第5章 第8話:知りたいのは、君の奥にあるもの
翌朝の空は、ひどく澄んでいた。
雲ひとつない、というほどではない。
けれど薄い青がまっすぐ広がっていて、昨日まで胸の中に溜まっていた息苦しささえ、少しだけ見透かされてしまいそうな空だった。
澪は制服の袖を引きながら、ゆっくり家を出る。
昨夜の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――知りたいのは名前じゃなく、その奥だ。
――今まで通りじゃなくても知りたい。
夜のアークは、もうそこまで来ていた。
ノアという名前の向こうにいる自分へ、手を伸ばし始めている。
そして、現実の朔もまた、同じ方向を向き始めている。
そのことが、今の澪には甘くて、痛くて、どうしようもなく重かった。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつもの場所に、いつもの姿。
でも、顔を上げてこちらを見た瞬間の目だけが、前より少し深い。
「おはよ」
朔が言う。
「……おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
朝の空気は少し冷たいのに、隣の気配だけが妙に近い。昔から変わらない通学路のはずなのに、今はその一歩一歩が前よりずっと重い意味を持ってしまう。
「昨日」
朔が先に口を開いた。
「遅かった?」
心臓がひとつ跳ねる。
「……少し」
「VR?」
「うん」
短い会話。
でも、その二文字のあとに落ちる沈黙が前と違う。
朔は、もう“VRしてたんだ”で終わらない。
その向こうに何かあると感じている。
そしてそれを、知りたいと思っている。
「澪」
また名前を呼ばれる。
「何」
「この前から、何回か言ってるけど」
少しだけ間がある。
「やっぱり、近いのに知らないのは落ち着かない」
澪は息を止めた。
朝の住宅街は静かだった。
遠くで自転車のベルが鳴って、どこかの家の門が開く音がする。
でも今の澪には、その全部が遠い。
「……」
「責めてるわけじゃない」
朔が続ける。
「ただ、知りたい」
その言葉に、昨夜のアークが重なる。
知りたいのは名前じゃなく、その奥。
近いのに知らないのは落ち着かない。
同じ人が、違う名前の自分へ、ほとんど同じ温度の言葉を向けてくる。
もう、逃げ場なんてどこにもない。
「……困る」
やっとそれだけ返すと、朔が少しだけ苦く笑った。
「またそれ」
「困るよ」
「うん」
「でも」
澪は足元を見た。
「嫌じゃない」
口にした瞬間、頬が少し熱くなる。
こんな朝の道で、そこまで言うつもりはなかった。
でも朔は笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ少しだけ息を吐いて、前を向いたまま言う。
「それ聞けただけでも、今はいい」
その返しがやさしすぎて、余計に苦しい。
教室へ入ったあとも、澪の心は落ち着かなかった。
午前中の授業はちゃんと受けている。
ノートも取っている。
でも意識の一部はずっと、朝の会話と昨夜の会話のあいだを行き来していた。
夜でも、現実でも。
朔はもう、同じ場所まで来ている。
“もっと知りたい”という場所へ。
「朝倉」
二限目の休み時間、夏希が後ろから小さく声をかけてくる。
「今日、昨日よりやばい顔してる」
「……自覚ある」
「神谷?」
「うん」
「何言われた」
澪は少しだけ迷ってから、小さく言った。
「近いのに知らないの、落ち着かないって」
夏希は一瞬黙り、それから深く頷く。
「来てるね」
「来てる」
「で、朝倉は?」
「困るって言った」
「それは知ってる」
「嫌じゃないとも言った」
夏希の目が丸くなる。
「朝倉、それかなり進んでるよ」
「……勝手に出た」
「でも本音でしょ」
「うん」
それを認めた瞬間、また胸の奥が熱くなる。
昼休み、教室はいつもより少しだけにぎやかだった。
ひなが誰かと笑いながら話していて、凛花は別のグループで何かの予定を確認している。由良は窓際の席で静かに資料を読んでいた。
それぞれ、自分のやり方で動いている。
そして澪は、その誰よりも遅れている気がしてならなかった。
弁当を食べ終え、少し息をつくために廊下へ出る。
窓際の、人通りが少ない場所。
そこに立って外を見ていると、背後から足音がした。
「澪」
振り向く。
朔だった。
「……何」
「少しだけ」
そう言って、同じように窓際へ寄りかかる。
昼の光が廊下の床へまっすぐ落ちていて、その中に二人分の影が並んでいた。
近いのに、まだ少しだけ距離がある。
今の二人は、ずっとその半端な場所にいる。
「今朝の続き」
朔が言う。
「続き?」
「うん」
短く息を吐く。
「澪のこと、もっと知りたいって思うの、たぶんもう止められない」
澪は目を伏せた。
「……何で」
聞かなくてもいい問いだった。
でも、聞きたかった。
朔はすぐには答えない。
少し考えるように黙ってから、ゆっくり言う。
「前は、近いのが当たり前だった」
「うん」
「でも今は、近いのに触れられないとこがあるってわかる」
「……」
「それが気になる」
そこで一度言葉を切る。
「気になるだけじゃなくて、たぶん知っておきたい」
澪は壁にもたれるみたいに小さく背を預けた。
知っておきたい。
それは好奇心ではない。
もっと個人的で、もっと感情の近い言い方だった。
「知ってどうするの」
自分でも驚くくらい静かな声で聞いていた。
朔は、少しだけ困ったように笑う。
「それ、俺もまだちゃんと答え出てない」
「……」
「でも、知らないままでいたくはない」
その一言が、深く刺さる。
知らないままでいたくない。
昨夜のアークも、たぶん同じことを言っていた。
名前の奥を知りたい、と。
現実の朔も、夜のアークも、同じ人として同じ場所へ辿り着き始めている。
そしてその中心にいるのは、どちらも自分だ。
「澪」
「何」
「今すぐ全部言えないのはわかる」
朔が続ける。
「でも、近いのに知らないままって、たぶんもう無理」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮む。
無理。
たしかにそうかもしれない。
ノアとして積み重ねた時間と、朝倉澪として歩いてきた時間が、もう分けたままでは保てなくなっている。
「……うん」
やっと頷く。
「私も、そう思ってる」
朔が少しだけ目を見開く。
「ほんとに?」
「うん」
ここで嘘はつけない。
「このままでいいとは、思ってない」
それは今の自分のいちばん正直な気持ちだった。
「そっか」
朔は短く息を吐く。
その音に、少しだけ安堵が混じっている気がした。
「じゃあ」
小さく言う。
「待つだけじゃなく、近づく」
その一言に、澪は顔を上げた。
「近づく?」
「うん」
「どうやって」
「わからない」
朔は苦笑する。
「でも、何も知らないふりはしない」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
知らないふりはしない。
それはつまり、向き合うことを選ぶという意味だ。
待つだけでも、見守るだけでもなく。
「……ずるい」
思わず呟くと、朔が少しだけ笑う。
「何が」
「そういう言い方」
「本気だから」
また、それだ。
軽く流せない言葉ばかり置いていく。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
廊下を走る足音が増えて、二人のあいだの静かな空気が少しだけほどけた。
「戻るか」
朔が言う。
「……うん」
二人で教室へ戻る途中、澪は自分の心臓がまだ落ち着かないのを感じていた。
近いのに知らないままは無理。
その言葉は、痛いくらい正しい。
そして、その正しさは現実だけではなく、夜の自分にもそのまま刺さっていた。
放課後、部活や委員会で人が減っていく教室の中、澪は一人で帰り支度をしていた。
夏希は先に用事で出ていて、朔はまだ先生に呼ばれているらしい。
窓の外は少しずつ夕方の色へ沈みかけている。
帰ろうと立ち上がった時、机の上のスマート端末が小さく震えた。
画面を見る。
朔からだった。
『さっきの続き』
『またちゃんと話したい』
たった二行。
でも、その重さが今の澪には十分すぎた。
話したい。
知りたい。
知らないふりはしない。
それを、現実の朔はもう隠さなくなっている。
澪はしばらく画面を見つめてから、ゆっくり指を動かした。
『うん』
『私も』
送信した瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
これはもう、以前のような曖昧な近さではない。
少しずつでも、確実に、先へ進もうとしているやり取りだ。
家へ帰って自室へ入ると、フルダイブ装置がいつも通り机の横で静かに待っていた。
夜になれば、またノアとしてアークに会うかもしれない。
そしてたぶん、夜のほうでも同じように“もっと知りたい”は続いていく。
現実の朔も、
夜のアークも、
どちらも君の奥にあるものを求めている。
その事実が、今夜の澪にはもうひどくはっきり見えていた。




