第5章 第5話:やさしい人ほど、深く残る
次の日の昼休み、教室の窓から差し込む光はやけに穏やかだった。
昨日の夕方までの張りつめた空気が嘘みたいに、今日は春の終わりらしいやわらかい風が入ってくる。グラウンドから聞こえる笛の音も、廊下を走る足音も、全部が少し遠い。
でも、澪の胸の内側だけはまったく穏やかじゃなかった。
凛花は譲らないと言った。
自分も、もう引かないと言った。
言葉にしてしまった以上、もう“たまたま近い幼馴染”のふりには戻れない。
それなのに、心の奥には別の怖さもある。
由良だ。
凛花みたいに正面から来る相手は、怖いけれどわかりやすい。
でも由良は違う。
やさしくて、静かで、押しているように見えないまま、気づけば相手の近くにいる。
そういう人が一番深いところまで残ることを、澪はもう知っていた。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「また難しい顔してる」
「……してる?」
「してる」
夏希はパンの袋を開きながら、前方をちらりと見る。
「今日は白瀬のターンって顔」
図星すぎて、澪は返事ができなかった。
前方では、朔が机に広げた紙束を見ていた。
委員会か配信準備か、また何か作業らしい。そこへ由良が近づく。
足音さえ目立たない。
声も大きくない。
でも朔は、由良が机の横へ来た時にはもう自然に顔を上げていた。
「神谷くん」
やわらかい声。
「これ、先生が先に確認してほしいって」
「ああ、ありがと」
朔が紙を受け取る。
「多いね」
「うん。だから、私だけだとちょっと見落としそうで」
「じゃあ、一緒に見る?」
「いいの?」
「今ちょうど手空いてるし」
そのやり取りが、あまりにも自然だった。
一緒に見る?
たったそれだけの言葉なのに、由良とのあいだでは無理がない。
お願いする側も、引き受ける側も、どちらも気を使いすぎない。
その温度のやわらかさが、ひどく怖い。
「朝倉」
夏希がまた小さく言う。
「白瀬って、ほんと静かだよね」
「……うん」
「でもあれ、静かだから強い」
それも、もう何度も思い知ってきた。
由良は大きな告白をしない。
好きだと真っ直ぐ叫ぶこともしない。
でもその代わりに、日常の中へ自然に入り込む。
困っている時にそばにいて、手を貸して、相手が一番受け取りやすい形で近づいていく。
やさしい。
だから拒みにくい。
だから残る。
昼休みの終わりが近づいた頃、澪が空の弁当箱を持って廊下へ出ると、ちょうど資料室の前で由良と鉢合わせた。
向こうも紙束を抱えていて、こちらに気づくと少しだけ目を細める。
「あ、ごめん」
「ううん」
すれ違うだけで終わると思ったのに、由良は小さく足を止めた。
「朝倉さん」
「……何」
「少しだけいい?」
その言い方がやわらかいせいで、断りにくい。
澪は小さく頷いた。
廊下の窓際は、昼の光が白く床へ落ちていた。
教室のざわめきは少し遠く、二人のまわりだけ不思議なくらい静かだった。
「昨日」
由良が言う。
「篠宮さんと話してたよね」
澪の胸がわずかに強張る。
「……見てたの?」
「少しだけ」
由良は責めるような顔をしない。
ただ、ちゃんと知っているという目をしていた。
「すごいなって思った」
由良は続ける。
「朝倉さん、前よりちゃんと前に出るようになった」
その言葉は褒めているようにも聞こえる。
でも同時に、見ているからこそ言えるものでもあった。
「白瀬さんも」
澪は小さく言う。
「ずっと前に出てるよね」
「そうかな」
「そうだよ」
由良は少しだけ笑う。
「私は、静かにしてるだけ」
「それが一番怖い」
思わず本音が出た。
由良は一瞬だけ目を丸くしたあと、困ったように微笑む。
「怖い?」
「……うん」
「どうして」
どうして、なんて。
答えは簡単だ。
「気づいた時には、深いところにいそうだから」
言い切ってから、澪は少しだけ息を止めた。
こんなにはっきり言うつもりはなかった。
でも由良は否定しなかった。
むしろ、小さく息をついてから静かに言う。
「やさしい時間って、たぶん一番残るよね」
胸の奥がひやりとする。
それは前にも似たことを言われた。
でも今のその声は、もっと静かで、もっと本音に近かった。
「大きなこと言わなくても」
由良は窓の外を少しだけ見た。
「毎日少しずつ話して、頼ったり頼られたりして、そのまま相手の中に残ることってある」
澪は指先をきゅっと握る。
ある。
そんなの、誰より自分が知っている。
幼馴染として積み重ねてきた時間も、本当はそういうもののはずだった。
何でもない会話。帰り道。自然に隣にいること。
その積み重ねが、いつの間にか恋になっていた。
「だから」
由良が続ける。
「近いのに言えない時間って、一番苦しいよね」
その言葉が、静かに胸へ刺さった。
近いのに言えない。
それはまさに自分のことだった。
幼馴染として近くにいた。
ノアとしてはもっと近づいた。
でも、朝倉澪としての“好き”だけが、まだちゃんと外へ出せていない。
「……そうだね」
やっとそれだけ返す。
「白瀬さんは、苦しくないの」
気づけば聞いていた。
由良は少し考えて、それから小さく笑う。
「苦しいよ」
「……そう見えない」
「見せてないだけ」
その答えが、ひどく静かだった。
見せていないだけ。
やさしい顔のままで、ちゃんと苦しんでいる。
それでも立ち止まらずに近づいている。
その強さが、由良にはある。
「朝倉さん」
由良がまっすぐこちらを見る。
「言えないまま近くにいるのって、たぶん一番つらい」
澪は目を伏せる。
もう、その通りすぎて何も返せない。
「だって」
由良は続ける。
「近いぶんだけ、届きそうで届かないから」
その言葉は、刃みたいだった。
鋭いわけじゃない。
でも、じわじわと深いところへ入ってくる。
「……白瀬さん、やさしいのに」
澪は小さく呟く。
「そういうこと言うよね」
由良は少しだけ困ったように笑った。
「やさしいままでいたら、取れないこともあるから」
その声には、はっきりした本気があった。
やさしいままでいたら、取れない。
それは由良自身への言葉でもあり、澪への言葉でもあるのだろう。
「私」
由良が静かに言う。
「ちゃんとあきらめてないよ」
その一言に、澪の胸が強く打つ。
そうだろうと思っていた。
でも、言葉にされると重みが違う。
由良も本気だ。
最後まで、やさしい顔のままで、それでもちゃんと取りに来るつもりなのだ。
「だから」
由良は小さく息を吐いた。
「朝倉さんも、言えないままだけはだめだと思う」
澪は視線を上げる。
「……何で、私にそこまで言うの」
「ライバルだから」
由良はあっさり言った。
「でも同時に、たぶん一番わかるから」
その答えが、妙に胸に残る。
一番わかる。
近いのに言えない苦しさを。
見守っているようで、実はただ怖がっていただけの時間を。
そして、やさしいままだと取りこぼすものがあることを。
「白瀬さーん」
教室のほうからひなの声が飛んできた。
「先生、資料持ってきてってー!」
「今行く」
由良はそちらへ返事をしてから、最後に澪へ向き直る。
「朝倉さん」
「何」
「近いのに言えないまま、終わらないでね」
それだけ言って、由良は軽く会釈して教室へ戻っていった。
ひとり残された廊下で、澪はしばらく動けなかった。
胸の奥がずっと痛い。
痛いのに、その痛みは自分がずっと無視してきた種類のものだった。
近いのに言えない。
そのまま終わるのは、一番苦しい。
午後の授業中も、由良の言葉が頭から離れなかった。
黒板の文字を写していても、先生の説明を聞いていても、意識のどこかで何度も反芻してしまう。
近いのに言えないまま、終わらないで。
放課後、教室を出る前に前方を見ると、朔が由良から何か小さな紙を受け取っていた。
たぶん委員会か配信準備のメモだろう。
それだけのこと。
でも、その“それだけ”がやっぱり自然で、深い。
大げさじゃない近さ。
頼ることも頼られることも、当たり前みたいにできる距離。
それが、いちばん怖い。
「朝倉」
教室の後ろで夏希が待っていた。
「帰る?」
「……帰る」
「顔」
「うるさい」
「いや、今日はほんとにやばい」
澪は小さくため息をつく。
「白瀬さんと話した」
「うわ、何言われたの」
「近いのに言えないのが一番苦しいって」
夏希は数秒黙って、それから深く頷いた。
「それは正しい」
「正しすぎて嫌」
「でも、それを言われてまだ逃げる?」
その問いに、澪は答えられなかった。
逃げたくない。
もう、ほんとうにそう思っている。
でも“言う”ところまで行くには、まだ越えなきゃいけないものがある。
好きの言葉。
そして、ノアのこと。
家へ帰って、自室で一人になった時、澪はベッドへ倒れ込むみたいに座った。
天井はいつも通りで、部屋も変わらない。
でも、自分の中だけが少しずつ逃げ道を失っていく。
やさしい人ほど、深く残る。
由良はそういう人だ。
だから怖い。
でも、その怖さに押されるように、自分ももう言わなきゃだめだと思い始めている。
「……終わりたくない」
小さく呟く。
近いのに言えないまま、終わりたくない。
その気持ちだけが、今夜はやけにはっきりしていた。




