第4章 第8話:言える人は、強いまま進む
翌日の放課後、教室の空気は妙に軽かった。
六限が終わったあとのざわめきの中に、どこか浮ついた熱が混じっている。週末を前にした金曜日だからかもしれないし、交流デー以降まだ残っている学内配信まわりの話題のせいかもしれない。机を引く音、笑い声、端末の通知音、そのどれもがいつもより少しだけ弾んで聞こえた。
澪は鞄へ教科書をしまいながら、心の中だけがその軽さから取り残されているのを感じていた。
昨夜の《幽玻の水路》で、アークに呼び間違いを聞かれた。
誤魔化したけれど、もう限界が近いことは自分でもわかっている。
その上、現実では朔が「あんまり見たくない」と言った。
誰にでもしないとも。
嬉しいのに、楽にはならない。
近づくほど、守れないものが増えていく感じがする。
「神谷先輩ー」
教室の前方で、ひなの声がぱっと響いた。
反射的に、澪の視線もそちらへ向く。
ひなは今日もまっすぐだった。
机の横へ軽やかに寄って、ためらいなく朔の前へ立つ。明るくて、見ている側が構える暇もないくらい自然な動きだ。
「今日、ちょっとだけ寄り道しません?」
ひなが言う。
「寄り道?」
「駅前の新しいカフェです! 配信で見たら限定ドリンクあるって言ってて、気になってたんですよね」
朔が少しだけ苦笑する。
「俺を誘う理由、それだけ?」
「それだけじゃないです」
ひなは即答した。
「神谷先輩と行ったら絶対楽しいからです」
その場の空気が、ほんの一瞬だけやわらかく揺れた。
まっすぐだ。
あまりにも。
冗談っぽく聞こえるように笑っているのに、言っていること自体は全然冗談じゃない。
好意を、ちゃんと届く温度で外へ出している。
澪の指先が、ノートの端を少し強く押さえた。
言える人は強い。
それを、何度も見てきた。
でもこうして何度も突きつけられると、やっぱり苦しい。
「今日はちょっと」
朔が言いかける。
その時、ひなが一歩だけ踏み込んだ。
「じゃあ今度、ちゃんと時間ください」
笑顔のまま、でも声は思ったよりまっすぐだった。
「私、神谷先輩のこと好きなんで」
澪の呼吸が、一瞬だけ止まる。
教室の空気が、ほんの少し固まった気がした。
近くにいた何人かも、たぶん意味をすぐには飲み込めなかっただろう。
でも、澪には十分すぎるほどはっきり届いた。
好きなんで。
そんなふうに、言える。
しかも笑って。
逃げ道を残さないまま。
でも重くしすぎずに。
ひなは強い。
凛花とも、由良とも違う種類の強さで、ちゃんと前へ出られる人だ。
朔は目を丸くしていた。
「ひな、おまえ」
「はい」
ひなは引かない。
「前から言ってますけど、今日はちゃんと伝わるように言いました」
その言葉に、澪の胸の奥がじくりと痛む。
ちゃんと伝わるように。
それができないから、自分はずっと苦しんでいるのに。
教室の空気が妙に静まったところで、ひながふっと笑った。
「返事今じゃなくていいです! 困らせたいわけじゃないので!」
そう言って、でも表情だけは少し赤くなっている。
本気だ。
誰が見てもわかる。
「だから」
ひなが続ける。
「今度、ちゃんと時間ください」
朔はしばらく言葉を探して、それから小さく息を吐いた。
「……わかった」
その返事が、澪の胸にまた小さく刺さる。
わかった。
それは付き合うという意味ではない。
でも、ちゃんと受け取るという意味ではある。
それだけで十分に痛い。
その後、教室のざわめきは少しずつ戻っていった。
気まずさを誤魔化すみたいに、誰かが別の話題を振って、ひなもいつもの明るさへ戻ったように見えた。
でも澪にはわかる。
あれは軽い勢いなんかじゃない。
ちゃんと覚悟を持って、言ったのだ。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「大丈夫?」
「……全然」
「だろうね」
夏希はため息をつく。
「ひなちゃん、今日かなり行ったな」
「うん」
「でも、あれできるの強い」
澪は返事をしない。
できることは、わかっている。
強いことも。
だから余計に、自分との差が苦しい。
放課後、澪は少し遅れて教室を出た。
人の少ない廊下に出ても、さっきの言葉がずっと耳に残っている。
好きなんで。
ちゃんと伝わるように言いました。
どちらも、今の自分には遠い。
でも遠いままでいたら、きっと何も変わらない。
階段を下りようとした時、後ろからぱたぱたと軽い足音がした。
振り向くと、ひながいた。
「あ、朝倉先輩」
「……何」
「ちょっとだけいいですか?」
断る理由も思いつかなくて、澪は踊り場の窓際へ寄る。
夕方の空は薄く群青が混じり始めていて、校舎の壁へやわらかい影を落としていた。ひなはさっきまでの勢いを少しだけ引っ込めた顔で、それでもまっすぐこちらを見る。
「怒ってます?」
「何に」
「さっきの」
「……怒ってはない」
それは本当だった。
怒る筋合いなんてない。
ただ、ひどく苦しかっただけだ。
「ですよね」
ひなは少しだけ笑う。
「朝倉先輩、そういうとこ優しいです」
「優しくないよ」
「優しいです」
言い切られて、澪は目を逸らした。
優しいのではなく、ずっと言えなかっただけだ。
言えないことを“見守る”というきれいな言葉で包んでいたにすぎない。
「私」
ひなが壁へ軽く寄りかかりながら言う。
「前にも言ったじゃないですか」
「……好きなら言ったほうがいいって?」
「はい」
ひなは即答した。
「まだ言わないんですか?」
その問いが、まっすぐ胸へ刺さる。
まだ言わないのか。
その通りだ。
今の自分は、まだ言えていない。
かなり本音に近い言葉は朔へ向けた。今まで通りではいたくないとも言った。
でも“好き”という核心だけは、まだ言えていない。
「簡単に言うね」
澪は小さく返す。
「簡単じゃないのは知ってます」
ひなはすぐに言う。
「でも、言える時に言わないと、その“いつか”って来ないことあるじゃないですか」
風が、踊り場の窓を小さく鳴らした。
言える時に言わないと、“いつか”は来ない。
その言葉も、残酷なくらい正しい。
「朝倉先輩って」
ひなが少しだけ真面目な顔になる。
「すごく大事にしたいタイプなんだと思います」
「……」
「壊したくないから、言えない」
澪は何も返せなかった。
図星だったからだ。
「でも」
ひなは続ける。
「大事にしすぎて動けないなら、それはそれで失うこともあります」
その声は明るくない。
でも、重すぎもしない。
ちゃんと本気で言ってくれている声だった。
「私、今日言ってよかったです」
ひなが言う。
「返事はまだ何もないし、どうなるかもわからないけど」
少しだけ照れたように笑う。
「でも、言わないで後悔するよりずっといいです」
澪は唇の内側を軽く噛んだ。
羨ましい、と思う。
その強さが。
言ったあとでどうなるかわからなくても、それでも外へ出せることが。
「……怖くないの」
思わず聞いていた。
「怖いですよ」
ひなはあっさり言う。
「めちゃくちゃ怖いです」
「そうなんだ」
「でも、好きな人に好きって言わないまま、他の人に取られるほうがもっと嫌です」
その一言に、澪の胸がぎゅっと縮む。
嫌だ。
それはもう、はっきりしている。
凛花にも、由良にも、ひなにも、そうやって何度も突きつけられてきた。
自分は、取られたくない。
見ているだけで終わりたくない。
「朝倉先輩」
ひなが小さく首を傾げる。
「たぶん先輩、もうかなり前から言わなきゃだめな位置まで来てますよ」
澪は目を伏せた。
言わなきゃだめな位置。
たしかにそうかもしれない。
朔も、もう何も知らないわけじゃない。
自分の気持ちの輪郭はかなり近いところまで伝わっている。
それでも、核心だけがまだ外へ出ていない。
「……考える」
やっとそれだけ言うと、ひなは少しだけ目を細めた。
「ほんとですか?」
「うん」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
すると、ひなは満足そうに笑った。
「ならよかったです」
「何で」
「朝倉先輩、ずっと言えなさそうだったから」
「……失礼」
「でも今は、前よりちゃんと進んでる顔してます」
その言葉に、少しだけ救われる自分がいた。
完全には言えない。
まだ怖い。
でも、たしかに前の自分よりは進んでいる。
少なくとも、見ているだけでは終われないと認められるようにはなった。
ひなと別れて、澪はひとりで帰り道を歩いた。
夕方はほとんど夜へ変わっていて、住宅街の窓に明かりがぽつぽつと灯っている。風はやわらかいのに、胸の奥だけがずっと落ち着かない。
言える人は、強い。
凛花も、ひなも、きっとそうだ。
由良は少し違うかたちだけれど、結局は“近づくことを選べる人”という意味では同じなのかもしれない。
それに比べて自分は、ずっと遅い。
でも、遅いままでも、もう立ち止まってはいられない。
家へ着き、自室でフルダイブ装置を前にしても、ひなの言葉は消えなかった。
――言える時に言わないと、その“いつか”は来ないことある。
――好きな人に好きって言わないまま、他の人に取られるほうがもっと嫌。
ノアになれば、今夜もアークは近いかもしれない。
でもそれだけでは、やっぱり足りない。
朝倉澪として、いつかではなく“近いうち”に何かを言わなければいけない。
その現実が、今夜はこれまででいちばんはっきり見えていた。




