレアも、少し遅れてピピの明るい声が飛び込んでくる。
『二人とも、もう縁庭にいるんですね』
セレスのやわらかい声。
『早いわね』
フレアが短く言う。
『また先行ってるー!』
ピピが騒ぐ。
二人だけの空気は、そこでようやく少しほどけた。
ノアは浅く息を吐く。
助かった、と思う。
でも、もう終わってはいないともわかっていた。
『……中央の崩れた欄干のところ』
アークが答える。
『今行きますね』
『追いつくー!』
合流後の探索は、表面上はいつも通りだった。
フレアが冷静にルートを決め、セレスがやわらかく支え、ピピがにぎやかに空気を動かす。アークも戦闘中は無駄なく動く。
けれど、時々こちらへ向く目だけが、前よりずっと深かった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドの上へ座り込んだまま動けなかった。
部屋は静かだった。
窓の外の街灯が、床へ四角い光を落としている。
「……近いうちに」
小さく呟く。
その言葉が、今夜は前よりずっと現実味を持っていた。
知りたいのは、夜の名前の奥にいる私。
アークはそう言った。
そして自分は、たぶん思っているより近いところにいると返してしまった。
もう、完全な隠れ場所には戻れない。
ノアのままで、
朝倉澪の恋を抱えたままで、
どちらも守り切ることはできない。
次はもう、
隠れたままではいられない。
その覚悟だけが、今夜ははっきりと胸の奥に残っていた。




