第4章 第3話:幼馴染の相談じゃ足りない
翌日の放課後、教室の窓から差し込む光はやけにやわらかかった。
夕方特有の、全部を少しだけ静かに見せる色だ。
机の上に伸びた影も、黒板の端へ残るチョークの白も、帰り支度をする生徒たちの声も、どこか輪郭が丸い。いつも通りの放課後のはずなのに、澪の胸の中だけは少しも落ち着かなかった。
昨日の夜、アークは言った。
今、一番話しやすいのはノアかもしれないと。
そして今朝、朔は何でもない顔で「また連絡する」と言った。
現実でも夜でも、少しずつ距離は動いている。
それなのに、その二つの世界はまだちゃんと繋がらない。
鞄へ教科書をしまっていると、机の横に人影が落ちた。
顔を上げる。
朔だった。
「澪」
「……何」
「今日、少しだけ時間ある?」
その言い方が、前より少し慎重だった。
軽い調子で誘うのではなく、ちゃんと確認してくるような温度。たぶん、昨夜の会話がまだ二人のあいだに残っているせいだ。
「あるけど」
「じゃあ」
朔は少しだけ視線を逸らした。
「帰る前に、ちょっと相談いい?」
相談。
その言葉に、胸の奥が小さく鳴る。
嬉しい、と思った。
でも同時に、少し苦しくもなる。
ノアとしてなら、もう何度もそういう役目を引き受けてきたからだ。頼られること。最初に聞かれること。安心できる相手として見られること。
それを今、朝倉澪として向けられるのは嬉しい。
でも、夜のノアの位置と比べてしまう自分もいる。
「……うん」
それでも頷く。
「どこで?」
「昇降口の前だと人多いし」
朔は少しだけ考えてから言った。
「屋上前の階段、今あんまり人いないと思う」
「わかった」
教室を出ると、廊下は帰宅する生徒たちでまだ少しざわついていた。
部活へ向かう声、笑いながら階段を下りる足音、端末越しに誰かと話す小さな声。その中を並んで歩く。
以前なら何でもなかったはずの距離が、今は少しだけ意識へ引っかかる。
屋上前の階段踊り場は、予想通り静かだった。
使用禁止の屋上扉の前にある小さなスペースで、窓から入る西日が壁を淡く照らしている。階段を上り下りする生徒の気配もほとんどない。
朔はそこで立ち止まり、手すりへ軽く寄りかかった。
「ごめん、変に呼び止めて」
「別に」
「……その“別に”」
少しだけ笑う。
「最近、前より丸くなったな」
「何それ」
「前はもっと刺さってた」
「それは朔が変なこと言うから」
「今日はまだ何も言ってない」
その返しに、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
こういうやり取りができること自体、たぶん前より進んでいる。
でも、進んでいると思うほど、その先が怖くなる。
「で、相談って?」
澪が先に聞くと、朔は少しだけ真面目な顔になった。
「ああ」
短く息を吐く。
「交流デーのあとから、先生に配信関係の補助また頼まれてて」
「うん」
「別に嫌ではないんだけど」
「けど?」
「最近、ちょっと線引き難しいなって思って」
澪は瞬きをした。
「線引き?」
「うん」
朔は視線を窓の外へ向けたまま続ける。
「頼られるのはいいんだよ。むしろそういうの苦じゃないし」
「知ってる」
「でも、何でも受けると後でぐちゃぐちゃになる時あるだろ」
「それも知ってる」
「だよな」
少し苦笑する。
「で、どこまで引き受けるかとか、誰にどう返すかとか、そういうの」
その言い方に、澪の胸が少しだけざわつく。
誰にどう返すか。
それはきっと、仕事の話だけではない気がした。
交流デーをきっかけに、朔のまわりにはまたいろんな人が集まり始めている。凛花も、由良も、ひなも。好意の形は違っても、誰も以前より遠慮していない。
「それ、私に聞くんだ」
気づけば、そう言っていた。
朔がこちらを見る。
「聞くけど」
「何で」
「何でって」
少しだけ困ったように眉を寄せる。
「澪だから」
またその答えだ。
説明になっていない。
でも、説明になっていないからこそ、余計に心が揺れる。
「……それ、便利な言葉だよね」
澪は少しだけ目を伏せた。
「澪だから、って言えば何でも通るみたいな」
「通ると思ってない」
朔はすぐに言う。
「ただ、実際そうなんだよ」
「そうって?」
「相談するなら、まず澪が浮かぶ」
階段踊り場の空気が、ほんの少しだけ止まった気がした。
まず澪が浮かぶ。
夜には、アークがノアへ似たようなことを言う。
現実では、朔が澪へそれを言う。
同じ人なのに、向けられる名前が違うだけで、意味の重さまで少しずつ変わってくる。
「……それ、嬉しい」
澪は正直に言った。
「うん」
「でも」
「でも?」
「幼馴染だから、っていう理由で受け取るの、もうちょっと難しい」
言いながら、自分で少しだけ息を呑む。
かなり踏み込んだ。
でも、もうごまかすだけでは進めない。
朔はすぐには返事をしなかった。
ただ、ちゃんと聞いている顔をしていた。
「そっか」
やがて静かに言う。
「……それは、俺も思ってるかも」
その返答に、澪の心臓がひとつ強く打つ。
「え」
「いや、まだうまく言えないけど」
朔は少し視線を下げた。
「最近、澪に話す時、前と同じ感じではないっていうか」
声のトーンが、少しだけ低い。
「だから、変に雑にしたくない」
その一言が、澪の胸の奥へゆっくり落ちていく。
雑にしたくない。
それは、思っていた以上にうれしい言葉だった。
「……朔」
「ん?」
「それ、ずるい」
「何で」
「そんなの、期待するから」
言ってしまってから、澪は息を止めた。
自分でも、今のはかなり本音に近いとわかったからだ。
でも朔は笑わなかった。
からかいもしなかった。
少しだけ目を見開いて、それから、ほんの少し困ったように笑う。
「期待させるつもりで言ってるわけじゃない」
「わかってる」
「でも、じゃあ適当に流すのも違うだろ」
「……それもわかってる」
だから困るのだ。
ちゃんと受け取ってくれる。
ちゃんと考えてくれる。
だから、余計に本気になってしまう。
窓の外で、風に揺れた木の葉がかすかに音を立てる。
夕方の光が少しずつ薄くなって、階段の影を長くしていた。
「俺さ」
朔がまた口を開く。
「最近、澪に頼るの増えてる気はする」
「うん」
「前から頼ってはいたけど、何か……もうちょい個人的っていうか」
澪は黙って聞く。
「ちゃんと話したいって思う相手、になってる」
その言い方に、胸の奥がじわりと熱くなった。
ちゃんと話したい相手。
それはたぶん、今の自分がいちばんほしかった位置のひとつだ。
幼馴染として便利だからでも、
なんとなく付き合いが長いからでもなく、
ちゃんと話したいと思われる相手。
「……私も」
小さく呟く。
「え」
「私も、朔とはちゃんと話したい」
視線を上げる。
逃げたくない。
もう夜の名前だけに隠れていたくない。
「だから」
澪は続ける。
「幼馴染の相談、みたいな顔だけで来られると、少し困る」
朔は一瞬だけ黙った。
その沈黙に、澪の胸がまた不安で揺れる。
重かっただろうか。
面倒だっただろうか。
でも、言わないまま飲み込むのも違う。
「……ごめん」
朔が言う。
「たぶん、俺そこまだちゃんと整理できてない」
「うん」
「でも、澪がそう思うのはちゃんと覚えた」
その言葉に、澪は小さく息を吐いた。
覚える。
また、その言葉だ。
軽く流さないという意味だと、もうわかっている。
「……ありがと」
「うん」
短いやり取り。
でも、それだけで今は十分だった。
しばらくして、二人は一緒に階段を下りた。
行きのときより会話は少なかったけれど、気まずいわけではない。
むしろ今は、言葉を重ねすぎないほうが、互いにちゃんと受け止められる気がした。
昇降口で靴を履き替える前、朔がふと足を止める。
「澪」
「何」
「今日、聞いてよかった」
澪は顔を上げる。
「相談のこと?」
「うん」
朔は少しだけ笑った。
「ちゃんと返してくれるから」
胸の奥がまた熱を持つ。
それは、ノアとして何度も向けられた言葉に少し似ていた。
でも、今のこれは朝倉澪へ向けられている。
「……私も、話してよかった」
そう返すと、朔の表情が少しやわらぐ。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、また」
「また」
外へ出ると、夕方はもう夜へ近づいていた。
街灯が順に灯り始め、住宅街の輪郭が少しずつやわらかくほどけていく。
澪は帰り道を歩きながら、自分の胸へそっと手を当てる。
朔は今日、現実の自分へ相談を持ちかけた。
それはただの幼馴染の延長では、もう足りない場所にある相談だった。
そして自分も、それをただの幼馴染の顔では受け取れなかった。
夜のノアとしては、もうかなり深いところまで来ている。
でも、朝倉澪としても少しずつ同じ方向へ進み始めている。
その二つがまだきれいには重ならない。
けれど、片方だけが置いていかれるわけでもなくなり始めていた。
それがうれしい。
そして、そのぶんだけやっぱり怖かった。
家へ着き、自室でフルダイブ装置を前にした時、澪は小さく息を吐く。
今夜またノアになれば、アークはきっと近い。
でも今日の澪は、それだけで満たされるつもりはなかった。
現実の自分にも、少しずつ届き始めている。
その手応えを、もう無視したくなかった。




