第4章 第1話:戻れない距離で、また朝が来る
翌朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥に静かな熱が残っていた。
昨夜、言った。
今まで通りでいたいわけじゃないと。
ちゃんと私として近づきたいと。
好きだとは、まだ言っていない。
でも、あそこまで本音に近い言葉を朔へ向けたのは初めてだった。言葉にしてしまった以上、もう前みたいに“何でもなかったふり”だけでは戻れない。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつも通り白くやわらかい。
机の上のスマート端末も、制服のリボンも、部屋の隅に置いたフルダイブ装置も、見慣れたままだ。
なのに澪の中だけが、昨夜までと少し違う。
鏡の前で髪を整えながら、自分の顔を見る。
緊張している。
でも、それだけじゃない。
少しだけ、怖さの種類が変わった気がしていた。
今までは、何かを言えば壊れるかもしれない怖さだった。
でも今は、言ってしまったあとでどう変わるのかがわからない怖さだ。
それでも、もう戻りたいとは思わなかった。
家を出ると、空気はまだ少し冷たい。
住宅街の道には朝特有の静けさがあって、遠くで車の走る音が低く流れている。曲がり角の向こうには、きっと今日も朔がいるのだろうとわかっているだけで、心臓が落ち着かなくなる。
角を曲がる。
やっぱり、いた。
朔は電柱のそばに立って、片手でスマート端末を見ていた。澪の気配に気づいたのか、少し遅れて顔を上げる。目が合った瞬間、向こうもほんのわずかに動きを止めた。
その一瞬で、昨日までとは違うのだとわかってしまう。
「……おはよう」
先に言ったのは澪だった。
声が少しだけ硬い。
「おはよ」
朔も返す。
いつも通りみたいな短い挨拶なのに、そのあとに落ちた沈黙は、前より少しだけ重かった。
並んで歩き出す。
昔から何度も繰り返した距離だ。歩幅は自然に合う。道のひび割れも、信号の切り替わるタイミングも、どちらが先にコンビニの前を避けるかも、身体が勝手に覚えている。
でも今は、身体が覚えている“自然”の上に、別の意識が一枚重なっていた。
「眠そう」
朔が言う。
「……あんまり寝れてない」
「俺も」
その返しに、澪は少しだけ目を上げた。
「朔も?」
「うん」
それだけ言って、少し間が空く。
続きがありそうで、でもどちらもすぐには言わない。
朝の風が、二人のあいだを細く抜けた。
「この前の」
やがて、朔が静かに口を開く。
その一言だけで、澪の胸が強く打つ。
「……うん」
「ちゃんと覚えてるから」
視線は前を向いたままだった。
でも、その言い方には軽さがなかった。
ちゃんと覚えてる。
昨夜も言われた。
けれど朝の光の中で改めて聞くと、その言葉は夜よりずっと現実味がある。
「……うん」
澪はどうにかそれだけ返す。
本当は、それだけで充分なくらい胸がいっぱいだった。
「だから」
朔が続ける。
「何もなかったことにはしない」
足元の感覚が、一瞬だけ曖昧になる。
何もなかったことにはしない。
その言葉は、澪にとって思った以上に救いだった。
昨夜の自分は、半分は賭けみたいなものだったからだ。踏み込みすぎたかもしれない、重かったかもしれない、困らせただけかもしれない。そういう不安が、ずっと胸のどこかに残っていた。
でも、朔はそれをちゃんと受け取っている。
軽く流さずに、持ったままでいる。
「……ありがと」
自然にこぼれた声は、少しかすれていた。
朔はそこでほんの少しだけ笑う。
「でも」
「え」
「どうしたらいいかは、まだ俺もわかってない」
その正直さが、ひどく朔らしかった。
格好いい答えを用意するわけでもなく、
曖昧な期待だけで引っぱるわけでもなく、
わからないものはわからないと、ちゃんと言う。
「私も、わかってない」
澪がそう返すと、朔は小さく頷いた。
「だよな」
「うん」
「でも、前よりはたぶん大事な話になった」
その一言が、また胸へ静かに沈む。
大事な話。
もう幼馴染のまま笑って受け流せる場所にはいない。
その実感が、怖いのに、どこかで嬉しい。
学校へ着くまでの道のりは、短いようで長かった。
どちらも完全に黙るわけではない。授業の話もしたし、交流デー後の提出物の話もした。けれど、会話の底にずっと別の温度が流れている。
近いのに、前より意識している。
ぎこちないのに、距離はむしろ遠くない。
そんな中途半端な場所に、今の二人はいるのだと思った。
教室へ入ると、夏希が露骨にこちらを見た。
澪が席へ座るなり、机の上へ体重を乗せるようにして小声で聞いてくる。
「で?」
「朝一で何」
「神谷」
簡潔すぎる一言に、澪は少しだけ息を吐いた。
「……昨日のこと、ちゃんと覚えてるって」
夏希の目がすっと細くなる。
「へえ」
「何もなかったことにはしないって」
そこまで言うと、夏希はわずかに息を止め、それからゆっくり吐いた。
「それ、かなり重いね」
「うん」
「神谷、ちゃんと受け取ってるじゃん」
「……そうみたい」
そう言いながらも、自分の口から出る言葉の現実味にまだ少しついていけない。
受け取られた。
なかったことにされなかった。
それだけで十分進んでいるはずなのに、そのぶんだけ次が怖くなる。
「朝倉」
夏希が少しだけ声をやわらげる。
「今もう、“前みたいに戻るかどうか”の段階じゃないよ」
「……」
「戻れないとこまで来てる」
その通りだと思った。
授業中、澪は何度も前方の朔を見そうになって、そのたびに視線を止めた。
見る理由はいくらでもある。板書の邪魔になるとか、先生の視線の先にいるとか、ただ何となくとか。
でも本当は、今朝の会話のあとで、朔がどんな顔をしているのか気になって仕方ないだけだった。
昼休み、澪が席で弁当を開いていると、ひなが元気な声を上げながら朔のところへ行った。
「神谷先輩、今日放課後ちょっとだけ手伝ってほしいんですけどー」
「何を」
「配信の切り抜き確認です! 先生に見せる前に、見といてほしくて」
「俺じゃなくてもよくない?」
「よくないです。だって先輩、こういうの見るの早いし」
ひなは相変わらず、明るく、まっすぐだ。
由良は少し離れた席で静かに資料を読んでいて、凛花は友人と話しながらも、時々こちらの空気を見ている。
ライバルたちは、今日もそこにいる。
でも、今朝の言葉を聞いたあとの澪は、少しだけ見え方が違っていた。
怖いことに変わりはない。
それでも、自分だけが何も持っていないわけではないのだと、ようやく思える。
午後、移動教室のために廊下へ出た時だった。
澪が教科書を抱えたまま人波に紛れて歩いていると、後ろから朔の声がした。
「澪」
反射みたいに振り返る。
「次、理科室だろ」
「うん」
「これ」
差し出されたのは、澪の机に置きっぱなしになっていたノートだった。
「あ」
朝、別のプリントに気を取られて忘れていたらしい。
「……ありがと」
「また忘れてる」
「一冊だけだし」
「一冊でも忘れ物は忘れ物」
呆れたみたいに言いながら、でもその表情はやわらかい。
そのやり取りを、たまたま近くにいたひなと由良が見ていた。
ひなはすぐに「あ、神谷先輩やさしー」と声を上げ、由良は小さく微笑んだだけだった。
けれど澪には、その由良の静かな視線のほうがむしろ気になった。
たぶん、見えているのだ。
朔が無意識のまま澪を気にしていることが。
澪自身が、その気遣いを以前よりずっと深く受け取っていることも。
放課後、朔はひなに頼まれていた切り抜き確認へ向かう前に、教室の後ろ扉で一度立ち止まった。
それから、少し迷うような間を置いてから澪へ声をかける。
「澪」
「何」
「今日、先帰る?」
「たぶん」
「そっか」
一瞬だけ、何か言いたげな沈黙があった。
でも結局、朔はそれ以上は続けなかった。
「じゃ、また連絡する」
「……うん」
短いやり取り。
それなのに、妙に胸へ残る。
連絡する。
その言葉ひとつで、今は少しだけ救われてしまう。
夜になり、ノアとしてログインすると、アークの第一声は予想通りだった。
『ノア』
『何』
『この前の件、ちょっとだけ続き話したい』
その声音に、澪の胸がまた静かに波立つ。
現実では朔が朝倉澪の言葉を覚えていて、
夜ではアークがノアとの会話の続きを求める。
どちらも同じ相手から向けられているのに、世界が違うだけで呼ばれる名前も、触れられる温度も少しずつ違う。
『……うん』
ノアが返すと、アークは少しだけ息を吐く。
『よかった』
そのたった一言の中にも、前より明確な特別が混じっている気がした。
嬉しい。
でも、このまま二つの名前を抱えたままでは、いつか本当に立ち行かなくなる。
そんな予感が、今夜はいっそう強かった。
気づかないまま、選び始めている。
朔はたぶん、まだ自分の選び方の意味を知らない。
でも、澪はもう気づいてしまっている。
だからこそ、次に進む時は、
もっとはっきりした何かが必要になるのだと、
夜の名前へ変わる直前の心で、静かに思っていた。




