第5章 第9話:隠して守るか、言って失うか
その日の放課後、教室には夕方の光が長く差し込んでいた。
窓際の机の脚が、床へ細い影を落としている。部活へ向かう生徒たちの足音はもう遠くなり、教室の中には帰り支度の名残だけが少し残っていた。ざわめきの熱が引いたあとの静けさは、いつもより少しだけ澪の胸に重かった。
昼間のメッセージが、まだ画面の裏に残っている。
『さっきの続き』
『またちゃんと話したい』
朔から届いたその二行は、ひどくまっすぐだった。
待つだけではなく、知りたい。
知らないふりはしない。
現実の朔は、もうそこまで来ている。
それなのに自分は、まだ核心を抱えたままだ。
好きという言葉も、
ノアのことも、
どちらも“あと少し”のところで止めている。
「朝倉」
後ろから、夏希が呼んだ。
「帰んないの」
「……帰る」
「帰る顔じゃない」
澪は小さく息を吐く。
夏希は今日は部活の手伝いが長引かなかったらしく、鞄を肩にかけたままこちらを見ていた。からかうような顔ではない。ちゃんと心配している時の顔だった。
「ちょっと」
夏希が顎で教室の後ろ扉を示す。
「飲み物買いに行こ」
「今?」
「今」
断る余裕もなく、澪は頷いた。
自販機のある中庭側の渡り廊下は、夕方の空気がゆるく流れていた。
ガラス越しの空は薄いオレンジから青へ変わりかけていて、部活帰りの声が遠く響く。自販機の前にはもう誰もいなくて、機械の低い駆動音だけが小さく鳴っていた。
夏希は缶コーヒーを買い、澪は何となくレモン水を選んだ。
ベンチへ並んで座る。
少しの沈黙。
夏希が先にプルタブを開けた。
「で」
簡潔すぎる一言。
「……何が」
「神谷と、朝倉の頭の中と、たぶんそれ以外も全部」
澪は思わず苦笑しそうになって、でもうまく笑えなかった。
「最近さ」
夏希が缶を傾けながら言う。
「朝倉、ずっと“もうだめ”って顔してる」
「してるかも」
「何が一番きつい?」
その問いに、澪はすぐには答えられなかった。
何が一番きついのだろう。
ライバルたちが前へ出てくることか。
朔が近づいてくることか。
夜のアークが、名前の奥を見ようとしてくることか。
全部だ。
でも、いちばん根っこにあるのは、たぶんもっと単純だった。
「……隠してること」
やっと言う。
「神谷に?」
「うん」
「ノアのこと?」
「うん」
夏希は少しだけ目を細めた。
「それと」
澪は続ける。
「好きだって、ちゃんと言い切れてないこと」
口にした瞬間、胸の奥がじわりと熱を持つ。
それが今の自分の本当の苦しさなのだと、言葉にして初めて輪郭がはっきりした。
ノアを隠している。
だから、好きをまっすぐ言い切れない。
好きを言い切れていない。
だから、ノアを隠したままでもまだ立っていられる気がしてしまう。
でも、その両方がもう限界に近い。
「なるほどね」
夏希は短く頷いた。
「じゃあ今の朝倉って、ざっくり言うと」
「うん」
「隠して守るか、言って失うかで止まってるわけだ」
その言葉が、ひどく正確で、澪は何も返せなかった。
隠して守るか。
言って失うか。
まさにその二択だと思っていた。
「……うん」
小さく答える。
「言ったら、変わる」
「変わるね」
「壊れるかもしれない」
「かもね」
「でも隠したままだと、もうこのままじゃいられない」
「それもそう」
夏希はあっさり言った。
あっさりしすぎていて、逆に逃げ場がない。
「私さ」
澪はレモン水の缶を両手で包んだ。
「ずっと、隠してれば今の近さは守れるって思ってた」
「うん」
「少なくとも、完全に失うよりはましだって」
夏希は黙って聞いている。
その黙り方がありがたかった。
「でも」
澪はゆっくり続ける。
「最近、もうそれも違う気がしてきた」
「どう違う」
「隠してるせいで、もう歪み始めてる」
言葉が出るたび、胸の奥が少しずつ痛くなる。
夜のアークは、ノアの正体へ手を伸ばしている。
現実の朔も、澪の奥にあるものを知りたいと言い始めている。
どちらも、もう“何も知らないまま近くにいる”ことに無理が出てきている。
「今のままでも」
澪は言う。
「たぶん、失い始めてる」
夏希が小さく息を吐いた。
「やっとそこまで来たか」
「……」
「朝倉」
夏希は缶を膝に置いて、まっすぐこちらを見る。
「言って壊れるのが怖いんじゃなくて」
「うん」
「もう壊れ始めてるのに見ないふりしてるだけ」
その言葉が、容赦なく胸へ刺さる。
見ないふり。
まさにその通りだった。
隠して守っているつもりで、実際には歪みが大きくなっているのを先延ばしにしていただけ。
「……痛い」
思わずそう呟くと、夏希は少しだけ肩をすくめた。
「ごめん。でも今の朝倉には、そのくらいじゃないと届かない」
「届いてる」
「ならよし」
その淡々とした返しに、少しだけ救われる。
夕方の風が、渡り廊下の窓を小さく鳴らした。
外では運動部の掛け声がひとつ上がって、すぐに遠のく。
「神谷さ」
夏希が言う。
「最近、かなり来てるでしょ」
「……うん」
「知りたいって言ってくるし、選ぶし、待つけど逃がさない感じもあるし」
「うん」
「ノアのほうも同じなんでしょ」
澪は目を伏せた。
「……うん」
「じゃあ、どっちにしてももう時間の問題だよ」
その言葉が重い。
けれど、否定できない。
時間の問題。
そうなのだと思う。
自分が言うか、
向こうが辿り着くか、
どちらにしても、もう永遠に隠したままではいられない。
「朝倉」
「何」
「失うのが怖いのはわかる」
夏希の声は、少しだけやわらかくなった。
「でも、今のままでも失う可能性はある」
「……」
「だったら、自分で選んだ壊し方のほうがまだましじゃない?」
その問いに、澪は息を止めた。
自分で選んだ壊し方。
それは、ずっと避けてきた考え方だった。
壊れるならせめて自然に、と思っていた。
自分の手で壊すのが怖かったから。
でも本当は、自然に壊れるなんてことはないのかもしれない。
選ばないという選択もまた、ひとつの壊し方だ。
「……そうかも」
小さく答える。
「そうかも、じゃなくてそうだよ」
夏希ははっきり言った。
「朝倉はもう、選ぶ側に行かなきゃだめ」
その言葉は何度も聞いてきた。
凛花にも、
由良にも、
ひなにも、
そして夏希にも。
違う言い方で、でも同じ方向を向いた言葉。
自分はもう、見守る側ではいられない。
待つ側でもいられない。
選ぶ側へ行くしかない。
「……怖い」
やっとそれだけ言うと、夏希は少しだけ笑った。
「そりゃそう」
「壊したくない」
「うん」
「でも、このままも嫌」
「うん」
「好きだから」
口に出した瞬間、澪の喉が熱くなった。
ここまでストレートに言葉にしたのは、たぶん夏希の前でも初めてだった。
「……神谷が好きだから」
夏希は何も茶化さなかった。
ただ、まっすぐ頷く。
「知ってる」
「知ってるんだ」
「今さら」
その返しに、澪は少しだけ笑ってしまう。
泣きたいような気分なのに、少しだけ笑える。
それがありがたかった。
「じゃあもう」
夏希が言う。
「次は、神谷に会いに行きな」
澪は缶を見つめた。
レモン水の表面には細かい水滴がついていて、指先が少し冷たくなる。
「……会いに行く」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ定まる。
「うん」
「ちゃんと、自分から」
「うん」
「逃げない」
「よし」
夏希は満足そうに頷いた。
「やっとそこまで来た」
帰り道、夕方はもう夜へ変わりかけていた。
街灯が灯り始めて、住宅街の窓からあたたかい光が漏れている。さっきまでの重たい気持ちが全部軽くなったわけではない。むしろ、決めたぶんだけ怖さははっきりしたかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
もう見ないふりはやめる。
隠して守るだけの時間は終わりにする。
家へ帰って自室へ入ると、澪はまずスマート端末を机の上へ置いた。
フルダイブ装置のほうではなく、そちらを先に見た自分に、少しだけ驚く。
朔と話したい。
自分から。
ちゃんと。
その気持ちが、今はいちばんはっきりしていた。
「……うん」
小さく呟いて、澪はゆっくり息を吐く。
隠して守るか、
言って失うか。
その二択の前で止まっていた自分は、たぶんもういない。
失うかもしれなくても、
自分で選んで進まなければいけないところまで、
この恋はもう来てしまっていた。




