第4章 第2話:夜のほうが、君に近い
その夜、ノアはログインした瞬間から、胸の奥にひどく静かなざわめきを抱えていた。
朝の通学路で交わした会話。
昼休みに朔が見せた、あの少しだけ踏み込んだ視線。
そして放課後、何でもないみたいに言われた「また連絡する」という一言。
どれも現実の朝倉澪へ向けられたものだった。
それは嬉しかった。確かに嬉しかったのに、その余熱を抱えたまま夜のアステリオへ立つと、今度は別の意味で息が浅くなる。
現実の朔に少し近づけた。
そのあとで、夜のアークに会う。
その順番が、最近の澪には少しずつ重くなっていた。
中央広場は深夜前らしいやわらかな光に包まれている。
白い塔の窓に灯る青い光。石畳を流れる淡い術式の線。噴水の水音に混じる遠い笑い声。何度見ても飽きない景色なのに、今夜はその全部がどこか遠く感じた。
『ノア』
個別回線が開く。
低い声が、直接胸の奥へ落ちてくる。
「……何」
『来た』
「来たけど」
『よかった』
短い。
でも、それだけで充分に近い。
「みんなは?」
『フレアは少し遅れる。ピピは今日はオフ。セレスはさっきまでいたけど、素材整理で一回抜けた』
つまり、今はまた二人だ。
ノアは小さく息を吐いた。
断りたくない。
でも、こうして二人きりになることに慣れきってしまうのも少し怖い。
『この前見切れなかった深層の脇道、行く?』
アークが聞く。
『敵は少ないけど視界悪いやつ』
「……行く」
『うん』
転送された先は、《宵闇樹海》の外縁部だった。
巨大な黒木が空を覆うように伸び、枝先には青白い苔光が細く灯っている。地面には濃い霧が流れ、根の合間を細い水路が走っていた。足場は不安定ではないが視界が悪く、距離感が狂いやすいエリアだ。
「ここ、前より暗い」
ノアが周囲を見渡しながら言う。
「深夜補正だな」
アークが答える。
「足元見えにくいから、離れるなよ」
その言い方に、ノアの指先がほんの少しだけ強張る。
離れるなよ。
気づかう言葉としては、ごく普通だ。
でも、その普通さが今夜のノアには妙に刺さる。
「……そんなに信用ない?」
「逆」
アークがすぐ返す。
「信用してるから言ってる」
ノアは返事に詰まった。
そういうのだ。
こういう言い方が、最近のアークは前よりずっと自然になっている。
信じている。頼っている。離れるな。いてくれて助かる。
どれも特別な告白じゃないのに、積み重なるとどうしようもなく温度を持つ。
二人で霧の中を進む。
木の根が複雑に絡み合う足場を抜け、青白い花の咲く湿地を回り込み、小型の影獣をいくつか片づける。戦闘は短く、ノアの拘束にアークが一拍もずれず応える形で進んだ。
「左、二段湧き」
「見えた」
「後ろ一体、回す」
「任せる」
短い。
短いのに、十分すぎる。
戦闘を終えたあと、アークが小さく息を吐く。
「やっぱ一番やりやすい」
「最近、そればっかり」
「最近ほんとそうだから」
「雑」
「雑じゃないって」
アークは少し笑ったあと、声の温度を落とした。
「ノアといると、無駄に構えなくていい」
またその言葉だった。
ノアは霧の向こうを見たまま、心臓がうるさくなるのを感じていた。
現実の朔も、少しずつ澪へ踏み込んでくる。
でも、こういう種類の言葉は今のところノアのほうが多い。
夜のほうが、君に近い。
その事実が、嬉しいのに苦しい。
「……それ、ずるい」
気づけば、口からこぼれていた。
アークが少しだけ首を傾げる。
「何が」
「そういう言い方」
「本当のこと言ってるだけなんだけど」
「だから困る」
「困るのか」
「困る」
言い切ると、アークは少しだけ黙った。
それから、低く笑う。
「でも、嫌ではない?」
ノアは答えない。
答えられないのではなく、答えたらその先が近くなりすぎる気がした。
樹海の奥へ進んだところで、根に囲まれた小さな空き地へ出た。
中央には倒れた黒木が横たわり、その幹の途中に青い結晶が埋まっている。敵影はなく、霧も少し薄い。ひと息入れるにはちょうどいい場所だった。
「少し休む?」
アークが聞く。
「うん」
二人は倒木の端へ腰を下ろした。
霧の向こうで、虫の羽音みたいな高い音がしている。
アステリオの夜景とも、現実の夜とも違う、この世界だけの静けさだった。
「ノア」
「何」
「この前から、ずっと聞こうと思ってた」
その前置きだけで、胸の奥がひとつ大きく鳴る。
「……何」
「最近、現実のほうはどうなの」
ノアは一瞬、呼吸を忘れた。
現実のほう。
それはあまりに真っ直ぐで、ずるい問いだった。
アークは知らない。
ノアが誰なのかも、どこにいるのかも、本当は何を抱えているのかも。
でも知らないまま、いちばん痛いところを掠めてくる。
「どうって」
「前に言ってただろ」
アークは樹海の暗がりを見るように視線を向けたまま言う。
「現実のほうが、こっちより話しにくい時があるって」
ノアはゆっくり息を吸う。
たしかに言った。
少し前の自分が、苦しくてこぼした言葉だ。
「……変わったところもある」
慎重にそう答える。
「ところも?」
「少しだけ、前より近くなった」
「へえ」
アークの声が静かにやわらぐ。
「よかったじゃん」
「……よかった、のかな」
「違うの?」
「嬉しいよ」
そこまでは本当だ。
「でも」
「でも?」
「近づいたぶん、余計に怖くなることもある」
アークはしばらく黙っていた。
否定も、軽い慰めも入れない。
ただ、ちゃんと聞いている沈黙だった。
「何が怖い」
やがて静かに聞く。
「壊れるのが?」
「それもある」
「それも、ってことは他にもあるんだ」
「……」
「ノア」
その呼び方がやさしい。
やさしいから、余計に危ない。
「近づくほど」
ノアは視線を落とした。
「欲しくなるから」
言ってから、自分で少しだけ息を呑む。
そこまで言うつもりはなかった。
でも、もう引っ込められない。
アークは何も言わない。
その沈黙の重さに、ノアはようやく自分が何を口にしたのかを実感する。
欲しくなる。
それはほとんど、恋の輪郭そのものだ。
「……そっか」
アークの返事は、思っていたよりずっと低く、やわらかかった。
「それ、かなり大事なやつだな」
「軽く言わないで」
「軽く言ってない」
即答だった。
「むしろ、今のノアがそういうこと言うの、ちゃんと覚える」
ノアは思わず笑いそうになって、それを堪える。
まただ。
覚える、なんて。
現実の朔も似たようなことを言ったばかりなのに。
「……本当に、そういうとこずるい」
「何回目だよ」
「何回でも言う」
アークが少し笑う。
それから、ふっと真面目な声に戻った。
「俺さ」
「うん」
「今、一番話しやすいのノアかもしれない」
その一言で、空気が変わる。
樹海の霧が少しだけ濃くなった気がした。
いや、実際には何も変わっていないのだろう。ただ、ノアの心臓だけが急にうるさくなった。
「……何それ」
「そのまま」
アークは視線を逸らさない。
「こっちで何かあると、最初にノアへ言いたくなる」
ノアは唇の内側を軽く噛む。
嬉しい。
どうしようもなく嬉しい。
でもその嬉しさが、現実の澪を置いていくようにも感じる。
「嬉しい」
小さく言う。
「うん」
「嬉しいけど」
その先の言葉は、喉の奥で少しだけ絡まる。
「……やっぱり、これじゃ足りない」
アークが目を細める。
「現実のほう?」
「……そう」
半分だけ正直に言う。
夜の中では、もうかなり近い。
アークはノアを特別な相手として扱い始めている。
でも、それは朝倉澪の恋が進んだことと、完全には同じじゃない。
「ノア」
アークが静かに呼ぶ。
「難しいことばっかり言うな」
「私だって好きで難しくしてるわけじゃない」
「知ってる」
短い返事。
でも、その“知ってる”が妙に深かった。
「でもさ」
アークは少しだけ考えてから続ける。
「足りないって思うなら、もう足りないとこまで来てるんだろ」
その言葉に、ノアは息を止める。
足りないとこまで来てる。
たしかにそうかもしれない。
夜の名前だけでは、もう自分を守れなくなっている。
守るどころか、逆に苦しめるくらいに。
「……うん」
今度は素直に頷いた。
共通通話へフレアの接続音が入ったのは、その少しあとだった。
続いてセレスも戻り、樹海の静けさはいつもの五人の温度へ少しずつほどけていく。
『合流できる?』
フレアが簡潔に聞く。
『できる』
アークが答える。
『今、外縁の休憩点』
『じゃあ行くわ』
『ノアさん、います?』
セレスのやわらかな声。
『……いる』
『よかった』
二人だけの空気はそこで一度終わった。
でも、ノアの胸の奥にはさっきの会話がしっかり残っている。
今、一番話しやすいのノアかもしれない。
嬉しいけれど、これじゃ足りない。
足りないと思うところまで来てしまった。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドへ腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。
部屋は静かで、カーテン越しの街灯だけがうすく光っている。
現実の夜は、VRの夜よりずっと冷たい。
でも今の澪には、その冷たさのほうがむしろ必要だった。
「……夜のほうが、近い」
ぽつりと呟く。
それは否定しようのない事実だった。
ノアとしてなら、朔はこんなにも近い。
本音も、弱さも、やわらかい温度も、夜の中では少しずつ自分へ向く。
でも、だからこそ苦しい。
朝倉澪としては、まだそこまで届いていないから。
嬉しい。
でも、足りない。
その矛盾を、今夜の澪はこれまででいちばんはっきり自覚していた。




