第3章 第11話:気づかないまま、選び始めている
交流デーが終わったあとの月曜日は、妙に静かな熱を教室の中へ残していた。
大きな行事が終わったあとの独特の空気だ。
普段通りの授業が始まっているのに、生徒たちの会話だけはまだ半歩ぶん非日常へ引っかかっている。週末に切り抜かれた学内配信の感想、当日のトラブルの裏話、誰がどこで目立っていたか。何気ない雑談の中に、交流デーの余韻がまだ細く混じっていた。
澪は席でノートを開きながら、落ち着かない胸の奥をそっと持て余していた。
交流デーの日、自分から隣へ行った。
朔を呼んだ。
仕事を理由にしたとしても、自分の意志でその位置を選んだ。
たったそれだけのことなのに、その記憶はまだ澪の中で小さな熱を保っている。
同時に、その熱に期待してしまう自分もいて、だからこそ余計に怖かった。
「朝倉」
横から夏希が小声で呼ぶ。
「今日もまた、顔に出てる」
「そんなに?」
「そんなに」
夏希は頬杖をついたまま、教室の前方へ視線を向ける。
「神谷見てたでしょ」
「……少し」
「少しじゃないやつ」
否定できなかった。
前方では、朔が男子二人と何か話している。
笑っていて、いつも通りで、でも澪から見るとその“いつも通り”の中に、以前より少しだけ目で追ってしまう理由が増えていた。
あの日、自分から行けた。
そして朔も、それをちゃんと受け取っていた。
その事実があるだけで、何でもない教室の距離さえ少し違って見えてしまう。
一限目と二限目の間の休み時間、担任が教室へ入ってきた。
「交流デー関連で少しだけ」
端末を片手にそう言う。
「運営補助に入ってくれた人、簡単な振り返りコメント出してもらうからな。今日の放課後までに提出」
教室の中に、軽いどよめきが走る。
「えー、またですか」
ひなが後ろのほうで声を上げる。
「感想書くの苦手なんですけど!」
「苦手でも出す」
先生が即答する。
「特に神谷、篠宮、白瀬、朝倉。このへんは先生からも追加で少し聞きたいことあるから、昼休みあたり職員室前まで」
名前が並ぶ。
凛花。
由良。
そして、自分。
澪は少しだけ肩を強張らせた。
すると、前方で朔がすぐに振り向いた。
目が合う。
その視線の意味を考える前に、先生はもう次の連絡へ移っていた。
休み時間が終わると、澪は何となく落ち着かなくなった。
昼休みに職員室前へ行く。
そこに朔も来る。
それだけで妙に意識してしまう自分がいる。
昼休み、夏希に「行ってきな」と背中を押されて教室を出ると、職員室前にはすでに何人か集まっていた。
凛花が壁際で待っていて、由良は先生に先に声をかけられている。ひなは「お腹すいたのにー」と小さく文句を言いながらもちゃんとそこにいた。
朔は、少し遅れてやってきた。
「ごめん、遅れた」
息を少しだけ切らしている。
「先生まだ?」
「今、白瀬さんのとこ」
凛花が答える。
「そっか」
そこへ、職員室の中から担任が顔を出した。
「ああ神谷、ちょうどいい。先にこの資料、視聴覚室へ持ってってくれないか」
「今ですか?」
「今。朝倉も一緒に行ってくれると助かる」
え、と澪は一瞬だけ息を止めた。
由良も凛花も、ひなもいる。
それなのに、先生は自分の名前を呼んだ。
偶然かもしれない。ただその場で目についた順番かもしれない。
でも、その次の瞬間、朔がほとんど迷わず言った。
「じゃあ、澪行こ」
その言い方があまりにも自然で、澪の胸は小さく強く跳ねた。
“じゃあ、澪”。
他の誰かではなく、
まず澪へ向けて、
当然みたいに。
「う、うん」
どうにか返すと、ひなが後ろで小さく「おお」と息を漏らしたのが聞こえた気がした。
凛花は何も言わなかった。
でも、その目がわずかに細くなったのを、澪は見逃さなかった。
資料はそこまで重くなかった。
それでも二人で持つにはちょうどいい厚みがあり、廊下を並んで歩く時間は思ったより長く感じられた。
「先生、普通に澪指名したな」
朔が言う。
「……たまたまでしょ」
「いや、たぶん普段からちゃんとしてるイメージあるからだろ」
「朔には言われたくない」
「何でだよ」
「忘れ物多いし」
「今日はその話じゃないだろ」
少し笑った声が、近い。
視聴覚室へ向かう途中、階段の踊り場で資料の束が少しだけずれた。
澪が持ち直そうとすると、朔がすぐに手を伸ばす。
「待って、そっち滑る」
「え」
「下、ずれてる」
朔はそのまま資料の端を押さえ、澪の手元を軽く整えた。
「これで大丈夫」
「……ありがと」
「今日、やけに礼多いな」
「言うでしょ、普通」
「いや、言うけど」
少しだけ楽しそうに笑う。
「でも何か、前よりちゃんと聞ける感じする」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
前よりちゃんと聞ける。
それはたぶん、前よりちゃんと自分から近づこうとしているからだ。
そう思うと、少しだけ報われる。
視聴覚室で資料を渡したあと、戻る帰り道で朔がふいに言った。
「澪」
「何」
「交流デーの日さ」
胸が少しだけ跳ねる。
「うん」
「こっち呼んだだろ」
「……呼んだ」
「俺、あれちょっと嬉しかった」
またその言葉だ。
嬉しかった。
朔は何気ない顔で言うくせに、その一言の重さを少しもわかっていない。
「……前にも言ってた」
「そうだっけ」
「言ってた」
「じゃあほんとにそうなんだろ」
軽く言う。
でも、その軽さの中に嘘がないことがわかるから困る。
教室へ戻る直前、向こうから由良が歩いてきた。
先生への確認を終えたのだろう、手元の端末を見ながら静かに近づいてくる。
そして、朔と澪が並んでいるのを見て、ほんの一瞬だけ足をゆるめた。
「二人で行ってたんだ」
由良はやわらかく言う。
「うん、先生に頼まれて」
朔が答える。
「そっか」
それだけの会話。
でも、由良の目は一瞬だけ、二人の間の空気を確かめるみたいに静かに揺れた。
澪はその視線に、ほんの少しだけ胸がざわつく。
由良はきっと、こういう小さな選び方を見逃さない。
午後の授業が終わって放課後になると、先生が提出されたコメントを確認しながら、数人へ追加の質問を投げていた。
澪も呼ばれるかと思っていたが、その前に端末の不具合がひとつ起きて、教室の一角が少しだけ慌ただしくなる。
「これ、接続ログ飛んでる?」
ひなが慌てた声を出す。
「さっきまで見えてたのに」
「どれ」
朔がすぐ反応した。
ひなも、凛花も、由良も、その近くにいた。
誰が行ってもおかしくない距離だ。
でも、次の瞬間、朔が視線だけでこちらを探したのがわかった。
「澪、見る?」
自然な声だった。
自然すぎて、教室の空気が一瞬だけ薄く止まった気がした。
とりあえず澪に聞く。
今日二度目だった。
「……見る」
澪は席を立つ。
その時、視界の端で凛花が小さく息を吐いたように見えた。
由良は静かなまま、でも確かに何かを考える目をしていた。
ひなだけは、なぜか少しだけ楽しそうにしている。
端末を覗き込みながら、澪は自分の胸がうるさいのを止められなかった。
朔はたぶん無意識だ。
深い意味はないのかもしれない。
でも、“誰に頼むか”“最初に誰を見るか”という小さな選び方の中に、その人の本音は少しずつ滲む。
そして今日、朔は何度も澪を選んだ。
作業を終えたあと、ひなが案の定という顔でにやにやしながら寄ってくる。
「神谷先輩、ほんと朝倉先輩すぐ呼びますね」
「そうか?」
朔は不思議そうに聞き返す。
「そうですよー」
ひなは遠慮がない。
「困ったら朝倉先輩、みたいになってますもん」
「いや、たまたま近かっただけだろ」
「今、白瀬先輩のほうが近かったです」
教室の空気が、ほんの少しだけ固まる。
由良は微笑んだまま何も言わない。
凛花は腕を組んで、あえて口を挟まない。
その沈黙の中で、朔は少しだけ困ったように頭をかいた。
「……じゃあ、たまたまじゃないのかも」
冗談めかして言ったその一言に、澪の胸がひどく揺れた。
じゃあ、たまたまじゃないのかも。
それは本気の告白でも何でもない。
ただの軽い返しだ。
でも、軽く流すには今の澪には重すぎた。
帰り道、夏希が当然のように並んできた。
「見た?」
開口一番だった。
「……何を」
「神谷の無意識」
澪はすぐには返せなかった。
「無意識、なんだと思う」
「だと思うよ」
夏希は肩をすくめる。
「自覚あったら、もっと変な空気になるでしょ」
「それはそうかも」
「でも、今日あれだけ朝倉優先してるの見せられたら、さすがに他の子も思うとこあるでしょ」
その言葉に、昼の由良の視線や、放課後の凛花の沈黙が蘇る。
気づいているのだ。
きっと、みんな。
朔が無意識のまま、少しずつ澪を選び始めていることに。
「……期待しそうになる」
澪は小さく呟く。
「するでしょ、そりゃ」
「でも怖い」
「それもするでしょ」
夏希の声は淡々としていた。
「恋愛ってたぶん、その二つセットだし」
夜になってノアとしてログインすると、アークの第一声はやはりいつも通りだった。
『ノア』
『何』
『ちょっと相談』
その呼び方に、澪の胸がまた静かに波打つ。
現実では朔が朝倉澪を選び、
夜ではアークがノアを選ぶ。
その二つが同じ人から向けられていることを、澪だけが知っている。
その事実が、甘くて、苦しくて、どうしようもなく危うい。
『今日は早いね』
ノアが言うと、アークが少しだけ笑う。
『最初にノアへ聞こうと思ってたから』
その言い方さえ、もう現実と夜で重なり始めている。
嬉しい。
でも、このままではいけない。
そう思いながらも、澪はその小さな選ばれ方のひとつひとつを、どうしても大事に抱えてしまうのだった。




