第4章 第10話:君は誰なんだろう
その夜、ノアはログインした瞬間から、胸の奥に重たい静けさを抱えていた。
昼間のことが、まだ熱を持ったまま残っている。
――たぶん、たまたまじゃない。
現実の朔がそう言った。
それは告白ではない。何かを決めた言葉でもない。
でも、もう“偶然”や“幼馴染だから”だけで逃がせる場所にはいないと、互いにうっすら気づき始めている響きだった。
その余熱を抱えたまま、夜のアステリオへ立つ。
今の澪には、その行き来がもうひどく危うい。
中央広場は深夜前らしいやわらかな光に満ちていた。
白い塔の窓明かり、石畳を流れる薄い魔法陣の筋、噴水の飛沫を照らす青い灯り。どこも変わっていないのに、ノアの中だけが落ち着かなかった。
『ノア』
個別回線が開く。
アークの声はいつもより低く、静かだった。
『来た』
「……来た」
『少しだけ、二人でいい?』
その一言に、ノアの指先がわずかに強張る。
「みんなは」
『フレアたちは別周回。セレスは少し遅れるって』
少しの沈黙。
『だから、今のうちに』
今のうちに。
何を、とは言わない。
でも、ただの探索ではないことくらい、もうわかっていた。
「どこ」
『《沈黙の観測塔》』
ノアは小さく息を呑む。
観測塔は高難度ではないが、少人数だと会話の温度がやけに近くなるマップだった。
縦に長く、敵も少なく、静かで、景色がきれいで、だから余計に逃げ場がない。
「……行く」
『うん』
転送された先は、夜空へ突き刺さるように建つ古い塔だった。
白銀の石壁、螺旋状に続く細い階段、ところどころ崩れた床、吹き抜けの中心をゆるく昇っていく光の粒。外壁は半分崩れていて、そこから群青の空が覗いている。遠くの星が手の届きそうな高さに見えた。
「ここ、風強い」
ノアがローブの裾を押さえながら言う。
「上の階ほどな」
アークが少し前を歩く。
「落ちるなよ」
「……最近そういう言い方多い」
「何が」
「気をつけろとか、離れるなとか」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「ならいいだろ」
そう返されて、ノアは口を閉じた。
だめではない。
むしろ、そういう言葉を欲しがっている自分がいる。
でも欲しがるほど、それが夜のノアへ向けられていることも痛感する。
二人で螺旋階段を上る。
途中で小型の浮遊敵が出たが、戦闘は短かった。ノアが視界補正を差し込み、アークが一撃で落とす。息は自然に合っていて、何も言わなくても動ける場面が増えすぎていることが、逆に少し怖かった。
「やっぱノアとだと静かで済むな」
アークが言う。
「静かで済む?」
「説明いらない」
短い返答。
「今どこ見てるか、何考えてるか、何となくわかるから」
ノアは足を止めそうになる。
でも、どうにかそのまま一段上がった。
「……それ、よく言えるね」
「本当だから」
「そういうの」
ノアは小さく息を吐く。
「軽く言わないで」
「軽く言ってない」
アークはすぐ返した。
「そこは前からだろ」
その返しが、現実の朔と似すぎていて、胸の奥がまたざわつく。
塔の中腹、外壁の崩れた場所に面した踊り場へ出たところで、アークが足を止めた。
夜風が吹き込み、遠くの星が手の届きそうな距離に瞬いている。
「ここでいい」
「……何が」
「話」
ノアの呼吸が少し浅くなる。
逃げたいわけではない。
でも、ここで何を聞かれるのかが怖い。
いや、本当はもうわかっているから怖いのだ。
アークは少しだけ手すりへ寄りかかり、それからまっすぐこちらを見た。
「ノア」
「何」
「前にも言ったけど」
ゆっくりした声だった。
「最近、現実の誰かと重なる時がある」
ノアは何も返さなかった。
否定すれば嘘になる。
かといって認めるわけにもいかない。
「この前、名前も呼び間違えた」
アークは続ける。
「癖とか、言い方とか、黙るタイミングとか」
夜風が二人の間を通り抜ける。
塔の外では、雲の薄い影が星を一瞬だけ隠した。
「……だから?」
ノアはどうにかそう返した。
「だから、知りたい」
その言葉は、思っていたよりずっと静かだった。
「誰に似てるとか、誰を思い出すとか、そういう曖昧な話じゃなくて」
アークの目が、少しだけ細くなる。
「ノアって、ほんとは誰なんだろうって思う時ある」
胸の奥がひどく大きく打つ。
来た、と思った。
とうとう、そこまで来た。
怖い。
でも、同時に、どこかでずっと待っていた言葉でもあった。
「……今、それ聞く?」
ノアは視線を外へ逃がす。
群青の空は広く、きれいで、残酷なくらい静かだ。
「聞きたくなるくらい、もう近い」
アークは言った。
「ノアが何か隠してるのもわかるし、言えない理由があるのもわかる」
「……」
「でも、知らないままでいたくないとも思う」
その一言が、心のいちばん深いところへ落ちる。
知らないままでいたくない。
それは興味本位ではない。
もっと個人的で、もっと感情のある響きだった。
「ノア」
また呼ばれる。
「俺、ただ面白がってるわけじゃない」
「わかってる」
「じゃあ」
「だから困るの」
思わず、少しだけ強い声が出た。
一瞬、塔の空気が張る。
でもアークは引かなかった。
ただ、まっすぐこちらを見ている。
「知りたいって言われると」
ノアは手すりへ指先を置いた。
「うれしいのに、無理だって思う」
「無理?」
「今は」
それが精一杯だった。
今は。
その言い方自体が、未来には違う可能性があると認めているようで、自分でも苦しい。
「何で」
アークは低く聞く。
「言ったら、変わるから?」
「……」
「壊れるから?」
「……それもある」
「それも、ってことは他にもある」
ノアは目を閉じた。
ある。
ありすぎる。
言った瞬間に全部が繋がってしまうこと。
ノアとして積み重ねたものと、朝倉澪として隠してきたものが、同時に剥き出しになること。
そして、もし受け止めてもらえなかった時に、夜の名前ごと失うかもしれないこと。
「……近すぎるから」
やっとのことでそう言う。
「え」
「今のままでも、もう近い」
ノアはゆっくり息を吐く。
「これ以上までいったら、たぶん戻れない」
アークはその言葉を静かに受け止めていた。
「戻りたいの?」
その問いが、鋭く胸へ刺さる。
戻りたいわけじゃない。
むしろ、もう戻れないと知っている。
でも進めば壊れるかもしれない、その狭間で足が止まっているだけだ。
「……わからない」
ノアは正直に答えた。
「戻りたいわけじゃない。でも」
「でも?」
「今のまま壊したくない」
そこまで言った瞬間、自分で少しだけ笑いたくなった。
ずるい。
こんな言い方では、ほとんど本音を言っているようなものだ。
壊したくないと思っている。
それだけ大事に思っている。
もう隠しきれていない。
アークは少しだけ視線を落とし、それからまた顔を上げた。
「俺も」
低い声だった。
「今のノアとの距離、壊したくない」
その言葉に、ノアの呼吸が止まりそうになる。
「……」
「だから無理に聞くの、たぶん違う」
アークは続けた。
「でも、知らなくていいとも思えない」
その真っ直ぐさが、苦しい。
でも、やっぱりうれしい。
「アーク」
「何」
「君はほんとに」
少しだけ苦く笑う。
「そういうとこ、逃がしてくれない」
「ノアもだろ」
「私は逃げてる」
「逃げながら、ちゃんと残る」
その返しに、ノアは言葉を失った。
残る。
それはたぶん、夜の自分が今まで選び続けてきたことだ。
隠しながら、でも離れない。
誤魔化しながら、でもそばにいる。
中途半端で、ずるくて、それでも完全には逃げられなかった。
「……ごめん」
小さく言う。
「謝らなくていい」
アークはすぐに返した。
「ただ」
少しだけ間を置く。
「いつか、ちゃんと知りたい」
その言葉が、もう一度胸へ落ちる。
いつか。
ちゃんと。
知りたい。
それは問い詰める言葉ではない。
でも、逃げ道でもなかった。
「……うん」
ノアはそれだけ頷いた。
今は、それ以上の約束はできない。
でも、完全な否定ももうできなかった。
その時、共通通話にセレスの接続音が入った。
続いてフレアも、少し遅れてピピも顔を出す。
『二人とも、もう上層ですか?』
セレスのやわらかな声。
『だいぶ早いわね』
フレアが続く。
『えー、また二人で先行ってるー!』
ピピが騒ぐ。
そのにぎやかさに、ノアはようやく浅く息を吐いた。
張りつめていたものが、ほんの少しだけほどける。
『……中腹の踊り場』
ノアが答える。
『すぐ行きますね』
『待っててくださいー!』
合流後の探索は表面上いつも通りだった。
フレアの冷静な指示、セレスのやさしい補助、ピピのにぎやかな声。アークも普段の調子を崩さない。誰が見ても、いつもの五人の周回だ。
でも、ノアの胸の奥にはさっきの会話がずっと残っていた。
君は誰なんだろう。
知らなくていいとは思えない。
いつか、ちゃんと知りたい。
それはもう、ただの違和感ではなかった。
興味ですらない。
もっと個人的で、もっと感情のある問いだった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドへ腰を下ろしたまま、長く動けなかった。
部屋は静かだ。
カーテンの向こうの街灯だけが、床へ薄く光を落としている。
「……もう、だめだ」
小さく呟く。
何がだめなのか、自分でも全部は言えない。
でも、これまでみたいに“そのうちなんとかなる”と先延ばしにできる段階ではないことだけははっきりしていた。
現実の朔も、
夜のアークも、
どちらももう、前とは違う場所まで来ている。
その二つを分けたまま抱えるのは、限界が近い。
隠したい。
でも、隠れたまま好きでいることにも、もう耐えられなくなり始めている。
澪はゆっくり両手を握りしめた。
君は誰なんだろう。
その問いは怖い。
でもたぶん、それを真正面から受け止める時が、もう遠くないところまで来ていた。




