第4章 第9話:無意識じゃ済まない選び方
その日の午後、空気は少しだけ乾いていた。
窓の外はよく晴れていて、教室の床へ射し込む光が明るい。昨日までの曇り空が嘘みたいに、今日は影の輪郭まではっきりしていた。そんなくっきりした昼下がりのせいか、澪の胸の内側の落ち着かなさも、いつもよりごまかしが利かない。
ひなの言葉が、まだ残っている。
――言える時に言わないと、その“いつか”は来ないことある。
――好きな人に好きって言わないまま、他の人に取られるほうがもっと嫌。
どちらも正しい。
正しいから、苦しい。
五限が終わった休み時間、担任が教室へ入ってきた。
「悪い、来週の校外連携の下準備で二人一組の確認だけ今日中にしたい」
端末を片手に、少し慌ただしい声だ。
「形式的なものだから大げさに考えなくていい。配信端末の仮運用と外部回線確認、希望あるやつは今言ってくれ」
教室がざわつく。
形式的と言われても、二人一組と聞くだけで勝手に意識する人は多い。
澪はペンを持つ指先へ少しだけ力が入るのを感じた。
こういう時、朔のまわりには人が集まりやすい。
運営経験もあるし、配信機材の扱いにも慣れている。頼りになるから当然だ。
当然なのに、その当然がいつも苦しい。
「神谷くん」
やはり最初に声をかけたのは凛花だった。
「私、回線確認のほうなら動けるよ」
「白瀬さんもそのへん得意ですよね」
ひなもすかさず言う。
「神谷先輩、人気ですねー」
軽い調子で笑いながら、でも視線はちゃんと朔へ向いている。
由良は少し遅れて口を開いた。
「私も配信補助は問題ないです」
その一言だけなのに、やっぱり距離の取り方が静かで上手い。
朔は少し困ったように頭をかいた。
「いや、別に俺固定じゃなくていいだろ」
「でも神谷くん慣れてるし」
凛花が当然みたいに言う。
「そうですよー、先輩だと安心感ありますし」
ひなも続く。
見慣れた光景だった。
でも、前の自分とは少しだけ違う。
ただ見て苦しくなるだけでは終わりたくない、と今ははっきり思う。
担任が端末を見ながら言う。
「とりあえず、神谷は誰か一人決めて。あとはバランスで組む」
教室の空気が、ほんのわずかに張った。
朔が「え」と短く返す。
視線が揺れる。
凛花、由良、ひな、それぞれの方向に一度ずつ向きそうになって――その次の瞬間、まっすぐ澪のほうへ向いた。
「……澪、やる?」
あまりにも自然だった。
澪は一瞬、呼吸を忘れた。
教室の音が遠のく。
たった一言なのに、その重さがうまく処理できない。
「え」
間の抜けた声しか出ない。
朔は少しだけ不思議そうに眉を寄せた。
「嫌なら別に」
「嫌じゃ、ない」
慌ててそう返すと、ようやく胸が少しだけ動く。
担任が「ああ、じゃあ朝倉と神谷で一組な」と軽く決める。
たったそれだけの事務的なやり取りだ。
けれど、澪にはその“たったそれだけ”が重かった。
今、朔は迷いなく自分を見た。
凛花も由良もひなもいたのに。
そして、自分もそれを断らなかった。
教室の空気が少しだけざわつきを戻す。
でもその中に、いくつか別の視線が混じっているのがわかった。
凛花は腕を組んだまま黙っていて、由良は静かに目を伏せ、ひなは「あー、そう来るんだ」という顔で口元をゆるめていた。
夏希だけは、後ろの席で小さく目を細めていた。
見た、という顔だった。
六限の授業中、澪はほとんど上の空だった。
黒板の文字は見えている。
ノートも取っている。
でも意識の大半は、さっきの一瞬に引っ張られていた。
――澪、やる?
あれは別に告白じゃない。
特別な言葉でもない。
ただ作業ペアを決めるための、実務的な問いかけだ。
でも、凛花がいて、由良がいて、ひながいて、その誰でもなく最初に自分へ向いた。
その事実は、澪の中ではもう“たまたま”で片づけられなかった。
放課後、先生に指定された端末準備室へ行くと、すでに簡易機材がいくつか並べられていた。
小型配信端末、補助モニタ、接続ケーブル、予備バッテリー。教室より少し狭い部屋で、窓から入る夕方の光が機材の縁を白く照らしている。
「先に来てた」
朔が振り向く。
「……うん」
澪はドアを閉めながら、小さく返した。
二人きり。
作業のためとはいえ、こういう状況が最近少しずつ増えている。
でも今日のそれは、始まり方のせいで余計に意識してしまう。
「これ、仮接続だけ確認すればいいらしい」
朔が端末を持ち上げる。
「ログ取りも?」
「簡易でいいって」
「そっか」
作業自体は難しくない。
端末を起動し、外部回線を一度通し、遅延と表示同期を確認して、結果を記録する。
いつもの澪なら、こういう仕事はむしろ落ち着くはずだった。
決まった手順があって、余計なことを考えなくていいから。
でも今日はだめだった。
機材に向かう朔の横顔を見るたび、胸の奥がざわつく。
「澪」
「え」
「それ、逆」
言われて見れば、差し込みかけたケーブルの向きが逆だった。
「あ」
「珍しいな」
朔が少しだけ笑う。
「澪、こういうの間違えないのに」
「……今日はちょっと」
「緊張してる?」
さらりと聞かれて、澪は言葉に詰まる。
「してない」
「してる」
「何でそうすぐ決めるの」
「見ればわかる」
その返しがあまりに自然で、澪は少しだけ目を伏せた。
見ればわかる。
現実の朔も、夜のアークも、最近はそんなことばかり言う。
見ているくせに、肝心なところはまだ知らない。
でも、その“見ている”が前よりずっと深いから困る。
「……さっき」
澪は思い切って口を開く。
「何」
「どうして私だったの」
作業の手は止めないまま、でも声だけは少し低くなる。
「ペア」
朔が一瞬だけ動きを止めた。
「どうしてって」
「凛花さんも、白瀬さんも、ひなもいた」
「うん」
「それなのに、先に私を見た」
そこまで言うと、さすがに自分でも少し恥ずかしくなった。
でも聞きたかった。
あれを偶然として飲み込んでしまうには、もう胸が追いつかなかった。
朔はしばらく黙ってから、端末の電源を一度落とし、机へ置いた。
それから澪のほうを見る。
「……まず浮かんだから」
それだけだった。
でも、その一言は十分すぎるほど重かった。
「浮かんだから?」
「うん」
朔は少しだけ困ったように笑う。
「こういうの、一緒にやるなら澪かなって」
「……何で」
「何でだろうな」
そこで自分でも考えるように目線をずらす。
「一番、変に気を使わなくていいし」
胸の奥が少しだけ痛む。
それは嬉しい言葉だ。
でも“幼馴染だから”にも聞こえる。
たぶんそれが顔に出たのだろう。
朔は少しだけ表情を変えた。
「違う」
「え」
「今の言い方、ちょっと違うかも」
澪は黙って次の言葉を待った。
「気を使わなくていいっていうより」
朔はゆっくり言葉を探す。
「一緒にいたい時に、いちばん自然に呼べるのが澪」
息が止まりそうになる。
一緒にいたい時。
自然に呼べるのが澪。
それは今までのどの言葉より、ずっと危うかった。
危ういのに、うれしくて仕方ない。
「……それ」
やっと声を出す。
「軽く言わないで」
「軽く言ってるつもりない」
朔が返す。
「むしろ今、たぶんかなり正直」
その一言で、胸の中の温度が一気に上がる。
正直。
それを向けられているのが朝倉澪だという事実が、今はひどく眩しかった。
準備室の扉が、不意に控えめにノックされた。
振り向くと、由良が立っていた。
手には先生に頼まれたらしい追加の資料がある。
「ごめん、作業中?」
やわらかい声だった。
「先生がログ用紙これもって」
「あ、ありがと」
朔が受け取る。
「助かる」
由良は部屋の中へ一歩入って、それから机の上の端末配置を見る。
澪と朔が並んでいる距離、その空気、その流れを、ほんの一瞬で把握したような静かな目だった。
「順調そうだね」
「うん、まあ」
朔が答える。
「朝倉さんとなら安心」
由良はそう言って、小さく笑う。
その言い方はやわらかいのに、どこか確認するようでもあった。
安心。
その言葉を、由良自身も前に使っていたことを澪は思い出す。
「白瀬さんは?」
澪が聞く。
「別室の回線確認」
「そっか」
「でも、こっちは問題なさそう」
由良は少しだけ視線を細める。
「神谷くん、ちゃんと選んだんだね」
部屋の空気が、一瞬だけ静まった。
朔が「え」と短く反応する。
けれど、由良はそれ以上は何も言わず、「じゃあ戻るね」と穏やかに出ていった。
ドアが閉まったあとも、さっきの言葉はしばらく部屋に残っていた。
ちゃんと選んだんだね。
選んだ。
たまたまではなく。
なんとなくでもなく。
その意味が、由良にも見えていたのだとしたら。
胸の奥がまた大きく揺れる。
「……そう見えるかな」
朔がぽつりと言う。
「え」
「白瀬に、選んだって」
澪は少しだけ息を呑んだ。
そこを気にするのだと思う。
「見えるんじゃない」
小さく答える。
「少なくとも、私はそう見えた」
朔は数秒だけ黙った。
そして、静かに言う。
「……かもな」
その返事には、もう前ほどの無自覚さがなかった。
作業を終えて準備室を出る頃には、外はすっかり夕方から夜へ移っていた。
廊下の窓に映る空は濃い青で、校庭の端に灯った照明が白くにじんでいる。
昇降口へ向かう途中、ひなが廊下の曲がり角で待ち伏せしていたみたいに顔を出した。
「あ、終わったんですか」
「終わった」
朔が答える。
「神谷先輩、今日朝倉先輩選びましたよね」
あまりにも直球で、澪は思わず足を止めた。
「ひな」
「だって事実じゃないですか」
ひなは悪びれない。
「わたし、ちゃんと見てましたよ」
朔が困ったように頭をかく。
「別にそんな大げさな」
「大げさじゃないですー」
ひなは頬を膨らませる。
「前なら流れで決めそうなのに、今日ちゃんと朝倉先輩見て呼んでたし」
その言葉に、澪の胸はまた少しだけ熱を持った。
見られていた。
そして、誰の目にもわかるくらいには、はっきりしていた。
「……じゃ、先帰る」
朔が少し逃げるみたいに言う。
「朝倉も帰る?」
その問いが、ひなの前で向けられたことに、また別の意味の熱が走る。
「帰る」
澪が答えると、ひなが「はいはい」と笑った。
「いってらっしゃいです」
その声音にからかいはある。
でも、それだけではない。
少しだけ、認めるような色もあった。
帰り道、朔はしばらく黙っていた。
やがて、住宅街の手前でぽつりと言う。
「今日のあれ」
「うん」
「……たぶん、たまたまじゃない」
澪は顔を上げる。
夕暮れの残り香みたいな青い光の中で、朔の横顔は少しだけ遠かった。
「だから」
朔が続ける。
「変にごまかすのも違うかなって思った」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
無意識じゃ済まない選び方。
たぶん今日の朔は、そこへ片足を踏み入れている。
そして自分も、その意味をもう見て見ぬふりはできない。
「……うん」
澪は小さく頷いた。
それ以上は言えなかった。
でも、それでよかった。
家へ帰って自室のベッドに腰を下ろしたあとも、今日の一瞬は何度も頭の中で繰り返された。
――澪、やる?
――一緒にいたい時に、いちばん自然に呼べるのが澪。
――たぶん、たまたまじゃない。
嬉しい。
でも、そのうれしさはもうただ抱きしめるだけでは足りないところまで来ていた。
選ばれた。
少なくとも、今日のあの瞬間は。
それを偶然で片づけるには、もう二人とも少し進みすぎている。
澪は静かに目を閉じる。
無意識じゃ済まない選び方は、
たぶんもう、始まってしまっていた。




