第5章 第1話:待つだけじゃなく、知りたい
翌朝の空は、少しだけ白かった。
雲が薄く広がっていて、朝の光はやわらかいのに輪郭が曖昧だ。住宅街の道も、電柱の影も、遠くを走る車の音さえ、いつもより少しだけ静かに感じる。
澪は家を出た瞬間から、胸の奥に重いものを抱えていた。
昨夜、自分は言った。
隠れたままでは、ちゃんと好きになれないと。
それはほとんど告白みたいな言葉だった。
でも同時に、核心を言いきれていない言葉でもある。
好きだと真正面から言ったわけじゃない。
ノアのことも、まだ何も明かしていない。
なのに、ここまで来てしまった。
もう前には戻れない。
でも、まだ次の場所へも行ききれていない。
その中途半端さが、今朝の澪にはひどく苦しかった。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつもの場所。
電柱のそば。
片手にスマート端末。
見慣れた立ち姿のはずなのに、今日は目が合った瞬間、向こうも少しだけ息を止めたように見えた。
「……おはよう」
先に言ったのは澪だった。
「おはよ」
朔も返す。
短い。
でも、それだけで互いに昨夜のことを覚えているとわかる。
並んで歩き出す。
歩幅は自然に合う。昔からそうだ。信号の手前で少し歩調が緩むのも、細い道ではどちらかが無意識に半歩下がるのも、身体が勝手に覚えている。
でも今は、その自然さの上に、別の緊張が薄く張っていた。
「眠そう」
朔が言う。
「……そっちも」
「まあ」
少しだけ笑う気配。
「考えてたから」
その一言で、澪の心臓が強く打つ。
「……何を」
聞きながら、自分でもわかっていた。
たぶん、自分のことだ。
「いろいろ」
朔は曖昧に返した。
「でも大体、澪のこと」
あまりにもまっすぐで、澪は一瞬だけ呼吸を忘れた。
朝の道で、そんなふうに言われる。
何でもない顔で、でも冗談ではなく。
それだけで胸の奥が熱くなるのに、同時にすぐ別の痛みが追いつく。
知ってほしい。
でも、まだ全部は知られたくない。
その矛盾を抱えたまま、こんな言葉を受け取るのは苦しかった。
「……そっか」
やっとそれだけ返す。
「うん」
朔は少しだけ視線を前へ戻した。
「待つって言ったけど」
そこで短く息を吐く。
「待つだけじゃ、たぶん無理だなって思った」
胸の奥がまたざわつく。
「無理?」
「うん」
朔は静かな声で続ける。
「澪が言えないことあるのもわかるし、無理に聞くのが違うのもわかる」
「……うん」
「でも、知りたいって思うのは止められない」
その言葉が、まっすぐ胸へ落ちた。
待つだけじゃなく、知りたい。
やさしいのに、逃がしてくれない。
でもそれは責めるためじゃなくて、近づきたいと思っているからこその言葉だとわかる。
だから余計に苦しい。
「……困る」
澪が小さく言うと、朔は少しだけ笑った。
「またそれ」
「だって困る」
「知ってる」
「知ってるなら言わないで」
「言わないのも違うだろ」
その返しがひどく朔らしくて、澪は少しだけ目を伏せた。
そうだ。
結局こういうところなのだ。
不器用なくせに、肝心なところはちゃんと外さない。
だから、好きになってしまった。
学校へ着くまでの道は、思っていたより短かった。
会話は多くない。
でも沈黙も前より悪いものではなかった。
互いにちゃんと相手を意識していて、その上で言葉を選んでいる沈黙だった。
教室へ入ると、夏希がすぐにこちらを見た。
澪が席へ着くより先に、口元だけで「どうだった」と聞いてくる。
澪は小さく息を吐いてから、鞄を置いた。
「……待つだけじゃ無理って」
「うわ」
夏希が目を見開く。
「神谷、かなり来てるね」
「知りたいって」
「うん」
「止められないって」
そこまで言うと、夏希はしばらく黙った。
それから、静かに机へ肘をつく。
「朝倉」
「何」
「それ、かなり大きいよ」
「……」
「優しいだけの幼馴染なら、待つって言って終わる」
その言葉に、澪は何も返せなかった。
「知りたいって言うのは、もっと踏み込みたいってことだから」
胸の奥がじわりと熱を持つ。
踏み込みたい。
そうなのかもしれない。
そう思うと嬉しい。
でも、その踏み込みの先に自分の隠し事があることを思い出すと、すぐに苦しくなる。
午前の授業中、澪は何度も前の席の朔を見そうになって、そのたびに視線を止めた。
見る理由はいくらでも作れる。
先生の説明の先にいるとか、たまたま顔が上がったとか。
でも本当は、今朝の言葉の続きを考えてしまうからだ。
知りたい。
待つだけじゃなく。
それは、恋に近い言葉だ。
少なくとも今の自分にはそう聞こえる。
だからこそ、なおさら隠したままではいられないと感じてしまう。
昼休み、澪が弁当を開いていると、朔がいつもより少し早く席を立った。
自販機へ向かうらしい。
その背中を目で追ってしまった瞬間、また情けなくなる。
でも今日は、その情けなさだけでは終わらなかった。
少しして、机の上へ缶が置かれる。
顔を上げると、朔だった。
「これ」
「……何」
「前のやつ」
ラベルを見ると、甘さ控えめのミルクティー。
以前、自販機の前で渡されたのと同じものだった。
「何で」
「何でって」
朔は少しだけ困ったように笑う。
「今日、朝からだいぶ顔硬かったから」
またその言い方だ。
ちゃんと見ていて、何でもない顔で差し出してくる。
「……ありがと」
「うん」
朔はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。
その背中を見ながら、澪は缶の冷たさを指先で確かめた。
誰にでもやさしい人だ。
それは知っている。
でも、最近はその“誰にでも”の中から自分が少しだけ外れている気がする。
その感覚が、うれしくて、怖い。
放課後、委員会の提出物を終えたあと、澪は昇降口で朔と鉢合わせた。
外は少し風が強くて、ガラス越しの空はもう夕方の色へ変わり始めている。
「今帰り?」
朔が聞く。
「うん」
「じゃあ途中まで」
前ならもっと軽く言えたはずの言葉を、今は少しだけ様子をうかがうみたいに言ってくる。
その変化が、また胸を揺らす。
「……うん」
澪も頷く。
二人で歩きながら、しばらくは他愛ない話しかしなかった。
提出物が面倒だったとか、来週の小テストが嫌だとか、先生がまた配信関係の雑用を増やしそうだとか。
でも、会話の底にずっと別のものが流れている。
「澪」
住宅街へ入る手前で、朔がまた名前を呼んだ。
「何」
「この前から、ずっと思ってるんだけど」
「うん」
「近いのに、知らないこと増えた気がする」
その言葉に、喉の奥が少しだけ熱くなる。
近いのに、知らないことが増えた。
それはたぶん、今の二人を一番正確に表していた。
「前より、ちゃんと話してると思う」
朔が続ける。
「でもその分、まだ言ってないことあるのもわかる」
「……」
「それが何かはわからない」
「うん」
「でも、知りたい」
また、同じ言葉だ。
朝も言って、今も言う。
もう一度重ねるくらいには、本気なのだとわかってしまう。
澪は足元を見た。
アスファルトのひび割れに、夕方の影が細く伸びている。
「……今は、まだ」
やっとのことでそう言う。
「うん」
「でも」
ここで何か返さなければ、ただ待たせるだけになる気がした。
「知りたいって思ってくれるのは、うれしい」
朔は少しだけ息を止めたようだった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、それでしばらくは我慢する」
その返しに、思わず少しだけ笑いそうになる。
「しばらくなんだ」
「ずっとは無理」
はっきり言われて、澪の胸がまた小さく痛む。
ずっとは無理。
それは責めているわけじゃない。
でも、猶予が永遠ではないことをちゃんと示している。
その正直さが今はありがたくて、同時に怖い。
別れ道の手前で、二人は少しだけ足を止めた。
家まではもうすぐなのに、その数歩の前で立ち止まりたくなる。
前にはなかった感覚だった。
「じゃあ」
朔が言う。
「また明日」
「……うん」
「今朝のやつ」
「え」
「ちゃんと本気だから」
その一言だけ残して、朔は少し先に歩き出した。
澪はその背中を見送る。
心臓がまたうるさい。
知りたい。
待つだけじゃなく。
ちゃんと本気。
そこまで言われて、まだ“そのうち”へ逃げるのは違う。
もう、自分でもそう思う。
家へ帰って部屋へ入ると、澪はベッドへ腰を下ろしたまま長く動けなかった。
机の上にはフルダイブ装置がある。
夜になればノアになれる。
でも、今はそれが少しだけ遠い。
夜のノアとしても、
現実の朝倉澪としても、
朔はもう“知りたい”側へ来ている。
それはうれしい。
でも、その両方を受け止めるには、自分もどこかで決めなければいけない。
「……もう、待つだけじゃだめなんだ」
小さく呟く。
それは朔に向けた言葉でもあり、自分自身へ向けた言葉でもあった。
この恋はもう、
ただ大事に抱えているだけでは守れないところまで来ていた。




