第4章 第11話:言葉にしないまま、もう限界
その日の朝は、空気が少しだけ重かった。
曇り空のせいかもしれない。
でも澪には、それだけではない気がしていた。
窓の外に広がる白い空も、通学路を歩く人の少ない足音も、曲がり角の向こうにいるはずの朔の気配も、全部がどこか張りつめて見える。
胸の奥には、昨夜の言葉がまだ残っていた。
――君は誰なんだろう。
――知らなくていいとは思えない。
――いつか、ちゃんと知りたい。
夜の名前は、もう隠れ場所ではいられない。
それなのに現実の朝倉澪としても、まだ肝心なことを全部は言えていない。
どちらも中途半端なまま、でももう後戻りもできない。
その感覚が、朝からずっと息苦しかった。
曲がり角を曲がると、朔がいた。
いつも通りみたいに、電柱のそばで端末を見ている。
でも、顔を上げてこちらを見た瞬間、その目に少しだけ迷うみたいな色が混じった。
「……おはよ」
朔が言う。
「おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
距離は近いのに、言葉がすぐには続かない。
前なら何でもない話題を適当に拾えたのに、今はその何でもない話題の下に、もっと大きなものが沈んでいるのが互いにわかっている。
「昨日」
先に口を開いたのは朔だった。
「遅かった?」
その問いに、澪の心臓がひとつ跳ねる。
「……少し」
「VR?」
「うん」
短いやり取り。
それだけなのに、喉の奥が乾く。
朔はそれ以上は聞かなかった。
でも、聞かなかったこと自体が逆に意味を持っている気がした。
知りたいくせに、今は踏み込みすぎないようにしている。
そんな距離感が、今の朔にはある。
「澪」
「何」
「この前のこと」
またその話だとわかる。
「ちゃんと、考えてるから」
低く、静かな声だった。
「……うん」
「すぐに答えみたいなもの出せるわけじゃないけど」
「うん」
「でも、なかったことにはしない」
それは前にも聞いた言葉だった。
でも今日のその言い方は、前よりずっと重かった。
「ありがと」
やっとそれだけ返すと、朔は少しだけ息を吐いた。
学校へ着いても、その空気は消えなかった。
教室のざわめきの中にいても、澪の心はずっと落ち着かない。机へ教科書を出し、ホームルームの準備をして、先生の話を聞く。全部ちゃんとやっているのに、頭の奥では別のことばかりが鳴っていた。
現実でも、夜でも、もう限界が近い。
それはたぶん、自分だけではなく、朔のほうにも少しずつ伝わっている。
「朝倉」
休み時間、夏希が後ろから机を軽くつついた。
「今日、やばい顔してる」
「最近ずっと言ってない?」
「だって最近ずっとやばいし」
澪は小さく息を吐く。
「……昨日、また聞かれた」
「神谷に?」
「ううん」
そこで、一瞬だけ迷う。
でも夏希にはここまでだいぶ話してきた。
「ノアのほうで」
夏希の表情が少しだけ引き締まる。
「どこまで」
「“君は誰なんだろう”って」
「うわ」
「知らなくていいと思えないって」
夏希は無言で額を押さえた。
「来てるね」
「来てる」
「で、朝倉は?」
「今は無理って」
「うん」
「でも、もうその“今は”すら長くない感じ」
夏希はしばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「そろそろ本気で決めないとだめかもね」
「何を」
「逃げ方じゃなくて、進み方」
その言葉が、朝の曇り空みたいに胸へ広がった。
昼休み、澪が教室で弁当を開いていると、前方でひなの明るい声が上がった。
「神谷先輩、今日放課後ちょっといいですか?」
やっぱり、と思う。
ひなはもう隠さない。
好きと言った以上、そのまま強い。
「今日?」
朔が聞く。
「この前の話の続きっていうか」
ひなは少し照れたように笑う。
「時間もらえるって言ってたので」
その言葉に、胸の奥が小さく痛む。
ちゃんと、約束を取りに行く。
言った人は強い。
言った先の時間まで、自分で掴みに行ける。
「放課後なら少し」
朔が答える。
「やった」
ひなはぱっと笑った。
そのやり取りを、凛花は少し離れた席から静かに見ていた。
由良もまた、何も言わないままその空気を受け取っている。
みんな、進んでいる。
それぞれのやり方で、ちゃんと前へ出ている。
澪だけがまだ、肝心な核心を抱えたまま止まっている気がして、息が苦しくなる。
昼休みのあと、廊下で由良とすれ違った。
相手は少しだけ足を止め、やわらかく目を細める。
「朝倉さん」
「……何」
「今日、顔色あんまりよくないね」
「平気」
「そういう時の平気、たぶん平気じゃない」
やさしい言い方なのに、また逃がしてくれない。
「白瀬さんは」
澪は少しだけ低く言う。
「いつも余裕あるよね」
由良は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し困ったように笑う。
「ないよ」
「うそ」
「ほんと」
その声は静かだった。
「余裕あったら、近づける時にちゃんと近づこうなんて思わない」
またそれだ。
やわらかいくせに、核心だけはきちんと置いていく。
「朝倉さん」
由良は続ける。
「待ってる間に、動く人が取っていくこともあるから」
澪は唇の内側を噛む。
知っている。
だから苦しいのだ。
放課後、六限が終わると教室の空気はすぐに動き出した。
部活へ行く者、帰る者、先生に呼ばれる者。人の流れの中で、ひなが朔の席の近くへ行くのが見えた。
笑っている。
でも、今日は少しだけ真面目な顔も混じっていた。
たぶん、ちゃんと時間を取るのだろう。
この前言った“好き”の、その先の何かを。
凛花はそれを黙って見ていたが、表情は変えない。
由良は資料を抱えたまま別の教室へ向かっていく。
誰も止まらない。
みんな、自分のやり方で進んでいる。
澪は鞄を持ったまま立ち尽くした。
足が動かない。
行きたいのに、行けない。
呼び止めたいのに、理由がない。
いや、理由ならあるのだ。
好きだから。
取られたくないから。
でも、その理由を口にできない自分がまだいる。
「朝倉」
背後から夏希の声。
「まだそこ?」
「……無理」
「無理じゃない」
「無理だって」
「ここまで来て?」
その一言が、少しだけ鋭かった。
澪が振り向くと、夏希は珍しく真面目な顔をしていた。
「朝倉」
「何」
「ここまで来てまだ待つの、もう優しさじゃなくて逃げだよ」
息が詰まる。
図星だった。
見守るとか、
壊したくないとか、
そういうきれいな言葉で自分をごまかしてきた。
でも今の自分は、本当はもっとはっきりしている。
言えないだけだ。
怖いだけだ。
そしてその怖さのぶんだけ、誰かが前へ行く。
「……」
「神谷も、ライバルも、夜のほうも、全部もう止まってくれないでしょ」
夏希の言葉は静かだった。
「朝倉だけが“そのうち”でいたら、置いてかれるよ」
澪は何も返せなかった。
置いていかれる。
その未来は、もうずっと前から怖かった。
でも今は、怖いだけではなく、現実味を持ち始めている。
「……うん」
やっとのことでそれだけ言う。
「もう、逃げない」
口にした瞬間、胸の奥で何かが痛いほど強く鳴った。
夏希は小さく頷く。
「なら、次ちゃんと行きな」
「次」
「神谷に」
澪は目を伏せる。
今すぐ告白できるわけじゃない。
正体のことだってまだある。
でも、少なくとも“また今度”へ逃がしてはいけないところまで来ている。
それだけははっきりわかった。
夜になってログインしても、ノアの心は少しも落ち着かなかった。
アステリオの夜景はきれいだ。噴水の光も、白い塔も、群青の空も、何も変わらない。
でも、自分の中の何かだけが限界へ近づいている。
『ノア』
アークの声が個別回線で落ちる。
『来た』
「……来た」
『少し話せる?』
その一言だけで、胸がまたざわつく。
現実でも、
夜でも、
もうどちらもごまかしきれない。
「うん」
ノアが答えると、アークは短く息を吐いた。
『よかった』
その声はやさしい。
やさしいからこそ、もうこのままではいられないと思う。
話し始める前から、ノアは自分の中の限界を感じていた。
夜の名前のまま、
現実の名前を隠したまま、
好きな気持ちだけを育てていくこと。
それがもう、苦しくてたまらない。
ログアウトして現実へ戻った頃には、部屋の空気がひどく冷たく感じた。
制服を脱ぎ、ベッドへ腰を下ろし、スマート端末を握る。
画面は暗いままだ。
でも、その暗さの中で澪ははっきり思った。
もう限界だ。
言葉にしないまま、
隠したまま、
待つだけでは、もうこの恋を抱えていけない。
怖い。
でも、その怖さを理由にして止まれる段階は、たぶんとっくに過ぎていた。




