第5章 第2話:名前の奥を見ようとする人
その夜、ノアはログインした直後から、胸の奥に小さな痛みみたいなものを抱えていた。
昼間、朔は言った。
待つだけじゃなく、知りたいと。
その言葉はうれしかった。
でも、そのうれしさがそのまま夜へ持ち込まれると、今度は別の意味で苦しくなる。
現実の朔も、夜のアークも、最近は同じ方向を見始めている。
名前の違う自分へ向かって、どちらも“もっと奥を知りたい”と言ってくる。
それが、何より怖い。
アステリオの中央広場は、深夜前らしい静かな光に包まれていた。
白い塔の窓明かり。石畳を流れる薄い術式。噴水の周りで雑談するプレイヤーたちの影。景色だけ見れば、何も変わっていない。
でもノアの中では、今夜の空気は前より少し重かった。
『ノア』
個別回線が開く。
アークの声は、いつもより少し低い。
『来た』
「……来た」
『少し、外周だけ付き合って』
「どこ」
『《風紋回廊》』
その名前に、ノアは小さく息をつく。
風紋回廊は、細長い空中回廊が連なる中層マップだ。
敵は強くないが足場が狭く、落下や視界の読み違いで事故が起きやすい。少人数だと自然に会話が近くなる場所でもある。
「みんなは?」
『フレアは別周回。ピピは今日は遅い。セレスは素材整理終わったら来るって』
つまりまた、最初は二人だ。
「……行く」
『うん』
転送先の風紋回廊は、夜の青をそのまま削り出したみたいな場所だった。
黒に近い石でできた細い通路が空中に伸び、その下を淡い光の風がゆっくり流れている。欄干は低く、場所によっては崩れたままだ。遠くには円形の塔群が浮かび、そのあいだを白い鳥型モンスターが横切っていた。
「風、強い」
ノアがローブの裾を押さえる。
「今日はたぶん上層気流入ってる」
アークが少し先を見ながら言う。
「だから、足元より先に風見て」
「……何でそんな言い方するの」
「何でって?」
「先生みたい」
アークが少し笑う。
「ノア、たまに景色優先するだろ」
「するけど」
「だから」
その返しが自然で、少しだけ悔しい。
ちゃんと見られているのだと思ってしまうからだ。
最初の分岐までは、ほとんど戦闘もなく進んだ。
ただ、静かではなかった。
アークの気配がいつもより近い気がする。
別に距離を詰めているわけじゃない。歩幅も位置もいつも通りだ。
なのに、視線の置き方だけが違う。
見ている。
確かめるように。
言葉だけでなく、沈黙や癖まで拾おうとしているみたいに。
「右、来る」
ノアが言う。
「見えた」
アークが剣を抜く。
鳥型モンスターが三体、風の流れに乗るように突っ込んでくる。
ノアは拘束陣を細く走らせ、進路を一瞬だけ歪める。そこへアークが踏み込み、前の二体を連続で叩き落とした。最後の一体が上から旋回してきたところで、ノアが視界補助を差し込み、そのままアークの追撃が入る。
短い戦闘だった。
でも、終わったあとに残る静けさがやけに濃い。
「やっぱり」
アークが剣を払う。
「ノアいるとやりやすい」
「最近そればっかり」
「本当だから仕方ない」
「その理屈便利すぎる」
「便利じゃないって」
アークは少し真面目な声になる。
「たぶん前より、ノアの癖わかってきたし」
ノアの胸がひとつ強く鳴る。
「……癖」
「うん」
「何それ」
「術式出す前に、指先少しだけ止まる時あるだろ」
ノアは思わず自分の手を見る。
「あと、何か言いにくい時、目線がちょっと下に落ちる」
そこまで言われて、喉の奥が乾いた。
見られている。
しかも、戦い方だけじゃない。
その人の中身に近い部分まで。
「……観察しすぎじゃない」
どうにかそう返す。
「してるかも」
アークはあっさり認めた。
「最近、そうしたくなる」
その言葉は静かだった。
でも、だからこそ重い。
二人は回廊の中腹にある円形足場へ移動した。
風が少し弱まり、中央には壊れた碑石が残っている。敵影もなく、休憩にはちょうどよかった。
ノアは碑石の影へ立ち、アークは少し離れた位置で回廊の外を見る。
遠くの浮遊塔の灯りが、風の層の向こうで揺れていた。
「ノア」
アークが振り返る。
「何」
「この前、言っただろ」
「……どれ」
「知りたいって」
それだけで、胸がきゅっと縮む。
逃げたい、と思う。
でも本当は、逃げたくない。
ただ、どう受け止めればいいかわからないだけだ。
「……うん」
ノアは小さく返す。
「変わってない?」
アークが聞く。
「何が」
「その気持ち」
少しだけ風が強く吹いた。
回廊の下を流れる光の風が、淡く波打つ。
「変わってない」
アークはまっすぐ言う。
「むしろ前より強い」
ノアは視線を外へ逃がした。
「困る」
「またそれ」
「困るよ」
「何で」
「……近いから」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
アークは少しだけ目を細める。
「近い?」
「今のままでも、十分」
それ以上は言えない。
でも、それだけでもかなり本音だった。
今のままでも十分近い。
その距離でさえ苦しいのに、さらに奥へ踏み込まれたら、きっと守れなくなる。
「じゃあ」
アークがゆっくり言う。
「近いのに知らないのが、余計気になる」
ノアは返事ができなかった。
その通りだと思う。
自分だって逆ならそう感じるだろう。
そばにいるのに、何か大事なものだけ触れられない。
その距離は、優しいけれど残酷だ。
「ノア」
また呼ばれる。
「何」
「知りたいの、暴きたいからじゃない」
低い声だった。
「わかってる」
「たぶん、ちゃんと向き合いたいから」
その一言が、思っていた以上に深く刺さる。
向き合いたい。
夜の名前の自分と。
その奥にいる何かと。
そんなことを言われたら、もうただの興味では片づけられない。
ノアは小さく息を吸った。
苦しい。
でも同時に、どうしようもなくうれしい。
「……それが一番困る」
やっとそれだけ言うと、アークがわずかに笑う。
「やっぱりな」
「笑わないで」
「笑ってない」
「今ちょっと笑った」
「少しだけ」
「ひどい」
ほんの一瞬だけ、空気がやわらぐ。
けれど、すぐにまた静けさが戻る。
その静けさの中で、アークは視線を外さないまま続けた。
「ノアってさ」
「うん」
「たぶん、自分が思ってるより残るんだよ」
「……残る?」
「言葉とか、間とか」
少し考えるように間を置く。
「現実でふとした時に思い出す」
その言葉に、ノアの心臓がひとつ大きく跳ねた。
現実で。
ふとした時に。
思い出す。
それはもう、ただのVR仲間に向ける感情ではない。
少なくとも今のノアには、そう聞こえる。
「だから」
アークは言う。
「名前の奥まで見ようとしたくなる」
ノアは手すりに指先を置いた。
そこに込める力が、少し強くなる。
「……見ないでって言ったら」
「見ないようにはする」
すぐ返ってくる。
「でも、知りたいって思うのまでは止められない」
まっすぐすぎる。
現実の朔と同じだ。
待つけれど、知りたい。
その先を求めてしまう。
「アーク」
「何」
「君、最近ほんとにずるい」
「何回目」
「何回でも言う」
アークが少しだけ笑う。
それから今度は、笑いを引いた声音で続けた。
「じゃあ、ひとつだけ」
ノアは身構える。
「何」
「今すぐ答えなくていい」
アークはゆっくり言葉を置く。
「でも、いつかちゃんと向き合ってくれる?」
その問いは、思っていたよりやさしかった。
そして、やさしいからこそ逃げられなかった。
今すぐではない。
でも、いつか。
しかも“向き合ってくれるか”という聞き方。
ノアは目を閉じた。
もう答えはわかっている気がした。
向き合わないまま、この距離を保てるとは自分でも思っていない。
ただ、その“いつか”が怖いだけだ。
「……たぶん」
やっとのことでそう返す。
「たぶん?」
「今はそれしか言えない」
アークは数秒だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「うん」
それ以上は責めなかった。
でも、その短い返事の中に、ちゃんと待つ意志があった。
待つ。
けれど、何もなかったことにはしない。
それが今の朔にも、アークにも共通している。
同じ人だから当然なのに、それが逆に苦しかった。
その時、共通通話にセレスの接続音が入った。
『お待たせしました』
やわらかな声が回廊に重なる。
続いてフレアも短く挨拶し、少し遅れてピピの元気な声が飛び込んでくる。
『え、また二人で先行ってるじゃないですかー!』
『今どこ』
フレアが簡潔に聞く。
『中腹の円形足場』
アークが答える。
『すぐ行きますね』
セレスが続ける。
二人だけの空気はそこで一度ほどけた。
ノアはようやく、張りつめていた呼吸を浅く吐く。
助かった、と思う。
でも同時に、さっきの問いが消えないこともわかっている。
名前の奥を見ようとする人。
それがもう、夜のアークにも、現実の朔にもなっている。
合流後の探索はいつも通りだった。
フレアが冷静にルートを切り、セレスが補助を重ね、ピピが賑やかに騒ぐ。アークも表面上は普通に見える。
でも、時々こちらへ向く視線だけが前よりずっと静かで深い。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドへ腰を下ろしたまま動けなかった。
部屋は静かだ。
カーテンの向こうの街灯が、床へ四角く光を落としている。
その光の中で、さっきの言葉だけが何度もよみがえる。
――知りたいの、暴きたいからじゃない。
――ちゃんと向き合いたいから。
――いつかちゃんと向き合ってくれる?
もうわかっている。
このままではいられない。
ノアのまま近づいた時間を、朝倉澪の恋と切り離したまま保つことはできない。
「……向き合うしか、ない」
小さく呟く。
その言葉は部屋の中ですぐに消えたけれど、胸の奥には残った。
見つかるのが怖い。
でも、見つけようとしてくれることがうれしい。
その矛盾を抱えたまま、もう限界の近くまで来ている。
名前の奥を見ようとする人から、
いつまで隠れたままでいられるのか。
その答えを、澪はもう先延ばしにできない気がしていた。




