第4章 第5話:気づかないうちに深い場所
次の日の昼休み、教室の空気はいつも通りのはずなのに、澪には少しだけ息苦しく感じられた。
パンの袋を開ける音、端末を叩く音、誰かの笑い声。窓の外ではグラウンドから笛の音が聞こえている。何も特別ではない昼休みだ。けれど澪の胸の中には、昨日の放課後の空気がまだ残っていた。
――私はもう、隠さないって決めてる。
――好きなら、取りに行く。
凛花の言葉はまっすぐだった。
だから痛かった。
でも、その痛みの奥で、少しだけ羨ましいとも思ってしまった。
澪は弁当箱の蓋を閉じながら、何とはなしに教室の前方へ視線を向ける。
朔は窓際の席にいて、誰かと話しているわけでもなく、配信用の端末画面を流し見していた。
そこへ、由良が近づいた。
凛花みたいに大きな動きではない。
声を張るわけでも、わざと目立つような行動を取るわけでもない。ただ、手にしていた小さな資料束を机の端へ置いて、自然な顔で声をかける。
「神谷くん、これ確認お願いしてもいい?」
「ん?」
朔が顔を上げる。
「昨日の追加資料。先生が、配信班の子にも軽く見せといてって」
「ああ、了解」
「急ぎじゃないけど、今日のうちだと助かる」
「じゃあ今見る」
「ありがとう」
それだけだった。
たったそれだけなのに、二人の間に流れる空気は静かに近い。
由良は何かを奪いに行くような顔をしない。
ただ、相手が受け取りやすいかたちで、自分の必要を差し出す。
その“必要とされる近さ”が、たぶん一番深い。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「また顔」
「……そんなに出てる?」
「かなり」
夏希はパンを齧りながら、前方を一瞥する。
「白瀬、ほんと静かだよね」
「うん」
「でもあれ、静かだからこそ怖いやつ」
澪は何も言い返せなかった。
怖い。
その通りだと思う。
凛花みたいに“好きだから取りに行く”と言ってくれるなら、まだ構えられる。
ひなみたいに好意を明るく口にしてくれるなら、わかりやすい。
でも由良は違う。
相手を安心させるかたちで近づいて、気づいた時にはちゃんと深い場所にいる。
「神谷くん」
前方で、由良がまた小さく声をかける。
「これ、今週中に返したほうがいいと思う?」
「どれ」
朔が画面を寄せられて少し身をかがめる。
自然だ。
あまりにも自然で、こちらが口を挟む余地すらない。
視線を逸らそうとして、でも逸らせなかった。
由良の近づき方は、いつも正しい。
だからこそ、否定しようがない。
昼休みの終わり際、澪が空になった弁当箱を洗いに行こうと席を立つと、教室の後ろ扉で由良と鉢合わせた。
「あ、ごめん」
由良が少しだけ身体を引く。
「ううん」
澪も首を振る。
そのまま通り過ぎればいいのに、由良はふと足を止めた。
やわらかい目で、でもまっすぐこちらを見る。
「昨日」
「え」
「頑張ってたね」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
でもすぐに思い当たる。
昨日の放課後、凛花と朔の前で、自分から声をかけたことだ。
「……見てたの?」
「少し」
由良は微笑む。
「朝倉さん、前よりちゃんと行くようになったなって思って」
その言い方に、澪は少しだけ息を詰める。
責めているわけではない。
むしろ事実として認めている。
でも、そのやわらかさのせいで、余計に逃げ場がない。
「白瀬さんも」
澪は気づけば口を開いていた。
「……ちゃんと行ってるよね」
由良は一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「そう見える?」
「見える」
即答すると、由良は少しだけ視線を落とした。
「まあ、近づきたいから」
あまりにさらりと言われて、澪は言葉を失う。
近づきたいから。
それだけだ。
余計な装飾も照れもなく、事実みたいに口にする。
「……そういうの、普通に言えるのすごいね」
澪が言うと、由良は首を横に振った。
「すごくはないよ」
「でも私は、そういうのまだ」
「言えない?」
先回りするみたいに問われて、澪は小さく頷く。
由良はそこで、少しだけ真面目な顔になった。
「やさしい時間って」
静かな声だった。
「気づいたら、一番深いこともあると思う」
その言葉に、胸がひやりとする。
一番深い。
それは脅しでも自慢でもない。
ただ、由良自身がそう信じている声音だった。
「大きなこと言わなくても」
由良は続ける。
「毎日少しずつ話して、頼ったり頼られたりして、そういう時間のほうが、後でいちばん残る時あるよね」
澪の指先が少しだけ強張る。
知っている。
その怖さを、澪は知っている。
幼馴染の時間だって、本来はそういうもののはずだった。
大きな告白や劇的な出来事より、毎日の何でもない積み重ねが、いちばん人を縛る。
だからこそ、由良みたいな人は怖い。
「……やさしいくせに、そういうこと言うんだ」
澪が小さく言うと、由良は少しだけ困ったように笑った。
「意地悪かな」
「少し」
「でも本音だよ」
そのやわらかい言い方が、ひどく強い。
「朝倉さん」
由良は続ける。
「近づける時に近づかないと、届かなくなることってあるから」
またその言葉だ。
以前も似たようなことを言っていた。
そして今、前よりずっと重く聞こえる。
届かなくなる。
それは澪が一番恐れている未来だった。
「……わかってる」
やっとそう返すと、由良は少しだけ目を細める。
「うん。たぶん、わかってる顔してる」
「何それ」
「前より、ちゃんと焦ってる顔」
澪は思わず口を閉じた。
図星だ。
焦っている。
凛花にも、ひなにも、そして由良にも。
でもそれだけじゃない。
夜のノアとしてはかなり近い場所にいるのに、朝倉澪としてはまだ足りない自分自身にも焦っている。
「焦るの、悪いことじゃないと思う」
由良が静かに言う。
「動けるなら」
その一言が、またまっすぐ胸へ入る。
由良は最後までやわらかいままだ。
でも、逃げ道をくれない。
やさしく背中を押すふりをしながら、立ち止まることを許さない。
「白瀬さーん」
教室のほうからひなの声が飛んでくる。
「先生、追加の紙ほしいって!」
「今行く」
由良はそちらを振り向いてから、最後にもう一度だけ澪を見る。
「朝倉さん」
「何」
「負けたくないなら、ちゃんと行ったほうがいいよ」
それだけ言って、由良は軽く手を振って教室へ戻っていった。
ひとり廊下に残された澪は、しばらくその場から動けなかった。
負けたくないなら、ちゃんと行ったほうがいい。
凛花とは違う言い方だ。
でも、言っていることの芯は同じだった。
ただ、由良のほうがもっと静かで、もっと深い。
相手の心に入り込むことを知っている人の言葉だった。
午後の授業が終わる頃には、胸の内側にじわじわした落ち着かなさが広がっていた。
ノートを取る手は動く。先生の話も聞いている。けれど、意識のどこかでずっと由良の言葉が残っている。
やさしい時間って、気づいたら一番深いこともある。
近づける時に近づかないと、届かなくなる。
放課後、教室で帰り支度をしていると、朔が席を立つ気配がした。
何人かに呼ばれていて、端末の相談らしい。
その輪の中へ由良も静かに入っていく。
わざとらしくない。
助ける理由がある。
だから、そこにいることが何も不自然じゃない。
見ているだけで胸が痛くなるのに、それでも目を逸らせない。
たぶん、今までの自分ならここでただ苦しくなって終わっていた。
でも今日は少し違った。
苦しいのと同じくらい、自分も行かなきゃと思う気持ちが強い。
「……ほんと、強いな」
思わず呟くと、横で夏希が聞きとがめた。
「誰が」
「白瀬さん」
「わかる」
夏希は即答した。
「篠宮ほど派手じゃないのに、気づいたら一番近い位置にいそうな感じ」
「そう」
「怖い?」
「すごく」
「でも、だからこそ朝倉も動くしかないでしょ」
その通りだ。
認めたくないけれど、その通りすぎる。
家へ帰って制服を脱ぎ、端末の前に座っても、由良の言葉はまだ胸に残っていた。
ノアになれば少しだけ呼吸がしやすくなる。
でも今夜の澪は、それだけでは足りないと思っていた。
夜の中でアークに近づけることは、本物だ。
でも、現実で誰かが静かに深い場所へ入っていくのを見てしまうと、ノアだけで得ているものではもう守れない気がする。
「……待ってたら、届かなくなる」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
その言葉は、思っていたよりずっと現実的だった。
やさしい時間は深い。
それは幼馴染の自分が一番知っているはずなのに、今はそれを由良のほうが上手に使っている気がする。
だからこそ、怖い。
そして、怖いままではいられない。
澪はフルダイブ装置へ手を伸ばしながら、胸の奥の焦りを静かに抱きしめる。
気づかないうちに深い場所まで来られる前に、
自分もちゃんと、行かなければいけなかった。




