第5章 第7話:その名前を呼ぶ前に
その夜、ノアはログインしてからもしばらく、中央広場の外れで動けなかった。
昼間、ひなは言った。
好きは強い、と。
最後までまっすぐ行ったほうがいい、と。
その言葉は、今も胸の奥で小さく熱を持っている。
でも、その熱を抱えたまま夜の名前になると、今度は別の痛みが重なる。
現実では、もう言う側へ行かなければいけない。
夜では、もう隠したままではいられない。
その二つが、同時に迫ってくる。
アステリオの夜景はいつも通りきれいだった。
白い塔、青い灯り、石畳を流れる薄い術式の光。噴水の周りには遅い時間なのにまだ何人かプレイヤーがいて、笑い声が遠く混ざっている。
それなのに今夜のノアには、そのにぎわいがどこか別の世界のものみたいに感じられた。
『ノア』
個別回線が開く。
アークの声は静かで、前より少しだけ低かった。
『来た』
「……来た」
『少しだけ』
「どこ」
『《星骸の渡り廊》』
その名前に、ノアは小さく息を呑む。
星骸の渡り廊は、高空に浮かぶ古い回廊群だ。
壊れかけた橋と塔を細い通路で繋いだだけのような場所で、足場は狭く、景色はきれいで、何より静かだった。
大人数で騒ぐには向かない。
少人数で話すには、近すぎる。
「みんなは」
『フレアたちはボス周回。セレスはあとで合流するかもって』
少しの沈黙。
『だから今は、二人』
その言い方に、もう以前みたいな偶然の軽さはなかった。
「……行く」
『うん』
転送された先は、夜空へ溶け出しそうな白い回廊だった。
足元は淡い灰色の石で、ところどころひび割れた箇所から青い光が漏れている。欄干は低く、風が吹くたびに、はるか下に広がる星霧がゆっくりと波打った。遠くには崩れた塔の残骸が浮かび、その向こうに大きな月がかかっている。
「ここ、久しぶり」
ノアが小さく言う。
「ノア、たしか前ここ好きって言ってた」
アークが少し前を歩きながら返す。
「……覚えてるんだ」
「覚えてるだろ」
その一言が、もう前よりずっと重い。
覚えている。
言葉も、間も、景色の好みも。
最近のアークはそういうものばかり拾っていく。
二人で細い回廊を進む。
敵は少ない。たまに浮遊する光獣が現れても、ノアの拘束とアークの斬撃で一瞬で終わる。戦闘の合間に落ちる沈黙のほうが、今夜はずっと濃かった。
「右、足場崩れてる」
ノアが言う。
「見えた」
「その先、二段」
「任せる」
短い。
でも、その短さで十分だった。
戦闘を終えたあと、アークが剣を払う。
「やっぱ、ノアとだと余計な確認いらない」
「最近ほんとそればっかり」
「本当だから」
「便利な言い方」
「便利じゃない」
アークは少しだけ間を置いた。
「たぶん、俺がノア見すぎてるだけ」
ノアの足がわずかに止まる。
「……何それ」
「そのまま」
アークは振り返る。
「前より、見てる」
星霧の淡い光が、二人のあいだを静かに照らしていた。
ごまかせない言い方だった。
「何で」
ノアが聞く。
声は思ったより小さかった。
「気になるから」
即答だった。
気になる。
その一言が、もうただの違和感の延長ではないとわかる。
知りたい。
見たい。
確かめたい。
その全部が、もう個人的な感情として混ざっている。
二つ目の塔へ続く円形足場で、アークは歩みを止めた。
風が少し強く吹き、回廊の端に積もった光の塵が舞う。
「ノア」
「何」
「この前から、何回か思ってる」
また来る。
そうわかった瞬間、胸の奥が強く鳴る。
「……うん」
「ノアが誰か、っていうのもそうだけど」
アークはゆっくり言葉を選んでいた。
「最近は、それだけじゃなくなってきた」
「それだけじゃなく?」
「うん」
少しだけ視線を外して、また戻す。
「名前とか正体とか、そういう情報だけ知りたいわけじゃない」
ノアは息を止めた。
それは、予想していたよりずっと危うい言い方だった。
ただの謎解きなら、まだ逃げられる。
でもそれが人そのものへ向かい始めたら、もう隠しきれない。
「じゃあ、何」
やっとのことでそう聞く。
アークは少しだけ笑った。
でも、その笑いはいつもの軽いものではなかった。
「名前じゃなくて」
静かな声。
「その奥を知りたい」
胸の奥がひどく痛くなる。
その奥。
夜の名前の奥にいるもの。
それはもう、ノアというアバターではなく、その向こうにいる自分そのものだ。
「……反則」
ノアは小さく呟く。
「何が」
「そういう聞き方」
「ずるい?」
「ずるい」
アークがほんの少しだけ息を吐く。
「こっちも最近、だいぶ苦しい」
その本音に、ノアは顔を上げた。
「苦しい?」
「近いのに、そこだけ触れられないから」
やさしい言い方だった。
責めていない。
でも、そのぶんだけ逃げ場がない。
「ノア、隠してるだろ」
アークが言う。
「……」
「何か大きいもの」
ノアは何も返せなかった。
否定する意味がもうないからだ。
「でも」
アークは続ける。
「隠してること自体を責めたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、そのせいでノアが苦しそうなのが嫌だ」
その一言が、今夜いちばん深く刺さった。
嫌だ。
それは保護したいからではない。
もっと個人的で、もっと近い響きだった。
ノアは手すりへ指を置く。
冷たい石の感触が、少しだけ現実へ引き戻してくれる。
「……君はほんとに」
小さく笑うみたいに息を吐く。
「そういうとこ、だめ」
「だめ?」
「だめ」
「嫌ではない?」
またそれだ。
最近のアークは、こういう問い方をする。
逃げ道を残しながら、でも本音だけは置いていく。
「嫌なら、こんなに困らない」
言った瞬間、自分で息を呑む。
かなり踏み込んだ。
でも、もう今の自分はそれくらいしか返せない。
アークはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ声を落とす。
「ノア」
「何」
「その名前を呼ぶたび、最近ちょっと変な感じする」
背筋がひやりとする。
「変な感じ?」
「うん」
アークは目を細める。
「呼んでるのに、それだけじゃ足りない気がする」
回廊の下を流れる星霧が、ゆっくり揺れている。
ノアは言葉を失った。
その名前を呼ぶだけじゃ足りない。
それは、ほとんど答えだった。
正体を知りたい理由が、もうただの疑問ではないという答え。
「……やめて」
やっとそれだけ絞り出す。
「何を」
「その先、今言わないで」
アークはすぐには返事をしなかった。
ただ、少しだけつらそうな顔をした。
「今言うと、困る?」
「困る」
「傷つく?」
「たぶん」
「俺が?」
「両方」
その答えに、アークの呼吸がわずかに止まる。
ノアは目を伏せた。
ここで全部を言えたら楽なのかもしれない。
でも、今その先まで行ったら、きっと本当に戻れなくなる。
告白より先に、正体が割れるかもしれない。
正体より先に、気持ちだけがあふれるかもしれない。
その順番がまだ自分の中で決めきれていない。
「……ごめん」
小さく言う。
「謝らなくていい」
アークは低く返した。
「ただ」
「うん」
「その“今は言わないで”って、たぶんもうかなり近い場所なんだろうなとは思う」
ノアは何も返せなかった。
それが、図星だったからだ。
かなり近い。
もう、本当にそうだ。
夜の名前も、
現実の自分も、
どちらも限界が近い。
「アーク」
「何」
「もし」
そこまで言って、喉が詰まる。
「もし、知ったら」
「うん」
「……今まで通りじゃいられないかも」
それが、今言えるいちばんの本音だった。
アークはしばらく黙って、それから静かに答えた。
「今まで通りじゃなくてもいい」
その言葉に、胸の奥が強く揺れる。
「今まで通りじゃなくても」
アークは繰り返す。
「知りたい」
ノアは目を閉じた。
だめだ、と思う。
それは反則だ。
そんなふうに言われたら、もう隠れていること自体がずるく感じてしまう。
その時、共通通話にフレアの接続音が入った。
続いてセレス、少し遅れてピピの明るい声が飛び込んでくる。
『今どこ』
フレアが簡潔に聞く。
『第二回廊の円形足場』
アークが答える。
『やっぱり二人で先に進んでましたね』
セレスのやわらかい声。
『また置いてかれてるー!』
ピピが騒ぐ。
二人だけの空気はそこでいったんほどけた。
ノアは浅く息を吐く。
助かったような、でも少しだけ終わってしまったような、妙な感覚だった。
合流後の探索はいつも通りに進んだ。
フレアが冷静に敵を裁き、セレスが全体を支え、ピピが賑やかに場をかき回す。アークも表面上は変わらない。
でも、時々こちらへ向く視線だけが、前よりずっと深い。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドへ腰を下ろしたまま長く動けなかった。
部屋は静かだった。
カーテン越しの街灯が、床へ薄く四角い光を落としている。
「……その名前を呼ぶ前に」
小さく呟く。
ノアと呼ばれる前に、
あるいはその名前だけでは足りないと気づかれる前に、
自分が何かを決めなければならない。
知りたいのは名前じゃなく、その奥だ。
今まで通りじゃなくても知りたい。
そんなふうに言われて、まだ隠れ続けるのは卑怯な気がした。
怖い。
でももう、次に進む前の猶予は長くない。
その名前を呼ばれるたび、
自分がその奥にいることを知っているのは、
もう澪ひとりだけではいられなくなり始めていた。




