第4章 第4話:勝ちに来る人、守りに入れない私
その日の放課後、教室の空気は妙にざわついていた。
交流デーの余韻はもう薄れているはずなのに、学内配信の切り抜きが思った以上に広がったせいで、まだあちこちで話題に上がっている。机を引く音、笑い声、端末の通知音、そのどれもがいつも通りの放課後のはずなのに、澪には少し遠く響いた。
理由はわかっている。
昼休みに、ひなが「切り抜き確認を神谷先輩にお願いしたい」と笑っていた。
由良は相変わらず静かな距離の詰め方で朔のまわりにいる。
そして凛花は、何かを決めた人の顔をしていた。
嫌な予感がしていた。
そういう時の予感は、だいたい当たる。
「神谷くん」
案の定、教室の前方で凛花の声が響いた。
「今日、少し時間ある?」
澪の手が、鞄のファスナーにかけたまま止まる。
朔が顔を上げた。
「少しなら」
「よかった」
凛花はいつも通り、落ち着いた声で続ける。
「この前の配信コメントの追加確認、実際に見せながら話したいの。端末越しだと細かいニュアンス伝わりにくいし」
「今?」
「今」
凛花は迷わない。
「図書室前のラウンジ、空いてるから」
そのやり取りは自然だった。
不自然さは何もない。
学校の用事の延長として成立しているし、わざわざ断る理由もない。
だからこそ、強い。
「わかった」
朔が頷く。
「じゃあ、少しだけ」
「うん」
凛花が小さく笑う。
その瞬間、澪の胸の奥が静かに冷えた。
まただ。
また、こうやって何でもない顔で二人きりになる理由を作る。
しかも凛花は、その理由が相手にとって無理のないものになるように選んでいる。
「朝倉」
横から夏希が小さく呼ぶ。
「顔」
「……そんなに?」
「かなり」
夏希は頬杖をつきながら、前方の二人を見ている。
「篠宮、本気だね」
「知ってる」
「で?」
その一言に、澪は返事ができなかった。
どうする。
また見ているだけで終わるのか。
それとも。
教室の前方で、朔が端末を鞄へしまう。
凛花はもう立ち上がっている。
何もしなければ、そのまま二人は出ていく。
胸の奥で、何かが強く軋んだ。
嫌だ。
そう、はっきり思う。
正しい理由があることも、凛花が間違ったことをしていないこともわかっている。
それでも、嫌なものは嫌だった。
好きな人が、誰かと二人で行く。
それを見送るだけの自分に、もう戻りたくなかった。
「朔」
気づけば、声が出ていた。
教室の空気がほんの一瞬だけ止まる。
朔が振り向いた。
凛花も、夏希も、何人かのクラスメイトもこちらを見る。
澪は心臓がうるさくてたまらなかった。
でも、ここで引いたらまた同じだと思った。
「……その前に」
喉が少し詰まる。
「この前の進行表、確認したいとこある」
仕事の話だ。
完全な嘘ではない。
けれど、今このタイミングで言った時点で、それがただの仕事だけではないことくらい、自分でもわかっていた。
朔は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、迷うような短い沈黙。
その時間が、澪にはひどく長く感じられる。
「今?」
朔が聞く。
「うん」
澪は視線を逸らさないようにした。
「すぐ終わる」
凛花がそこで口を挟んだ。
「神谷くん、私は少しなら待てるよ」
声は穏やかだった。
でも、半歩も引いていない。
待てる。
つまり、澪が入ってきても、自分の予定は崩さないという宣言でもある。
強い。
やっぱり、こういうところが強い。
朔は澪と凛花を見て、それから少しだけ困ったように頭をかいた。
「じゃあ」
静かな声だった。
「澪のほう先聞く」
その一言で、胸の奥が大きく揺れた。
先に。
選ばれた、と思ってしまう。
そんな一言で浮かれるのは危ないとわかっているのに、それでも揺れてしまう。
「いいよ」
凛花はあっさり頷いた。
「私、逃げないから」
その言葉に、澪の背筋がひやりとする。
逃げない。
それは宣戦布告に近かった。
朔が澪の机のそばまで来る。
「何」
低い声で聞かれて、澪はようやく自分がかなり無理やり呼び止めたことを実感した。
「……進行表の」
口を開いた瞬間、言葉が少しだけ遅れる。
本当は、ただ行ってほしくなかっただけだ。
でも、そんなこと今ここで言えるわけがない。
「午後の接続班の流れ」
どうにか取り繕う。
「先生の説明と、配信席の順番が少しずれてた気がして」
「ああ」
朔はすぐに端末を開いた。
「どこ?」
その自然さに、澪はほんの少しだけ救われる。
雑に流さない。
ちゃんと、ここへ来た意味を作ってくれる。
進行表を二人で覗き込みながら、澪は心臓がうるさいのをどうにもできなかった。
近い。
でも今のこれは、自分で呼んだ距離だ。
「ここ」
澪が画面を指す。
「リアル誘導のあと、VR接続が詰まりすぎてる」
「ほんとだ」
朔が頷く。
「これ、先生に言うなら今のうちだな」
「うん」
「助かった」
その一言が、また胸に落ちる。
助かった。
最近、朔はそういうふうに澪へ言うことが増えた。
ただの幼馴染の延長では片づけきれないくらいには。
少しして、凛花がこちらへ歩いてきた。
まっすぐで、落ち着いていて、逃げる気のない足取りだった。
「終わった?」
その問いに、澪は顔を上げる。
「……今」
「そっか」
凛花は澪へ視線を向けたまま、小さく言う。
「ちゃんと来たね」
澪は一瞬、言葉を失った。
その言い方には皮肉もあった。
でもそれだけではなかった。
認めるような響きも、ほんの少しだけ混じっている。
「……来るよ」
気づけば、そう返していた。
「もう見てるだけじゃないから」
言った瞬間、胸が強く打つ。
はっきり言ってしまった。
凛花の前で。
しかも、自分でも驚くほどまっすぐに。
凛花の目がわずかに細くなる。
怒っているわけではない。
むしろ、少しだけ嬉しそうにも見えた。
「いいね」
静かな声だった。
「やっとその顔した」
「何それ」
「そのまま」
凛花は肩をすくめる。
「朝倉さん、ずっと守りに入ってたから」
澪の喉が少しだけ熱くなる。
守りに入っていた。
その通りだ。
取られたくないと思いながら、でも取りに行くことは怖くて、ずっと“幼馴染”の位置に隠れていた。
「私は」
凛花が続ける。
「もう隠さないって決めてる」
朔が小さく息を吐く気配がした。
でも何も言わない。
止めるでもなく、茶化すでもなく、ただその言葉を聞いている。
「好きなら、取りに行く」
凛花は澪から目をそらさない。
「そうしないと、結局何も残らないから」
その言葉が、夕方の教室の空気を静かに震わせた。
教室に残っていた何人かは、さすがに完全には意味をわかっていないだろう。
でも、少なくともこの三人には十分すぎるほどはっきりしていた。
凛花は本気だ。
もう冗談でも、軽い牽制でもない。
正面から、勝ちに来ている。
澪はゆっくり息を吸った。
怖い。
でも、ここでまた曖昧に笑って引いたら、たぶん一生後悔する。
「……私だって」
声が少し震える。
それでも止めない。
「もう、引くだけじゃない」
言い切った瞬間、自分の中で何かがひとつ決まった気がした。
凛花は数秒だけ澪を見て、それから小さく笑う。
「うん」
それだけだった。
でも、その一音には十分な意味があった。
勝負の相手として認める音。
逃げるだけだった子ではないと受け取る音。
朔が、そこでようやく少し困ったように言う。
「……何か、俺の前でそういう空気出すのやめない?」
その言い方に、少しだけ教室の空気がゆるむ。
ひどく困っているのに、完全には本気で嫌がっていない声だった。
「神谷くんが原因でしょ」
凛花が当然みたいに返す。
「いや、そうだけど」
「だったらちゃんと見てて」
その一言に、澪の胸がまたざわつく。
見ていてほしい。
それはきっと、澪の本音でもあった。
凛花はそこで会話を切り上げた。
「じゃあ、行こ。さっきの続き」
朔は一瞬だけ澪を見る。
「……大丈夫?」
小さな声だった。
その確認が、ひどくやさしい。
「大丈夫」
澪は頷く。
「こっちも終わったし」
「そっか」
朔はまだ少し気にしている顔をしながらも、最終的には凛花と一緒に教室を出ていった。
背中を見送りながら、澪は深く息を吐く。
苦しい。
でも、さっきまでの苦しさとは少し違う。
取られたくないのに何もできない苦しさではない。
ちゃんと自分も戦う側へ立った痛みだった。
「やるじゃん」
夏希がいつの間にか横へ来ていた。
「……死ぬほど緊張した」
「見ててわかった」
「ほんと無理かと思った」
「でも言った」
その一言に、澪は小さく目を伏せる。
言った。
ちゃんと。
しかも凛花に向かって、自分も引くだけじゃないと。
「朝倉」
夏希が少しだけ笑う。
「それ、かなり大きいよ」
「……うん」
「今日のは、仕事の確認とかじゃなくて、ちゃんと“取りに行った”やつだから」
そうかもしれない、と澪は思う。
完全にきれいな形ではなかった。
呼び止める理由も、半分は取り繕ったものだった。
でも、それでも自分から声を出した。
見ているだけの側ではなく、選ばれたい側として立った。
帰り道、夕方の空はすっかり夜へ近づいていた。
住宅街の向こうの空に薄い群青が溶けて、街灯の光が道へ落ちている。
凛花は勝ちに来る。
真正面から、迷いなく。
それは怖い。
でも、だからこそ今日ひとつだけはっきりした。
自分はもう守りに入っていられない。
幼馴染の立場を盾にして、曖昧な近さへ逃げ込んでいるだけでは、絶対に届かない。
家へ帰って部屋のドアを閉めたあと、澪はしばらくそのまま立ち尽くした。
胸の奥はまだうるさい。
でも、その音の中には前より少しだけ、覚悟みたいなものが混じっていた。
好きなら取りに行く。
凛花はそう言った。
悔しいけれど、その通りだと思う。
そして今の自分は、ようやくその入り口に立てたのかもしれなかった。




