第4章 第7話:夜の君が、現実の君に似すぎてる
その夜、ノアはログインしてからもしばらく、中央広場の噴水脇で動けなかった。
昼間のことが、まだ胸の奥に残っている。
――あんまり見たくないかも。
――それ、誰にでもしない。
――たぶん、しない。
現実の朔が口にしたそれは、もう“幼馴染だから”だけでは説明しきれない温度を持っていた。
うれしかった。
でも、そのうれしさがそのまま夜のアークへ繋がるのが、今の澪には少し怖い。
現実でも近づいている。
夜でも近づいている。
その二つの距離が、最近はあまりにも似すぎていた。
『ノア』
個別回線が開く。
アークの声は、いつもより少しだけ低かった。
『来てたのか』
「来てた」
『何してる』
「……考えごと」
『ふうん』
短い沈黙。
『今日、少しだけ付き合って』
「どこ」
『《幽玻の水路》』
その名前に、ノアは少しだけ目を細めた。
高難度ではないが、視界の反射が多くて少人数だと少し面倒な場所だ。
「二人?」
『今は』
またそれだ。
最近、この“今は二人”が増えている。
「行く」
『うん』
転送された先は、夜色のガラスでできた水路遺跡だった。
細い通路の両脇を浅い水が流れ、壁も床も半透明の青い鉱石で組まれている。天井は低く、ところどころひび割れた箇所から月光みたいな淡い光が差していた。足音はよく響くのに、水音のせいで距離感が狂いやすい。
「ここ、音変に返る」
ノアが周囲を見ながら言う。
「だろ」
アークが少し前を歩く。
「だからノア連れてきた」
「それ、便利な言い方だよね」
「便利じゃなくて本音」
そう返されて、ノアはまた言葉を失う。
最近のアークは、こういうところがひどく自然だ。
必要だから一緒にいる。
頼りたいから呼ぶ。
一番話しやすいから聞く。
その全部が、本当なのだとわかってしまう。
最初の分岐で、小型の光獣が二体湧いた。
ノアが拘束を先に出し、アークが真正面から叩き斬る。戦闘そのものは一瞬だったが、その直後、奥の反射壁にアークの姿が三重に映った。
「止まって」
ノアが即座に言う。
「右の影、本体じゃない」
「了解」
アークは迷わず足を止めた。
その一拍の判断にためらいがない。
ノアは術式を細く走らせて、反射の奥に潜む本体だけを浮かび上がらせる。
その瞬間、アークが低く踏み込み、一撃で仕留めた。
「……やっぱ、いると違う」
戦闘後に漏れたその声が、ひどく近かった。
「最近ほんとそればっかり」
「だって違うし」
「他の人でもできるかもよ」
「いや」
アークは珍しく、すぐ否定した。
「そこは違う」
ノアは少しだけ足を止める。
「違うって?」
「ノアだから、ってとこある」
水路の青い光が、二人の足元で揺れている。
ノアは視線を反射壁へ逃がしながら、小さく息を吐いた。
ノアだから。
現実の朔も、似たようなことを言う。
澪だから。
まず浮かぶのは澪。
誰にでもじゃない。
同じ人間の口から、別の名前に向けて、似た温度の言葉が落ちる。
その事実が甘くて、怖い。
水路の奥へ進むほど、反射は強くなった。
壁だけではない。浅い水面にも、天井の硝子板にも、二人の影が細かく砕けて映る。視界の端に自分たちの似た形がいくつもちらついて、気を抜くと本物の位置を見失いそうだった。
「左、偽通路」
ノアが言う。
「真ん中細いけど行ける」
「了解」
「でも、次の段差」
そこまで言って、ノアは無意識に続けた。
「気をつけて。朔、そういうとこ雑だから」
言った瞬間、空気が止まった。
自分でも何を言ったのか理解するまで、一拍遅れた。
朔。
今、自分は確かにそう呼んだ。
アークの足が止まる。
水音だけが薄く響く。
「……今」
低い声。
「何て呼んだ?」
ノアの心臓が一気に跳ね上がる。
「ごめん」
とっさに出たのは、それだった。
「今の」
「聞き間違いじゃなければ、朔って」
アークが振り返る。
その目は、前よりずっとまっすぐだった。
逃げたい。
でも、逃げるには遅すぎる。
しかも最悪なことに、今の呼び間違いは偶然ではない。
現実の朔と、夜のアークが、もう自分の中で分けきれなくなっている証拠だった。
「……癖」
ノアはどうにか声を絞り出す。
「癖?」
「知り合い」
苦しい言い訳だと、自分でもわかる。
でも今はそれ以上出せなかった。
アークはしばらく何も言わなかった。
ただ、ノアの顔を見ている。
見抜こうとするより、確かめようとしている視線だった。
「ノア」
「何」
「前から思ってたけど」
言葉がゆっくり選ばれる。
「やっぱり、現実の誰かと重なる時ある」
背筋がひやりとした。
来る。
もう、本当に近い。
そう思うと、怖さと一緒に、ほんの少しだけ別の感情も疼いた。
気づいてほしい、という気持ちだ。
それがまだ自分の中にあることが、何より厄介だった。
「……気のせいでいいよ」
ノアは小さく言う。
「それ、最近ずっと言うな」
「今はそれしか言えない」
言ってしまってから、はっとする。
それはほとんど、何かを隠していると自分で認めたようなものだったから。
アークは目を細めた。
「何で」
「……」
「何で、今は言えない?」
優しい声だった。
責めていない。
でも、その優しさがかえって逃げ道をなくす。
「聞かないで」
ノアは視線を落とす。
「今、そこ聞かれたら」
「聞かれたら?」
「……たぶん困る」
「困るだけ?」
アークの声が少しだけ近づいた気がした。
近い。
物理的な距離ではない。
でも今の問い方は、もうただの違和感確認ではなかった。
知りたいと思っている人の聞き方だった。
「アーク」
ノアはゆっくり息を吸った。
「これ以上は」
「うん」
「今、ほんとに無理」
それだけ言うのが精一杯だった。
アークはすぐには返事をしなかった。
水路の奥で、どこかの滴が落ちる音がする。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「……わかった」
その一言に、ノアは少しだけ救われる。
でも同時に、もっと苦しくもなる。
「でも」
アークが続けた。
「無理って言われると、余計気になる」
その本音が、ひどく痛かった。
そうだろうと思う。
自分だって逆の立場なら気になる。
むしろ、ここまで来て何も気にならないほうがおかしい。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「謝られるより」
アークは少しだけ言いよどむ。
「……いつかちゃんと聞けるって思いたい」
その言葉が、ノアの胸の奥に深く落ちた。
いつか。
ちゃんと。
聞ける。
逃げ道ではない。
でも、今すぐではないと認めてもくれている。
その距離感が、今のノアにはひどくやさしかった。
そのあと、二人は少しだけ無言で水路を進んだ。
空気は重いわけではない。
ただ、前よりずっと深いところへ足を踏み入れてしまった静けさだった。
次の大広間へ出たところで、共通通話にフレアの接続音が入る。
続いてセレスも、少し遅れてピピまで顔を出した。
『今どこ』
フレアが簡潔に聞く。
『幽玻の中央広間』
アークが答える。
『え、二人でそんな奥まで行ってたんですか!?』
ピピが騒ぐ。
『ノアさん、大丈夫ですか?』
セレスのやわらかい声。
そのにぎやかさに触れた瞬間、ノアはようやく浅く息を吐けた。
二人だけの空気が終わって、少しだけ現実へ戻れる。
『……大丈夫』
そう返しながらも、胸の内側ではまださっきの会話が鳴っている。
夜の君が、現実の君に似すぎてる。
たぶんアークは、まだそこまで明確な言葉にはしていない。
でも、違和感の輪郭はもうかなり濃い。
合流後の探索はいつも通りに進んだ。
フレアは冷静にルートを切り、セレスは静かに補助を重ね、ピピが騒ぎながら罠を踏みかける。アークも表面上はいつも通りだ。けれど、時々こちらへ向く視線だけが、以前よりずっと深かった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドの上に座り込んだまま動けなかった。
部屋は暗く、カーテン越しの街灯が床へ四角く落ちている。
現実の夜は静かで、VRの余韻を冷やすには十分すぎるほど冷たい。
「……似すぎてる」
自分の声が、小さく部屋に落ちる。
現実の朔も、
夜のアークも、
同じ人だから似ているのは当然だ。
でも問題はそこじゃない。
自分のほうが、もう二つの名前を分けたまま振る舞えなくなり始めていることだ。
呼び間違えた。
無意識に。
それはもう、誤魔化せるレベルの小さな綻びじゃない。
隠したい。
でも、いつかは気づいてほしい。
その矛盾を抱えたままここまで来たけれど、もう“いつか”は思ったより近い場所まで来ているのかもしれなかった。
澪は両手で顔を覆い、ゆっくり息を吐く。
夜の君が、現実の君に似すぎてる。
その苦しさは、たぶんもうずっと前からあった。
ただ、今夜ようやく、それを誤魔化せないところまで来ただけなのだ。




