第4章 第12話:隠れたままでは、好きになれない
夜は、思っていたより静かだった。
窓の外には住宅街の灯りがぽつぽつと並んでいて、遠くを走る車の音だけが低く聞こえる。部屋の中は薄暗く、机の上の端末も、フルダイブ装置も、どちらも手を伸ばせばすぐ届く場所にある。
澪はベッドの端へ腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。
もう限界だ。
その言葉だけが、胸の奥で静かに何度も反響している。
ひなが好きだと言ったこと。
凛花が隠さないと決めていること。
由良が静かな時間の深さを知っていること。
朔が無意識では済まない選び方をし始めていること。
そしてアークが、ノアの正体へ近づこうとしていること。
全部が止まらない。
止まってくれない。
それなのに自分だけが“いつか”へ逃げ続けるのは、もう無理だった。
スマート端末が小さく震えた。
画面を見る。
朔からだった。
『起きてる?』
そのたった四文字で、胸が少しだけ強く鳴る。
指先が迷う。
でも、今夜は逃げたくなかった。
『起きてる』
返すと、既読はすぐについた。
『少し話せる?』
その一文を見た瞬間、澪は目を閉じた。
たぶん、これは偶然じゃない。
今の自分たちは、もう互いに“少し話したい”を先延ばしにできないところまで来ている。
『うん』
送ってから数秒後、また通知が鳴る。
『家の前までは行かない』
『でも、近くの公園なら』
澪はスマート端末を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
夜の公園。
歩いて数分の、小さな住宅街の公園。
子どもの頃はよく一緒にいた場所だ。
昔なら、そんな誘いにいちいち意味なんてなかった。
でも今は違う。
違うのに、それでも行きたいと思ってしまう。
澪は立ち上がった。
部屋着の上に薄いパーカーを羽織り、音を立てないように玄関の鍵を開ける。家族はもうそれぞれの部屋にいる時間だ。夜風は少しだけ涼しくて、昼間の熱をきれいに持っていってしまったみたいだった。
公園には、街灯がひとつだけ灯っていた。
ブランコと、小さな滑り台と、低い柵。昔から何も変わっていないように見えるのに、夜に来ると少しだけ別の場所みたいに見える。
朔はブランコの近くに立っていた。
スマート端末をポケットにしまう動作をしたところを見ると、たぶんさっきまで何か考えていたのだろう。
「……来た」
澪が小さく言う。
「うん」
朔も短く返す。
「来ると思ってた」
「何それ」
「いや、何となく」
それだけのやり取りなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
少しの沈黙。
夜の公園は思ったより静かで、遠くの信号機の電子音だけがかすかに聞こえていた。
「ごめん」
先に言ったのは朔だった。
「夜に呼んで」
「ううん」
澪は首を振る。
「私も、ちょっと話したかった」
その返事に、朔の目が少しだけ揺れた。
ブランコに並んで座るわけでもなく、立ったまま少し距離を置いて向き合う。
近いのに、まだ触れられない距離だ。
今の二人には、その半端さが妙に似合ってしまう。
「この前から」
朔がゆっくり口を開く。
「ずっと考えてた」
「うん」
「澪が言ったこと」
胸がひとつ強く打つ。
――今まで通りでいたいわけじゃない。
――ちゃんと私として近づきたい。
あの夜の言葉は、ちゃんと今も朔の中に残っている。
それがうれしくて、同時に逃げ場がなくなる。
「俺さ」
朔は少しだけ視線を落とした。
「前まで、自分がどうしたいのか、あんまりちゃんと考えてなかったと思う」
澪は黙って聞く。
「澪が近くにいるのは当たり前で」
「……うん」
「それが変わるとか、変えたいとか、ちゃんと考えたことなかった」
夜風が、二人のあいだを細く抜ける。
そうだろうと思う。
自分だって同じだった。
当たり前の近さの上に恋を乗せた時、何が壊れて何が残るのか、怖くてちゃんと見られなかった。
「でも今は」
朔が顔を上げる。
「変わってきてるの、わかる」
その一言に、澪の喉が少し熱くなる。
「……うん」
「前みたいに、何でもないふりはできない」
「うん」
「それを、嫌だとも思ってない」
胸の奥が、痛いほどあたたかくなった。
嫌じゃない。
それだけで、十分すぎるほど大きい。
でも、それだけで全部が解決するわけじゃないこともわかっている。
自分の中には、まだもうひとつ大きな問題があるからだ。
夜の名前。
ノア。
隠したまま積み上げてきた、もうひとつの近さ。
「朔」
澪は呼ぶ。
「何」
「私も」
一度、息を吸う。
「変わってきてるの、わかってる」
言葉にするだけで、胸の奥がひりつく。
「だから、もうごまかしたくない」
朔は何も言わない。
ただ、ちゃんと聞いている。
「でも」
澪は続ける。
「まだ全部は言えない」
その言葉は、自分でも少しずるいと思う。
でも、今はここまでしか出せない。
「……全部?」
朔が静かに聞く。
「うん」
「俺に関係ある?」
「ある」
即答だった。
もう、それだけは隠せなかった。
朔の目がわずかに揺れる。
夜の街灯の下で、その表情だけが少し近く見えた。
「そっか」
短い返事。
でも、その声は前よりずっと深い。
「ごめん」
澪は小さく言う。
「謝るなよ」
「でも、言えないのは事実だから」
「……うん」
「それで、逃げるのはもっと嫌」
そこで初めて、澪はまっすぐ朔を見た。
「隠れたままじゃ、ちゃんと好きになれないから」
言った瞬間、自分の中で何かが静かに壊れた気がした。
好き。
今、自分はたしかにその言葉を使った。
直接“朔が好き”とは言っていない。
でも、ここまで来たらもうほとんど同じだ。
朔はしばらく動かなかった。
目を見開いて、それからほんの少しだけ息を吸う音がした。
「……それ」
低い声。
「俺に言ってる?」
澪は目を逸らさなかった。
「今は、まだ全部じゃない」
心臓の音がうるさい。
「でも、逃げたくない」
それが今の限界だった。
でも、限界だからこそ本物だった。
朔は長く黙った。
その沈黙が怖い。
でも、もう引き返したくない。
やがて、朔はゆっくり息を吐く。
「澪」
「何」
「俺、今の聞いて」
少し言葉を探すような間。
「……うれしかった」
その一言で、胸の奥が熱く満ちる。
うれしかった。
また、その言葉だ。
でも今回は、今までのどの“うれしい”とも違った。
「でも」
朔は続ける。
「同時に、やっぱり知らないことがあるんだなとも思った」
澪は小さく頷く。
「うん」
「それが苦しい」
その言葉に、胸が強く痛んだ。
自分も同じだ。
夜の名前を隠したまま近づいてきた分だけ、そこには必ず歪みがある。
そして今、その歪みを朔も感じ始めている。
「ごめん」
もう一度言うと、朔は首を振った。
「だから謝るなって」
「でも」
「俺も、今すぐ全部わかるわけじゃない」
少しだけ苦く笑う。
「でも、待てるとは思う」
その言葉に、澪は目を見開いた。
「待てる?」
「うん」
「何で」
「逃げる気がないって、今ちゃんとわかったから」
夜の街灯が、朔の横顔をやわらかく照らしていた。
逃げる気がない。
それだけで、待てる。
その言葉は、澪にとって思った以上に救いだった。
「……ありがと」
声が少しだけ震える。
「でも」
朔は一歩だけ近づいた。
「ずっと隠したままは、たぶんもう無理なんだと思う」
その一言が、静かに胸へ刺さる。
そうだ。
たぶん、本当にそうなのだ。
夜の名前も、
現実の自分も、
どちらもここまで来てしまった。
なら、いつまでも切り離したままではいられない。
「うん」
澪はやっとのことで頷いた。
「私も、そう思う」
そう答えた時、夜風がまた少しだけ強く吹いた。
ブランコの鎖が、かすかに鳴る。
それから二人は、しばらく黙ったまま立っていた。
気まずいわけではない。
ただ、今の会話があまりにも重くて、すぐ次の言葉を足すのが違う気がしただけだ。
やがて、朔が小さく笑う。
「今日、かなりすごいこと言われた気がする」
「……私も、かなりすごいこと言った気がする」
「だよな」
少しだけ空気がゆるむ。
それでも、前には戻らない。
たぶんもう、本当の意味で“幼馴染のまま”には戻れない。
帰り道、家が近づくにつれて会話は減っていった。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
今日のやり取りを、互いにちゃんと抱えたまま歩いている沈黙だった。
家の前で別れる時、朔が言う。
「澪」
「何」
「今の、ちゃんと覚えとく」
またその言葉だ。
でも今夜のそれは、今まででいちばん深かった。
「……うん」
「俺も、逃げないようにする」
その一言に、また胸が熱くなる。
「おやすみ」
澪が言う。
「おやすみ」
朔も返す。
家へ入って、部屋のドアを閉めたあと、澪はそのまま床へ座り込んだ。
心臓がまだうるさい。
手も少し震えている。
隠れたままでは、ちゃんと好きになれない。
その言葉を、自分はたしかに朔へ向けて言った。
もう、夜の名前だけに隠れてこの恋を続けることはできない。
ノアとして近づいた時間も、本物だ。
でも、それを本当に自分の恋にしたいなら、朝倉澪として向き合うしかない。
怖い。
それでも、今夜ははっきりわかった。
次に進む時は、
もう“いつか”ではだめなのだと。




