第5章 第6話:言える子は、最後までまっすぐ
その日の放課後、教室の空気は少しだけ騒がしかった。
六限が終わったあとのいつものざわめきに、どこか浮ついた熱が混じっている。週末前の解放感なのか、配信関連の雑務がまた増えたせいなのか、理由はよくわからない。ただ、机を引く音も、笑い声も、端末の通知音も、今日はやけに近く聞こえた。
澪はその中で、ひとりだけ違う温度に取り残されている気がしていた。
由良の言葉が、まだ胸に残っている。
――近いのに言えないのが、一番苦しい。
――終わらないでね。
正しすぎて痛い。
しかもその痛みは、今の自分にはもうごまかせない種類のものだった。
鞄へノートをしまいかけたところで、前方からひなの声が弾けた。
「神谷先輩!」
反射みたいに視線が向く。
ひなは今日もまっすぐだった。
机の横まで軽やかに寄って、遠慮なく朔を見上げる。その明るさのせいで、一見するとただの元気な後輩にしか見えない。けれど、もう澪は知っている。その明るさの下に、ちゃんと本気があることを。
「この前の続き、今日ちょっとだけもらっていいですか?」
ひなが言う。
「続き?」
朔が少しだけ目を瞬かせる。
「ほら、時間くれるって言ってたやつです」
「ああ」
短い返事。
朔はそこで軽く息を吐いた。
「今日なら少し」
「やった」
ひなはぱっと笑った。
「じゃあ、校門出たとこのベンチでいいですか?」
「うん」
やり取りは短かった。
でも、その短さの中にちゃんと“約束の続き”があった。
澪の胸の奥がじくりと痛む。
ひなは、言った人だ。
好きだと、もう言った。
だからこうして、その先の時間を自分で取りにいける。
それが強い。
その強さが、眩しくて苦しい。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「また来たね」
「……うん」
「ひなちゃん、最後までちゃんと行くタイプだ」
「知ってる」
知っている。
明るいまま、でも引かない。
気持ちを軽く扱わない。
ひなはそういう強さを持っている。
放課後、教室の人が少しずつ減っていく。
朔は鞄を持って立ち上がり、ひなも少し遅れてその後を追った。
その背中を見送りながら、澪は机の端を指先で押さえた。
痛い。
でも、もう見ているだけで終わりたくない。
数分遅れて教室を出ると、校門へ向かう道の途中で、ちょうど二人の姿が見えた。校門脇のベンチ。夕方の光が少し傾いて、二人の影を長く地面へ落としている。
聞くつもりはなかった。
でも、足は勝手に少しだけ遅くなった。
距離があるから、言葉は全部は拾えない。けれど、空気だけは伝わる。
ひなは笑っていた。
でも、ただ明るいだけではない顔だった。
朔はちゃんと向き合っている。
軽くあしらったり、ごまかしたりしていない。
そのことが、さらに胸に刺さる。
澪はそのまま校門の陰を通り過ぎた。
見ないふりも、聞こえないふりも、きっと今の自分にはもうできない。
ただ、そこで立ち止まって盗み聞きするのも違うと思った。
だから歩く。
歩きながら、胸の中に残る痛みだけを持っていく。
住宅街へ入る前の小さな公園の横で、後ろからぱたぱたと足音がした。
「朝倉先輩!」
振り向くと、ひながいた。
少しだけ息が上がっている。朔とはもう別れたらしい。
「……何」
「ちょっとだけいいですか?」
断れない。
澪は公園のフェンス脇で立ち止まった。
夕方はもう薄い群青へ変わりかけていて、遊具の影が長く伸びている。子どもの姿はなく、遠くの道路を走る車の音だけがかすかに聞こえた。
「神谷先輩と話してきました」
ひなが言う。
「見ればわかる」
「ですよね」
少しだけ笑う。
「ちゃんと、わたしの気持ちもう一回言ってきました」
その言い方が、明るいのに真剣で、澪の胸がまた痛くなる。
「……どうだったの」
聞きたくないのに、聞いてしまう。
ひなは少しだけ空を見て、それから素直に答えた。
「ちゃんと受け取ってくれました」
「……うん」
「でも、今すぐ何か返せる感じではなかったです」
その言葉に、澪は少しだけ息を吐いた。
安心したわけではない。
でも、胸の締めつけがほんの少しだけ変わる。
「ただ」
ひなが続ける。
「神谷先輩、ちゃんと迷ってました」
澪は目を上げた。
「迷ってた?」
「はい」
ひなは頷く。
「わたしに悪いとか、そういうだけじゃなくて」
そこで少しだけ言葉を選ぶ。
「誰かのこと、ちゃんと考えてる顔でした」
その一言が、静かに胸へ落ちた。
誰か。
きっと、それが誰なのか、ひなもわかっている。
でも、あえて名前にはしない。
その気遣いが逆に痛い。
「……何で、私にそれ言うの」
澪が小さく聞くと、ひなは少しだけ首を傾げた。
「朝倉先輩に言うべきだと思ったからです」
「どうして」
「だって」
ひなはあっさり言う。
「先輩、まだちゃんと行ききれてないから」
図星だった。
まだ行ききれていない。
好きに近い言葉は言った。
でも“好き”そのものはまだ出していない。
ノアのことも隠したまま。
踏み込んでいるようで、肝心なところだけはまだ守っている。
「ひな」
澪は小さく息を吐く。
「そんな簡単に言わないで」
「簡単じゃないのは知ってます」
ひなはすぐ返した。
「でも、もう言わないのは違うじゃないですか」
その声は、明るいだけではなかった。
ちゃんと本気で、まっすぐだった。
「わたし」
ひなが少しだけ笑う。
「言ってよかったです」
「……」
「怖かったですけど」
「うん」
「でも、言わないまま見てるのはもっと嫌でした」
それもまた、正しい。
正しすぎて、何も返せなくなる。
「朝倉先輩」
ひなが澪をまっすぐ見る。
「先輩も、もうわかってますよね」
「何を」
「言う側に行かなきゃだめだってこと」
胸の奥が強く鳴る。
言う側。
見守る側ではなく。
待つ側でもなく。
ちゃんと外へ出す側。
「……わかってる」
やっとのことでそう言うと、ひなは少しだけ目を細めた。
「なら、よかった」
「よくないよ」
「何でです?」
「怖いから」
それが、今のいちばん正直な答えだった。
ひなは一瞬だけ目を瞬かせ、それからやわらかく笑う。
「怖いの、普通です」
「普通?」
「はい」
「ひなは怖くないみたいに見える」
「めちゃくちゃ怖いですよ」
即答だった。
「でも、怖いからやめると、そのまま終わることもあるじゃないですか」
夕方の風が、公園の木を小さく揺らした。
終わる。
その一言が、澪には重い。
このまま何も言えず、誰かに取られて終わる未来は、ずっと前から怖かった。
でも今は、その未来が前よりずっと現実的に見える。
「好きなら」
ひなが続ける。
「最後までちゃんと言ったほうがいいです」
「最後まで」
「はい」
ひなは少しだけ照れたように笑う。
「わたし、神谷先輩にちゃんと好きって言えて、今はそれでよかったって思ってるので」
その言葉は強かった。
結果じゃなく、自分が言えたことそのものを大事にしている強さだ。
「朝倉先輩も」
ひなが言う。
「たぶん、言わないで終わるタイプじゃないです」
澪は目を伏せた。
そうだろうか。
いや、たぶん本当はそうなのだ。
ただ、怖くてそこまで行けなかっただけで。
「……もう、わかってる」
小さく呟く。
「うん」
「でも、まだ」
「まだ、もありますよね」
ひなが静かに頷く。
その“まだ”の中に何があるのか、ひなはたぶん全部知らない。
でも、何かあることだけは感じているのだろう。
「それでも」
ひなが続ける。
「最後までまっすぐ行ったほうがいいです」
その言葉が、今日いちばん深く刺さった。
最後までまっすぐ。
凛花も、由良も、ひなも、形は違ってもそこにいる。
逃げながら恋を抱えているのは、たぶん自分だけだ。
「……ありがと」
澪が言うと、ひなは少し驚いた顔をした。
「え、怒ってないですか?」
「怒ってはない」
「ほんとですか?」
「ちょっと痛いだけ」
正直に言うと、ひなは少しだけ困ったように笑った。
「すみません」
「でも、必要だった」
それも本音だった。
痛い。
でも、こうやって何度も背中を押されなければ、自分はまた“そのうち”へ逃げていたかもしれない。
「朝倉先輩」
ひなが最後に言う。
「好きって、ちゃんと強いですよ」
その言葉を残して、ひなは軽く手を振って帰っていった。
ひとりになった帰り道、澪は夕方から夜へ変わる空を見上げながら歩いた。
住宅街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。遠くで自転車のベルが鳴って、どこかの家の窓から夕飯の匂いが流れてきた。
好きは強い。
ひなはそう言った。
きっと本当なのだろう。
言える人は強い。
最後までまっすぐ行ける人は、もっと強い。
家へ帰り、自室へ入ってドアを閉めた時、澪は小さく息を吐いた。
机の上にはフルダイブ装置がある。
夜になれば、またノアになれる。
でも今日は、その前にずっとひなの言葉が頭の中に残っていた。
もう言わないのは違う。
最後までちゃんと言ったほうがいい。
最後までまっすぐ行ったほうがいい。
「……うん」
誰に聞かせるでもなく、小さく頷く。
まだ怖い。
でも、言う側へ行かなきゃいけないことだけは、もうはっきりしていた。
言える子は、最後までまっすぐ。
その強さを、今夜の澪はもう“眩しいだけのもの”として見ていられなかった。




