第3章 第12話:幼馴染のまま、終わらせない
夕方の空は、青と群青のあいだで静かに揺れていた。
放課後の校舎は、昼間よりずっと音が少ない。部活へ向かう足音、遠くで閉まる扉の音、窓の隙間を抜ける風の気配。交流デーの余韻ももう薄れて、学校は少しずつ普段の顔へ戻り始めていた。
その静けさの中で、澪は教室の前で立ち止まっていた。
手には、提出し忘れていた振り返り用の追記メモ。
本当なら昼休みに出せたものだ。けれど書き直しているうちに時間がずれて、結局この時間になってしまった。
嘘だ、と自分では思う。
書き直していたのは半分本当で、半分はただ、朔と話す理由をどこかで探していた。
教室の中にはもうほとんど人がいなかった。
窓際に残る夕方の光の中で、朔がひとり、端末の画面を見ながら何かをまとめている。
まだ帰っていなかった。
それだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……朔」
名前を呼ぶと、向こうが顔を上げる。
「澪?」
少しだけ驚いたような声だった。
「どうした」
「これ」
澪は手元のメモを持ち上げる。
「先生に出しそびれたやつ。職員室もう閉まってるかなって思って」
「ああ」
朔は立ち上がって、机の横へ寄る。
「たぶんまだいると思うけど」
「そっか」
「一緒に行く?」
その問いかけがあまりにも自然で、澪は一瞬だけ息を止めた。
一緒に行く。
何でもない言葉だ。
でも今の澪には、何でもないまま受け取れない。
「……うん」
小さく頷くと、朔は端末を閉じた。
「じゃ、行こ」
そう言って歩き出す背中を、澪は少し遅れて追う。
廊下には夕方の光が長く伸びていた。
窓の外はすでに薄い群青で、校庭の向こうの街に明かりがつき始めている。二人分の足音だけが、静かな校舎に小さく響いた。
職員室へメモを提出してしまえば、本当ならそこで終わりだった。
でも、今日は終わりにしたくないと、澪は廊下を歩きながら思っていた。
第3章のここまでずっと、
逃げないようにしてきた。
現実でも少しずつ近づいた。
ノアとしてだけじゃなく、朝倉澪としても隣へ行こうとした。
その先で、ようやく見えてきたものがある。
幼馴染だから近いのではなく、
近くにいたいから、近づいているのだということ。
職員室の前でメモを提出し、廊下へ戻る。
もう目的は終わった。
でも、二人ともすぐには教室のほうへ戻らなかった。
階段横の踊り場にある大きな窓から、夕暮れの残りが差し込んでいる。
朔が何気なくそこへ寄りかかる。
「今日、珍しいな」
静かな声で言った。
「何が」
「澪のほうから来た」
その一言に、胸が少しだけ熱くなる。
「……来ちゃだめだった?」
気づけば、そんなふうに返していた。
朔が少しだけ目を丸くする。
「いや、だめじゃない」
「ならいい」
「でも、やっぱり珍しい」
そこで少しだけ笑う。
「最近の澪、前よりちゃんと来るよな」
その言い方が、何度目かわからないくらい、澪の心を揺らす。
来る。
そういうふうに見えている。
それだけで、今までの一歩一歩が無駄じゃなかったと思える。
「……頑張ってるから」
小さく呟くように言うと、朔が少しだけ表情をやわらげた。
「知ってる」
「知ってるんだ」
「何となく」
その何となくが、ひどく朔らしい。
ちゃんと見ているくせに、
でも決定的なことは言い切らない。
その不器用さも、やさしさも、結局ずっと好きだったのだと思う。
少しの沈黙が落ちる。
窓の外で風が木を揺らし、その影が廊下の床へ揺れていた。
「朔」
澪は呼ぶ。
「ん?」
「……私さ」
喉が少しだけ熱い。
心臓の音がうるさい。
でも、ここでまた黙ったら、たぶん何も変わらない。
「今まで通りでいたいわけじゃない」
言い切った瞬間、自分の中で何かが大きく揺れた。
朔が、ゆっくりこちらを見る。
「え」
「ごめん、変な言い方かもしれないけど」
澪は視線を逸らさないようにした。
「今まで通りでいられたら楽だとは思う」
「……」
「幼馴染のままで、何も変わらないふりして、そのまま隣にいられたら、たぶん一番安全」
言葉を重ねるたびに、胸の奥の痛みが少しずつ輪郭を持っていく。
そうだ。
安全なのは、ずっとそこだった。
でももう、そこだけでは足りない。
「でも」
澪は息を吸う。
「それだと、無理になってきた」
朔は何も言わない。
ただ、その沈黙の向こうで、ちゃんと聞いているのがわかる。
「無理って?」
低い声だった。
やさしくて、でも逃がさない。
「……近くにいるだけじゃ、足りないって思う時がある」
そこまで言ってしまうと、もう後戻りはできない気がした。
「前みたいに、ただ隣にいるだけで平気だった頃には戻れない」
朔の指先が、窓枠の端へ静かに触れる。
癖みたいな仕草だった。
それを見ていると、澪の胸がさらに痛くなる。
「それって」
朔がゆっくり口を開く。
「俺に関係ある?」
澪は少しだけ笑いそうになる。
その質問を何度もして、そのたびに自分は答えきれなかった。
でも今日は、少しだけ前に進みたい。
「関係あるよ」
小さく、でもはっきり言う。
その瞬間、朔の目がわずかに揺れた。
「……そっか」
短い返事。
でも、その声には今までよりずっと重みがあった。
ここまで言っても、まだ好きだとは言えていない。
でも、もう“何でもない”場所には戻れない言葉だ。
そう自分でもわかった。
「壊したいわけじゃないの」
澪は続ける。
「今の関係が嫌いなわけでもないし、なくなってほしいわけでもない」
「うん」
「でも、そのままでいいとも思えない」
それが今の自分のいちばん正直なところだった。
朔はしばらく黙って、それからゆっくり息を吐く。
「澪」
「何」
「それ、ちゃんと覚えとく」
その言葉に、澪の胸の奥がじわりと熱を持った。
ちゃんと覚えとく。
軽く流さないという意味だ。
何でもなかったことにはしないという意味だ。
それだけで、少しだけ救われる。
「……ありがと」
やっとそれだけ返すと、朔は少しだけ困ったように笑った。
「でも、正直びっくりした」
「うん」
「こんなふうに言われると思ってなかった」
「私も」
自分で言って、自分で少しおかしくなる。
「言えると思ってなかった」
「だよな」
朔も小さく笑う。
その笑いで少しだけ空気がゆるむ。
でも、ゆるんだからといって元通りではない。
たぶんもう、本当の意味での“いつも通り”には戻れない。
それでいいのだと思った。
いや、そうでなければ困るのだ。
「朔」
澪はもう一度だけ呼ぶ。
「ん?」
「……ちゃんと、私として近づきたい」
言った瞬間、喉の奥がひどく熱くなった。
私として。
ノアではなく、
夜の名前ではなく、
朝倉澪として。
その言葉は、今の自分に言えるほとんど限界の本音だった。
朔はしばらく何も言わなかった。
それが怖い。
でも逃げたくない。
やがて、朔はまっすぐこちらを見た。
「うん」
静かな声。
「それも、ちゃんと覚えとく」
澪は少しだけ目を伏せた。
泣きそうなわけじゃない。
でも、胸の奥がいっぱいだった。
そのあと、二人は並んで昇降口まで歩いた。
会話は多くなかった。むしろ、今はその少なさのほうがやさしかった。
余計な言葉を足さなくても、たぶん今日のやり取りは十分すぎるくらい重かったからだ。
外へ出ると、空はすっかり夜の色になっていた。
校門の向こうで街灯が点きはじめ、帰宅する生徒たちの影が細く伸びている。
「じゃあ、また明日」
朔が言う。
「……うん」
「気をつけて帰れよ」
「朔も」
短い会話。
でも、その中にもう前とは違う温度がある。
背を向けて歩き出してからも、澪の胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。
今まで通りでいたいわけじゃない。
ちゃんと私として近づきたい。
そこまで言えた。
好きとはまだ言っていない。
でも、もう隠れ場所だけに戻るつもりもない。
家へ帰って自室へ入り、制服のままベッドへ腰を下ろす。
スマート端末の画面は暗いままだ。
夜になればまたノアになれる。
でも今夜は、その前に確かめたいことがあった。
ノアは逃げ場所だった。
でも、もうそれだけじゃない。
夜の中で近づけたことも、交わした言葉も、全部本物だ。
ただ、それを夜だけに閉じ込めたままでは終わりたくない。
澪はゆっくり手を握りしめる。
幼馴染のままで終わらせない。
その決意だけは、もうはっきりしていた。
怖い。
壊れるかもしれない。
でも、何もしないまま失うよりはずっといい。
今度進む時は、ノアに隠れない。
朝倉澪として、ちゃんと。




