第4章 第6話:それは誰にでもしない
その日の午後、空は朝からずっと薄く曇っていた。
昼休みを過ぎても陽は強くならず、教室の窓から入る光は白く平たい。黒板の文字も、机の木目も、いつもより少しだけ色を失って見えた。そんな曖昧な明るさの中で、澪は自分の席に座ったまま、何度も同じところをノートに書きかけては消していた。
由良の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
やさしい時間は、気づいたら一番深いこともある。
近づける時に近づかないと、届かなくなる。
その通りだと思う。
思うから苦しい。
前の席で朔が男子と話して笑っている声が聞こえる。
何でもない昼下がりの教室。
でも今の澪には、その“何でもない”の中にいちいち意味が生まれてしまう。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「また書いてない」
「……」
「三行目から進んでないじゃん」
ノートを覗き込まれて、澪は慌てて手で隠した。
「見ないで」
「見なくてもわかる」
夏希は頬杖をついたまま、少しだけ目を細める。
「今日もしんどそうだね」
「しんどいよ」
「誰のせい?」
その問いに、澪は少しだけ黙った。
誰のせい、ではない。
でも答えを絞るなら、たぶん全部、恋をしている自分のせいだ。
五限が終わり、短い休み時間に入った時だった。
教室の後ろ扉から、見慣れない男子生徒が顔を出す。別クラスらしい。
軽く辺りを見回したあと、まっすぐ澪の席のほうへ来た。
「朝倉さん?」
「え」
「二年の瀬戸っていいます」
澪は目を瞬いた。
顔はなんとなく見たことがある。たしか図書委員の仕事か何かで、一度だけ話したことがあった気もする。
「図書室の貸出ログの件で、ちょっと確認したいことあって」
「……あ、うん」
先週、交流デー準備の関係で図書室の端末を借りた記録のことだろう。
用件としては自然だった。
「今、大丈夫?」
「少しなら」
「ありがとう。廊下でいい?」
「うん」
立ち上がったところで、背中に視線を感じた。
振り向かなくてもわかる。
朔だ。
意識しすぎだと思いたいのに、最近はこういう小さな気配にまで敏くなっている自分がいる。
廊下へ出ると、瀬戸は本当に事務的な口調で要件を説明した。
貸出時間の記録が一箇所ずれていること、確認用に当日の時間帯だけ思い出せる範囲で教えてほしいこと。話自体は二、三分で終わる内容だったし、相手も特に妙な含みを持っているわけではない。
「助かりました」
瀬戸が小さく頭を下げる。
「いや、全然」
「また何かあったら連絡してもいいですか?」
「図書委員経由なら」
そう返すと、瀬戸は少し笑った。
「ちゃんとしてるんですね」
「そこは一応」
「わかりました」
そのやり取りを終えて教室へ戻ろうとした時、ちょうど扉の横に朔が立っていた。
待っていたわけではないのかもしれない。
でも、まるでタイミングを見計らっていたみたいな位置だった。
「終わった?」
何気ない声。
「うん」
「何の話」
「図書室の貸出ログの確認」
「へえ」
朔は短く返したが、その目は少しだけ探るようだった。
「……何」
澪が聞くと、朔は少し間を置いてから言った。
「いや、別に」
「別にって顔じゃない」
思わずそう返してしまう。
すると朔が一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「それ、そのまま返すのずるくない?」
「先に使ったのそっち」
「まあ、そうだけど」
笑ってはいる。
でも完全に普段通りではない。
そのことが、澪にもなんとなくわかった。
教室へ戻っても、朔の空気はほんの少しだけ違った。
男子に話しかけられれば普通に返すし、授業だってちゃんと受けている。けれど、澪が前のほうへ視線をやるたび、向こうもやけに高い頻度でこちらを見ている気がした。
六限が終わり、放課後のざわめきが広がる。
今日は委員会のプリント提出があって、澪は少しだけ帰り支度が遅くなった。夏希は先に部活の手伝いへ行ってしまい、教室にはもう残る人も少ない。
鞄へプリントをしまい終えたところで、机の横に影が落ちた。
見上げる。
やっぱり朔だった。
「澪」
「何」
「今、帰る?」
「帰るけど」
「じゃあ途中まで一緒でいい?」
その聞き方が、少しだけ変だった。
前ならもっと自然に「行こ」で済んだはずなのに、今日は確認するみたいに聞いてくる。
「……いいけど」
「そっか」
そこで少しだけ安心したように息を吐くのが見えて、澪の胸が小さく揺れた。
二人で昇降口を出る。
空は夕方の灰色を薄く残したまま、遠くのほうから夜へ沈みかけていた。風は冷たくはないが、湿り気を帯びていて、いつ雨が落ちてもおかしくない匂いがする。
最初のうちは、他愛ない話しかしなかった。
明日の小テストの範囲とか、委員会の提出物とか、交流デーのあとに先生がまた配信関係の作業を増やしそうだとか。
どれも会話としては普通だ。
でも、その普通さの下に何か別のものが潜っているのを、澪も感じていた。
住宅街へ入る手前の信号で、朔がふいに歩調を落とした。
「さっきの」
「え」
「廊下で話してたやつ」
やっぱりそこだ、と澪は思う。
「図書室の確認って言ったでしょ」
「うん」
「それだけ」
「それだけ?」
その聞き返しに、少しだけ棘があった。
澪は足を止めそうになるのをこらえる。
何だろう、この感じは。
怒っているわけではない。責めているわけでもない。
でも、いつもの何でもない確認より少しだけ熱がある。
「……それだけだよ」
「ふうん」
「何」
澪は少し低く聞いた。
「何かあるの」
朔はすぐには答えなかった。
信号が赤から青へ変わり、周囲の人たちが歩き出す。その流れの中で、二人だけ少し遅れて横断歩道を渡る。
「いや」
向こう側へ着いてから、朔がようやく口を開いた。
「知らないやつだったから」
「同学年じゃないけど、図書委員の」
「うん」
「それで?」
「……」
朔が少しだけ眉を寄せる。
考えているようで、でも自分でもうまく言葉にできていない顔だった。
「何か」
やっと出てきた声は低い。
「近くないほうがいいなって、ちょっと思った」
その一言で、澪の胸が強く打つ。
「え」
「いや、変な意味じゃなくて」
「変な意味にしか聞こえないけど」
「そうなんだけど」
朔は珍しく歯切れが悪い。
「何ていうか……別に話すなってわけじゃない」
「うん」
「でも、ああいうの」
そこで短く息を吐く。
「……あんまり、見たくないかも」
言い切った瞬間、自分でも驚いたのか、朔が少しだけ目を逸らした。
澪は立ち止まった。
心臓の音がうるさい。
耳の奥まで響いている。
あんまり見たくない。
それは何だろう。
保護者みたいな感情では、たぶんもう説明しきれない。
「朔」
「何」
「それ、誰にでもするの?」
自分でも驚くほど静かな声で聞いていた。
朔は少しだけ目を見開き、それから苦い顔をする。
「……たぶん、しない」
その返事があまりにまっすぐで、澪は一瞬だけ呼吸を忘れた。
「たぶん?」
「自分でも今、何でこう思ってるのか整理できてない」
朔は頭をかく。
「でも、嫌だったのはほんと」
嫌だった。
その二文字が、澪の胸の奥へまっすぐ落ちる。
うれしい。
そう思った瞬間、すぐに怖くなった。
こんなことでうれしいと思ってしまう自分が。
「……そっか」
やっとそれだけ返すと、朔は少しだけ澪の顔を見る。
「澪は」
「え」
「そういうの、平気なの」
「何が」
「俺が他のやつと話してても」
その問いに、澪はすぐには答えられなかった。
平気なわけがない。
凛花にも、由良にも、ひなにも、何度も揺さぶられてきた。
でも、それを全部正直に言えるほどまだ強くない。
「……平気じゃない時もある」
だから、半分だけ本音を出す。
それでも、自分にしてはかなり踏み込んでいた。
朔は目を細めた。
「そうなんだ」
「うん」
「……」
「何」
「いや」
少しだけ、息を吐く。
「それ聞いて、ちょっと安心した」
その言葉に、澪の胸の奥がじわりと熱を持つ。
安心した。
それはつまり、自分だけが妙な反応をしているわけではなかったと知って、救われたということだろうか。
「……それも、誰にでもしないでしょ」
気づけば、澪はそう言っていた。
朔が少しだけ笑う。
「しないかも」
「そう」
「でも澪も、今の言い方ずるい」
「何が」
「そんなの、余計気になるだろ」
その言い回しが、妙に近い。
近いのに、まだ名前のない距離だ。
家の方向が分かれる角まで来たところで、二人は自然に足を止めた。
空はもうほとんど夜で、家々の窓に灯りがともっている。遠くで犬の鳴く声がして、湿った風が制服の裾を揺らした。
「じゃあ」
朔が言う。
「また明日」
「……うん」
澪も頷く。
背を向けて歩き出してからも、胸の奥はずっと落ち着かなかった。
それは誰にでもしない。
朔はたぶん、今の自分の感情をまだうまく説明できていない。
でも、少なくとも“誰でも同じ”ではないと、自分で認め始めている。
そのことが、うれしい。
でも、うれしいだけでは済まないくらい、危うい。
家へ帰って玄関のドアを閉めたあと、澪はしばらくその場に立ち尽くしていた。
息が浅い。
頬が少し熱い。
「……ずるい」
小さく呟く。
誰に向けてか、自分でもわからない。
朔は無自覚だ。
でも、その無自覚のまま“嫌だった”と言う。
“あんまり見たくない”と言う。
“誰にでもはしない”と認める。
そんなの、希望を持ってしまうに決まっている。
でも同時に、夜になればまたノアがいる。
アークのほうでも、最近は似た温度の言葉が増えている。
現実と夜、どちらも近づいているのに、その二つはまだひとつに繋がらない。
それが、いちばん苦しい。
自室へ入り、フルダイブ装置を前にした澪は、ゆっくりと息を吐いた。
今日、現実の朔はたしかに揺れていた。
そして自分も、もうその揺れを“幼馴染の延長”だけでは受け取れないところまで来ている。
それは誰にでもしない。
だったら、私ももう、誰にでもしないような気持ちで向き合わなければいけないのだと思った。




