第5章 第11話:好きの前に、隠してるものがある
その日の夜は、空気が少しだけ冷たかった。
自室の窓の外では、住宅街の灯りが静かに瞬いている。遠くを走る車の音が低く流れて、部屋の中には机の上の端末だけが薄い光を落としていた。フルダイブ装置はその隣で沈黙している。
澪はベッドの端に座ったまま、何度もスマート端末の画面を見ていた。
昨夜、自分から会いに行った。
そして、逃げないことだけは伝えた。
でもそれだけでは足りない。
足りないと、もう自分でもわかっている。
好きだと言いたい。
ちゃんと朝倉澪として。
でも、その前にあるものが重すぎる。
ノアのこと。
夜の名前。
隠したまま近づいてしまった時間。
それを抱えたまま、好きだけ先にきれいな顔で差し出すことが、今の澪にはどうしてもできなかった。
画面の上に、朔とのメッセージ履歴がある。
少し前、自分から送った「少し会いたい」。
返ってきた「うん、会う」。
そのやり取りを見ているだけで、胸の奥が静かに熱くなる。
今夜も、会う。
それはもう決まっていた。
指先で短く打つ。
『少しだけ、また会える?』
送信してから、息を止める。
昨日よりも怖い。
今日は、もう少し先まで言うつもりでいるからだ。
既読はすぐについた。
『会える』
『昨日と同じ公園でいい?』
その返事だけで、少しだけ肩の力が抜ける。
逃げていない。
向こうも、ちゃんとこの時間を受け取っている。
『うん』
それだけ返して、澪は立ち上がった。
薄いパーカーを羽織り、音を立てないように部屋を出る。廊下は暗く、家族の生活音はもう遠い。玄関の鍵をそっと開けると、夜の空気がひんやり頬に触れた。
公園には、昨日と同じ街灯がひとつ灯っていた。
ブランコ、滑り台、低い柵。昔から何も変わっていないように見える小さな公園が、夜になると少しだけ別の場所みたいに見える。静かで、逃げ場がない。
朔はもう来ていた。
ベンチのそばに立っていて、こちらに気づくと少しだけ表情をやわらげる。
「来た」
低い声。
「……うん」
澪も返す。
昨日より少し近い。
でも、まだ触れられない距離。
その半端さが、今の二人にはまだ必要だった。
「また呼んでくれて、ありがと」
朔が言う。
「こっちこそ」
「今日は」
少しだけ視線を落とす。
「昨日より緊張してる?」
澪は思わず苦く笑いそうになる。
「……してる」
「やっぱり」
「わかる?」
「わかる」
迷いのない返答だった。
「昨日より、何か決めてきた顔してる」
その言葉に、胸がひとつ大きく鳴る。
決めてきた。
たしかにそうだ。
全部じゃない。
でも、もう避けられないことを言うと決めてきた。
二人はベンチには座らず、少し離れて向かい合うように立った。
夜風が小さく吹いて、ブランコの鎖がかすかに鳴る。
「朔」
澪は先に名前を呼ぶ。
「何」
「今日、私から呼んだの」
「うん」
「ちゃんと話したかったから」
朔は黙って頷いた。
その頷きが、続きを待っている。
喉が少し乾く。
心臓の音がうるさい。
でも、今夜は引き返したくなかった。
「私」
澪はゆっくり息を吸う。
「朔に、好きって言いたい」
言葉にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
好き。
やっと、そこまで口にした。
はっきりと。
逃がさない形で。
朔の目がわずかに見開かれる。
街灯の下で、その表情だけがやけにはっきり見えた。
「……言いたい?」
朔が静かに聞く。
「うん」
澪は頷く。
「言いたい」
「でも、まだ言えてない」
「……うん」
それが今の自分のいちばん苦しいところだった。
「どうして」
やさしい声だった。
責めていない。
でも、逃げ道にもしてくれない。
澪は目を伏せた。
ここだと思う。
好きの前にあるものを、少しでも口にしなければいけない場所だ。
「その前に」
指先が少し震える。
「言わなきゃいけないことがあるから」
朔の呼吸が、わずかに変わる。
「俺に?」
「うん」
「……大きいやつ?」
その聞き方に、澪は少しだけ笑えそうになった。
でも実際、その通りだった。
「大きい」
小さく答える。
「かなり」
夜の空気が静かに張る。
遠くの道路を走る車の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「それが」
朔がゆっくり聞く。
「好きって言い切れない理由?」
「……うん」
「俺に関係ある?」
「ある」
即答だった。
そこだけは、もうごまかせない。
朔はしばらく黙った。
でも視線は逸らさない。
ちゃんと受け止めようとしているのがわかる。
「そっか」
短い返事。
でも、その中に重みがあった。
「ごめん」
澪が言うと、朔はすぐに眉を寄せる。
「また謝る」
「だって」
「謝られると、余計苦しい」
その一言が、胸に深く落ちる。
苦しいのは、自分だけじゃない。
その当たり前のことを、今さらみたいに思い知る。
「……ごめん」
「だから」
朔は少しだけ息を吐く。
「そこ、ループしなくていい」
いつもの朔みたいな言い方なのに、今夜はそれすらやさしすぎる。
「俺さ」
少しだけ間を置く。
「今の聞いて、うれしかった」
また、その言葉だ。
でも今夜の“うれしい”は、今まででいちばん近い。
「……うん」
「でも同時に」
朔は続ける。
「やっぱり、澪の中にまだ俺が知らない大きいものがあるんだなって思った」
澪は小さく頷いた。
「ある」
「それも、たぶんかなり大事なやつ」
「うん」
「だから」
朔の声が少しだけ低くなる。
「それごと知りたい」
その言葉に、澪は目を見開いた。
知りたい。
また、そこへ来る。
でも今度は現実の朔が、まっすぐ自分へ向けて言った。
「……それ、ずるい」
思わずそう呟く。
「何で」
「そんなふうに言われたら」
喉が熱い。
「もう、逃げてるのが嫌になるから」
それは、かなり本音だった。
朔はしばらく黙って、それから静かに言う。
「逃げないでほしい」
その一言だけで、胸の奥がいっぱいになる。
「でも」
澪は続ける。
「もし言ったら」
「うん」
「今まで通りじゃいられないと思う」
「知ってる」
「こわい」
「うん」
「壊れるかもしれない」
「かもな」
朔は否定しなかった。
その代わり、少しだけ前へ踏み出した。
「でも」
やわらかい声。
「壊れるかもしれないから知らないままでいよう、とは思えない」
澪は息を止める。
それは、昨夜のアークと同じだった。
今まで通りじゃなくてもいい。
知りたい。
その言葉を、今は現実の朔が、自分へ向けている。
「……朔」
「何」
「私、ちゃんと話す」
今すぐではない。
でも、先延ばしだけでは終わらせない。
「逃げない」
それだけは、今ここではっきり言えた。
朔は長く息を吐いた。
緊張が少しだけほどけたみたいな音だった。
「うん」
静かな返事。
「待つ」
「……うん」
「でも」
少しだけ苦く笑う。
「今までよりは、ちゃんと期待する」
その言い方に、澪の頬がまた熱くなる。
期待。
もう互いに、その言葉を隠さなくなっている。
それがうれしくて、同時にもう誤魔化しようもない。
「……していい」
澪が小さく言うと、朔の目がわずかに揺れた。
「それ、今日二回目だぞ」
「知ってる」
「かなり大きい」
「知ってる」
やっと少しだけ、二人とも笑った。
夜風がまた吹く。
さっきまで張りつめていた空気が、少しだけやわらかくなる。
でも、やわらかくなったからといって軽くなったわけではない。
むしろ今のほうが、互いにちゃんと抱えるものの重さを知っている。
「澪」
朔がもう一度名前を呼ぶ。
「何」
「今の話、ちゃんと覚えとく」
その言葉に、また胸が熱くなる。
「うん」
「好きって言いたいって言ったことも」
澪は目を伏せた。
「うん」
「その前に言わなきゃいけないことがあるってことも」
「……うん」
「どっちも、なかったことにしない」
その一言が、今夜いちばん救いだった。
なかったことにされない。
途中までしか言えなかった自分の言葉も、
まだ隠しているものの重さも、
全部ちゃんと受け止めた上で待つと言ってくれている。
それがどれだけありがたいか、今の澪には言葉にしきれない。
「ありがとう」
やっとそれだけ言うと、朔は少しだけ困ったように笑う。
「礼ばっかだな」
「だって」
「うん」
「ほんとに、助かってるから」
その本音に、朔は小さく頷いた。
公園を出て家まで歩く道は、昨日より少しだけ静かだった。
話すことがないわけじゃない。
でも、今夜は余計な言葉を足さないほうがいいと、互いにわかっていた。
家の前で立ち止まる。
街灯の光が、舗道の端を白く照らしている。
「おやすみ」
澪が言う。
「おやすみ」
朔も返す。
少しだけ間が空いて、それから朔が付け足す。
「次、待ってる」
その一言に、また胸が鳴る。
「……うん」
「逃げるなよ」
「逃げない」
そう返した瞬間、自分でも驚くくらいまっすぐ言えた。
家へ入って自室へ戻ると、澪はベッドへ腰を下ろしたまましばらく動けなかった。
好きと言いたい、と言った。
その前に言わなきゃいけないことがある、とも言った。
どちらも、今までよりずっと核心に近い。
でも、まだ全部は言えていない。
ノアのこと。
夜の自分。
そこへ繋がる一番重い扉は、まだ閉じたままだ。
「……次」
小さく呟く。
その言葉は、今夜はもう逃げの“次”ではなかった。
好きの前に隠してるものがある。
なら、その隠してるものに、もう向き合うしかないのだと、
澪ははっきり思っていた。




