第5章 第4話:譲らない人の最後の一手
その日の放課後、教室の空気はどこか乾いていた。
窓の外はよく晴れていて、夕方の光が机の端を白く照らしている。六限が終わったあとのざわめきはいつも通りのはずなのに、澪にはその全部がひどく遠く聞こえた。
理由はわかっている。
昨日の準備室で、朔は言った。
――まず澪だと思った。
――一緒にいたいって思ったのもある。
その言葉はうれしかった。
うれしすぎて、逆に怖かった。
そこまで来たのなら、もう“様子を見るだけ”の場所には戻れないからだ。
それなのに、今日は朝からずっと胸騒ぎがしていた。
こういう時の予感は、たいてい当たる。
「神谷くん」
放課後のざわめきの中で、凛花の声はよく通った。
澪の手が、鞄のファスナーへかけたまま止まる。
前方を見ると、凛花が朔の席の横に立っていた。
いつも通り背筋がきれいで、声も表情も落ち着いている。焦ったところなんて少しも見せないくせに、必要な時にはちゃんと前へ出る。やっぱり強い、と思う。
「今日、少しだけ時間ある?」
凛花が言う。
「少しなら」
朔が答える。
「じゃあ、屋上前の階段でいい?」
「何かあるの?」
「ある」
凛花は、そこで少しだけ言葉を切った。
「ちゃんと話したいこと」
その一言で、教室の空気がほんのわずかに変わった気がした。
澪の胸の奥が、静かに冷える。
ちゃんと話したいこと。
それがただの事務連絡でないことくらい、もう誰にでもわかる。
少なくとも、澪にははっきり伝わった。
朔は一瞬だけ目を瞬かせた。
でも、すぐにふざけたり流したりはしなかった。
「……わかった」
短く、そう返す。
わかった。
その返事が、ひどく重く響く。
凛花は小さく頷いた。
「ありがとう」
それだけ言って、自分の席へ戻る。
誰にも媚びない。
でも、引きもしない。
譲らないと決めた人の動きだった。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「今の、かなり来てるね」
「……うん」
「行く?」
「何を」
「見に、じゃなくて」
夏希は澪の顔を見る。
「逃げないで受け止めに」
その問いに、すぐには答えられなかった。
受け止める。
それが今の自分にできるだろうか。
凛花が何を言うのか、だいたい想像はつく。
好きだと、ちゃんと取りに行くと、たぶんそういう話だ。
それを正面から聞くのは怖い。
でも、もう怖いから避けるだけでは終われないところまで来ている。
「……行かない」
澪は小さく言った。
「でも」
「でも?」
「逃げない」
その答えに、夏希は少しだけ目を細めた。
「ならいい」
それだけ言って、先に教室を出ていく。
人が少しずつ減っていく中、澪は鞄を持ったまま席を立てずにいた。
凛花は先に出ていった。
朔は少し遅れて立ち上がり、教室の後ろ扉へ向かう途中、一度だけこちらを見た。
目が合う。
その瞬間、何か言いたそうな気配があった。
でも結局、朔は何も言わずに教室を出ていった。
静かになった教室の中で、澪はゆっくり息を吐く。
追いかけたいわけじゃない。
でも、待っているだけの自分にももう戻りたくない。
だから、今日は逃げないで知る。
凛花がどこまで行くのか。
自分がどこまで耐えられるのか。
十分ほどしてから、澪は教室を出た。
屋上前の階段へ直接行くつもりはなかった。ただ、職員室へ提出するプリントがあるという形で同じ方面へ向かう。それくらいの自分なりの言い訳は必要だった。
校舎の上階は、人が少ない。
窓から差す夕方の光が長く床へ伸びていて、足音だけが妙に響く。
屋上前の階段が見える手前で、澪は自然に歩みをゆるめた。
声がする。
凛花と、朔だ。
「……ちゃんと言うね」
最初に聞こえたのは、凛花の声だった。
落ち着いている。
でも、いつもより少しだけ深い。
澪は階段の陰へ立ち止まる。
聞くつもりはなかった。
けれど、ここまで来てしまった以上、耳を塞いで逃げるのも違う気がした。
「私は、神谷くんのこと好き」
はっきりしていた。
遠回しでもなく、曖昧でもない。
澪の胸が強く縮む。
「たぶん、もう神谷くんも気づいてると思う」
凛花は続ける。
「でも、ちゃんと言葉にしておきたかった」
沈黙。
朔はまだ何も返さない。
でも、ちゃんと聞いているのはわかる。
「私は」
凛花が言う。
「好きって決めた相手を、最後までちゃんと取りに行く」
その言葉が、夕方の階段に静かに響いた。
やっぱり、そうだ。
凛花は最後まで引かない。
最初から強かったけれど、今のそれはもう牽制でも宣言でもなく、本気そのものだった。
「返事、今すぐ欲しいわけじゃない」
凛花は続ける。
「でも、遠慮はしない」
「……うん」
やっと朔の声が返る。
低くて、少しだけ硬い。
「ちゃんと受け取った」
その言葉に、澪の胸がまた痛んだ。
ちゃんと受け取る。
それは朔らしい。
誰かの本気を雑に扱えない人だ。
だからこそ、ライバルたちもちゃんと前へ出るのだろう。
「神谷くん」
凛花が少しだけやわらかい声になる。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「何」
「朝倉さんのこと」
その名前が出た瞬間、澪の呼吸が止まりそうになる。
階段の陰に立つ自分の存在なんて、たぶん二人は知らない。
でも、今はそんなことより、その先が怖かった。
「もう、“幼馴染だから”だけじゃないよね」
凛花の問いはまっすぐだった。
逃がさない。
でも責めてもいない。
ただ、本当のところを見ようとしている声だった。
長い沈黙が落ちる。
時間にすれば数秒かもしれない。
でも、澪にはひどく長く感じた。
「……わからない、って言ったらたぶん嘘」
朔の声がした。
その一言で、胸の奥が大きく揺れる。
わからないって言ったら、嘘。
それはつまり、何かがあるということだ。
「そう」
凛花は短く返す。
その声に動揺はない。
むしろ、やっぱりという納得すら混じっているようだった。
「でも」
朔が続ける。
「今、ちゃんと整理できてるわけでもない」
「うん」
「ただ、前と同じではない」
夕方の風が、階段の窓を小さく鳴らした。
前と同じではない。
その言葉は、澪にとっては十分すぎるほど重い。
凛花にもそれは伝わったはずだ。
「そっか」
凛花は小さく言う。
「なら、なおさら遠慮しない」
強い。
ほんとうに強い。
相手の中に別の誰かがいるかもしれないと知って、それでもなお引かない。
むしろ、そこで勝負をやめない。
「神谷くん」
凛花は最後に言った。
「私は譲らない」
その言葉には少しも迷いがなかった。
足音がした。
もうこれ以上ここにいるのはまずいと思い、澪は反射的にその場を離れた。胸がうるさくて、呼吸も浅い。階段を下りる足が少しだけ速くなる。
廊下の角を曲がったところで、背後から声がした。
「朝倉さん」
振り向くと、凛花がいた。
いつの間にか追ってきていたらしい。
「……聞いてた?」
静かな問いだった。
責めるような調子ではない。
だから、余計に逃げにくい。
「少しだけ」
澪は正直に答えた。
嘘をついてもたぶんわかる。
「そっか」
凛花は頷く。
「まあ、いいよ」
「……よくないでしょ」
「今さら隠すことでもないし」
その言い方に、澪は言葉を失う。
凛花は少しだけ壁へ寄りかかった。
夕方の光が横顔を細く照らしている。
「私、最後まで行く」
あらためて、はっきり言う。
「それはさっき神谷くんにも言ったし、朝倉さんにも言う」
澪は唇を噛んだ。
「……知ってる」
「ならいい」
「よくない」
思わず強い声が出る。
凛花の目が少しだけ細くなる。
「何が」
「そんなふうに、当然みたいに言えるの」
「当然じゃないよ」
凛花は静かに返す。
「怖いし、痛いし、負けるかもしれない」
「じゃあ何で」
「好きだから」
即答だった。
その潔さに、澪の胸がまた痛む。
「好きで、ほしいと思ってるから」
凛花は続ける。
「それなら、最後までちゃんと取りに行くしかないでしょ」
澪は何も言えなかった。
その通りだと思ってしまうから。
悔しいほど、正しいから。
「朝倉さん」
凛花がまっすぐこちらを見る。
「神谷くん、たぶんもうかなり朝倉さんのほう見てる」
心臓がひとつ強く跳ねる。
「でも、それでも私は行く」
「……」
「だから、朝倉さんももう引かないで」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
挑発でもある。
でもそれだけじゃない。
同じ土俵へ立てと告げる声でもあった。
「私だって」
澪は小さく息を吸う。
「もう引くつもりない」
凛花は数秒だけ澪を見て、それからほんの少しだけ笑った。
「うん」
「……何」
「やっとその顔になった」
以前にも似たことを言われた気がする。
その時より今の自分は、たぶんもう少しだけ本気で前を向いている。
「負けたくない」
澪は自分でも驚くくらいまっすぐに言った。
凛花の目が、わずかに楽しそうに細まる。
「なら、ちゃんと来て」
「行く」
そう言い返した瞬間、自分の中で何かがはっきりした。
怖い。
でも、もう守りに入っているだけではだめだ。
凛花は譲らない。
だったら自分も、譲れないものとしてこの恋を持たなければいけない。
凛花と別れたあと、澪は校舎を出てからもしばらく呼吸が整わなかった。
夕方はもう夜に近づいていて、住宅街の向こうに薄い群青が広がっている。街灯がひとつずつ灯り始め、その下を通るたび、胸のざわめきだけがやけにはっきりした。
朔は言った。
前と同じではない、と。
凛花は言った。
私は譲らない、と。
そして自分も、言った。
もう引くつもりはないと。
ここまで来てなお、まだ全部を言いきれていない自分がいる。
ノアのことも、好きという言葉も、核心はまだ胸の内側にある。
でも少なくとも、もう見守るだけの位置には戻れない。
家へ帰って部屋のドアを閉めたあと、澪はそのまま床へ座り込んだ。
手のひらが少し汗ばんでいる。
うまく息ができない。
「……譲れない」
小さく呟く。
それは凛花への対抗心だけではない。
もっとずっと、自分自身の中の決意だった。
好きだから。
ほしいと思っているから。
だったら最後までちゃんと取りに行くしかない。
その言葉が、今夜はやけに重く、そして正しく感じられた。




