第5章 第10話:言えないまま会いに行く夜
夜の部屋は、昼間よりずっと静かだった。
机の上のスマート端末だけが、薄い光を落としている。
フルダイブ装置はその横で沈黙したまま、澪がどちらを先に選ぶのかを待っているみたいだった。
隠して守るか、
言って失うか。
さっきまで夏希と話していた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
でも、もう答えは半分決まっていた。
守るだけでは、この恋はもう守れない。
壊れるのが怖くても、自分で進まなければいけない。
澪はベッドの端に座ったまま、スマート端末の画面を見つめる。
朔とのメッセージ画面は、最後のやり取りのまま止まっていた。
『さっきの続き』
『またちゃんと話したい』
『うん』
『私も』
そこから先へ、今夜は自分から進まなければいけない。
指先が少し震える。
たった数文字のメッセージなのに、告白よりずっと怖い気がした。
でも、それでも送らなければ何も変わらない。
澪は深く息を吸って、短く打ち込む。
『少し会いたい』
送信した瞬間、心臓がひどく大きく鳴った。
取り消したいとは思わない。
でも、返事が来るまでの数秒がやけに長い。
画面の上に既読がつく。
すぐに返信が返ってきた。
『うん、会う』
その一文を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
会う。
向こうも迷わずそう返した。
それだけで、少しだけ救われる。
続けてもう一件届く。
『今からでも平気?』
澪は唇を軽く噛んだ。
今から。
夜の、会う理由を自分から作った時間。
怖い。
でも、ここでためらってまた先延ばしにしたら、たぶん何も変わらない。
『平気』
『近くの公園でいい?』
送ると、返信はすぐだった。
『わかった』
『五分くらいで行く』
画面を見つめたまま、澪はしばらく動けなかった。
たったこれだけの往復なのに、息が浅い。
好きな人に自分から会いたいと言うことが、こんなにも体温を上げるのだと初めて知る。
立ち上がって、部屋着の上に薄いパーカーを羽織る。
鏡を見る余裕はなかった。
見たところでどうにもならない気がしたからだ。
音を立てないように玄関を開け、夜の住宅街へ出る。
外の空気は少し冷たかった。
昼間の熱がきれいに抜けていて、街灯の光が道路の端を白く照らしている。遠くで犬の鳴く声がして、どこかの家の窓からテレビの音が漏れていた。
何でもない夜だ。
でも、今の澪にとっては全部が少しずつ特別だった。
公園へ着くと、ブランコが風に小さく揺れていた。
昼間は子どもたちの声で満ちる場所も、夜になると急に静かになる。古いベンチと滑り台、低いフェンス、街灯ひとつ。昔から変わらない小さな公園だ。
朔はもう来ていた。
ブランコのそばに立って、スマート端末をポケットへしまうところだった。こちらに気づくと、ほんの少しだけ表情がやわらぐ。
「来た」
朔が言う。
「……うん」
澪も小さく返す。
少しの沈黙。
気まずいわけではない。
でも今夜は、今まで何度もここで交わしてきた何でもない会話では足りないのだと、互いにわかっている沈黙だった。
「連絡」
朔が先に口を開く。
「ちょっとびっくりした」
「……ごめん」
「いや」
少しだけ笑う。
「うれしかった」
またその言葉だ。
でも今夜のそれは、今までよりずっと深く響いた。
「私も」
澪は正直に言う。
「送るの、すごく怖かった」
「そりゃそうか」
「うん」
「でも、来てくれてよかった」
その一言で、また胸が熱くなる。
ブランコには座らず、二人とも少し距離を空けて立ったままだった。
近い。
でもまだ触れられない。
今の二人には、その距離がいちばん正直だった。
「澪」
「何」
「この前から、ずっと思ってる」
低い声だった。
「俺、たぶん前よりちゃんと澪のこと見てる」
心臓がひとつ跳ねる。
「……うん」
「で、その分」
朔は少しだけ言葉を探した。
「今まで知らなかったこととか、言ってないこととか、そういうのも見えてきた」
「……」
「見えてきたから、余計知りたくなる」
夜風が、二人のあいだを細く通り抜ける。
知りたい。
やっぱり、そこへ来る。
現実の朔も、夜のアークも、同じ場所へ。
「ごめん」
澪は思わず言った。
「何で謝る」
「まだ、全部言えないから」
朔はすぐには返事をしなかった。
その沈黙が、責めるものではないとわかるからこそ余計に苦しい。
「……うん」
やがて、静かな声が返る。
「それはもうわかってる」
「うん」
「でも」
朔が続ける。
「だからって、何も聞かないふりもできない」
澪は目を伏せた。
それも、わかっている。
知らないふりはしない。
待つだけじゃなく、知りたい。
向こうはもうそこまで言っている。
その真っ直ぐさがうれしくて、でも同時に、ノアを隠したままではもういられないことも思い知らされる。
「……私」
澪はゆっくり息を吸った。
今、全部を言うことはできない。
でも、逃げるような言い方ももうしたくなかった。
「何」
「ちゃんと、逃げないで話したい」
声が少しだけ震える。
「今すぐ全部じゃなくても」
「うん」
「ごまかしたまま終わるのは、もう嫌」
それが、今の自分に言える精一杯だった。
朔はしばらく黙って、それから小さく頷く。
「そっか」
「うん」
「それ聞けただけでも、かなり大きい」
その言葉に、少しだけ救われる。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
「でも」
「俺も、全部一気に聞けると思ってない」
朔は苦く笑う。
「そんな器用じゃないし」
その言い方が少しだけいつもの朔に戻って、澪はほんの少しだけ息をつけた。
「ただ」
朔が続ける。
「今日、澪が自分から会いたいって言ってくれたの、かなりうれしかった」
また、その言葉。
でも今夜は、その一つ一つが今までと違う意味を持っている。
「私も」
澪は勇気を出して続ける。
「朔に、自分から会いに来たかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
かなり踏み込んだ。
でも、今夜はこれくらい言わなければだめだと思った。
朔が目を見開く。
それから、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……それ、ずるい」
「何で」
「そんなの」
苦笑に近い表情。
「期待するに決まってる」
その返しに、胸の奥が強く鳴る。
期待。
その言葉が、こんなにまっすぐ向けられる日が来るなんて、少し前の自分は想像もしていなかった。
「……して」
気づけば、そう言っていた。
「え」
「期待、していい」
言った瞬間、もう逃げられないと思った。
でも、取り消したいとは思わなかった。
朔はしばらく動かなかった。
夜の街灯の下で、その表情だけがやけにはっきり見える。
「澪」
「何」
「今の、かなり大きい」
「……知ってる」
「じゃあいい」
少しだけ笑う。
「俺も、ちゃんと受け取る」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
ちゃんと受け取る。
何度も言われてきた言葉。
でも今夜のそれは、前よりずっと重くて、やさしかった。
ブランコの鎖が風で小さく鳴る。
二人の沈黙は長かった。
でも、嫌な沈黙ではない。
これまで言えなかったものが少しだけ外へ出て、ようやく同じ場所に立てた気がする沈黙だった。
「澪」
朔がもう一度呼ぶ。
「何」
「次も」
言いかけて、少しだけ視線を落とす。
「また、自分から来てくれる?」
その問いに、澪の心臓がまた大きく跳ねた。
自分から。
待つのではなく。
呼ばれるのを待つのでもなく。
「……うん」
小さく頷く。
「行く」
「そっか」
朔は少しだけ安堵したように笑った。
もう以前には戻れない。
でも、その戻れなさはきっと悪いことばかりじゃない。
別れる前、朔が言った。
「送ってく」
「近いのに」
「それでも」
その言い方が、少しだけ照れくさくて、でもうれしかった。
家の前まで来ると、二人ともすぐには言葉が出なかった。
さっきまで公園で話していたはずなのに、こうして別れ際になると、また少しだけ胸がざわつく。
「今日は」
澪が先に言う。
「会ってくれてありがとう」
「こっちの台詞」
朔はすぐ返した。
「来てくれてありがと」
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「次も、待ってる」
待ってる。
その言葉が、今夜はやけにやさしかった。
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
家へ入って、自室のドアを閉めた瞬間、澪はその場で深く息を吐いた。
怖かった。
でも、行ってよかった。
自分から会いに行ったこと。
自分から少しだけ踏み込んだこと。
それだけで、胸の中の何かが少し動いた気がする。
まだ全部は言えていない。
ノアのことも、好きという言葉そのものも、まだ核心は残っている。
でも、逃げないことだけは、今夜はちゃんと示せた。
「……次は」
小さく呟く。
その続きを、声にはしなかった。
言えないまま会いに行く夜は終わった。
次はもう、少しだけでも、もっと核心へ近づかなければいけない。




