第3章 第10話:並ぶ資格
交流デー当日の朝、校内はいつもより少しだけ浮き足立っていた。
昇降口の掲示板には進行表が貼られ、廊下には仮設の案内表示が並び、教室のあちこちで役割確認の声が飛んでいる。リアル交流とVR合同コンテンツを合わせた半日行事なんて、普段の学校生活からすれば少しだけ非日常だ。
澪は自分の名札代わりのスタッフパスを制服の胸へつけながら、小さく息を吐いた。
緊張している。
運営補助に入ること自体もそうだが、それ以上に、今日は朔と同じ側の人間として同じ空間を動く時間が長い。その事実が、胸の奥を妙に落ち着かなくさせていた。
「朝倉」
後ろから夏希に呼ばれる。
「顔、また固い」
「そんなに?」
「そんなに。でも今日は逃げないんでしょ」
澪はパスの端を指でなぞりながら頷いた。
「……逃げない」
「よろしい」
夏希は満足そうに笑う。
「今日は“幼馴染だから近くにいる”じゃなくて、“自分の意思で隣に行く”日ね」
その言い方に、澪の胸が小さく跳ねる。
自分の意思で隣に行く。
簡単な言葉なのに、今の澪にはそれがひどく重かった。
でも、まさにその通りでもある。
教室を出て、交流デーの運営本部代わりに使われる視聴覚室へ向かうと、もう何人か集まっていた。
由良が机の上に資料を並べていて、ひなは端末を片手に動線確認をしている。凛花は教師と短く何かを話しながら進行表を見ていた。
そして、その少し奥に朔がいる。
コード類をまとめ直しながら、先生に呼ばれれば返事をして、誰かが困っていれば自然にそちらへ向く。やっぱり、こういう場にいるとよく似合うと思う。
好きだ、と改めて思ってしまう。
「朝倉さん、おはよう」
由良が最初に気づいて、やわらかく声をかけてきた。
「おはよう」
澪も返す。
「こっちの補助表、一緒に確認してもらっていい?」
「うん」
そう答えながらも、視線の端では朔のほうを意識してしまう。
すると、ちょうど向こうもこちらへ気づいた。
「澪」
名前を呼ばれる。
その一音だけで、やっぱり胸は少しうるさくなる。
「おはよう」
澪はどうにか平静を装って返す。
「おはよ」
朔は自然に近づいてきた。
「パス、落ちそう」
「え」
言われて胸元を見ると、スタッフパスの留め具が少し緩んでいる。
「ほんとだ」
「貸して」
朔が手を伸ばす。
一瞬だけ、迷った。
でも逃げないと決めたのは自分だ。
澪は小さく頷いて、そのまま少しだけ近づく。
朔の指先が、パスの留め具を直す。
触れたわけではない。でも、近い。制服越しに相手の体温がわかってしまいそうな距離だった。
「これで大丈夫」
朔が言う。
「……ありがと」
「今日は動くんだから、落とすなよ」
「子どもじゃないんだけど」
「でも朝倉、たまにそういうとこ危ないし」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
前なら、それで終わっていた。
でも今日は違う。
ただ直してもらって終わりにしたくない、と澪は思った。
「朔」
「ん?」
「今日、どこ担当?」
「午前は配信補助とリアル側誘導の間。午後はVR接続班」
「……忙しいね」
「そっちは?」
「受付と進行補助」
「じゃあ結構近いな」
その一言に、胸の奥が小さく熱を持つ。
近い。
物理的な距離の話だ。
それだけなのに、今の澪には十分すぎる。
朝の全体確認が始まり、各班は持ち場へ散っていった。
前半の受付は思っていた以上に慌ただしい。参加確認、端末貸与の案内、校内動線の説明、VRセッション時間のチェック。やることは多いのに、次から次へと人が来るから考え込む暇がない。
それはありがたかった。
朔のことばかり考えていると、たぶんろくに動けなくなるからだ。
それでも、視界の端で向こうの動きを追ってしまうのは止められない。
少し離れた場所で、朔はひなに何か説明していた。ひなは相変わらず身振りが大きく、わかりました! と元気よく頷いている。その横では凛花が先生と短く進行確認を交わし、由良は静かに資料束を持って別室へ向かっていた。
みんな、それぞれのやり方で朔の近くにいる。
その現実を、今日は嫌というほど見せつけられる。
受付が一段落した頃、ひなが大きく手を振りながらこちらへ来た。
「朝倉先輩ー!」
「どうしたの」
「神谷先輩が、こっちの接続確認一人足りないって言ってました」
「え」
「多分、機材運ぶ人が足りないみたいで」
その言葉に、澪の視線は自然と朔のいるほうへ向いた。
向こうでも、ちょうどこちらを見ていたらしい。
目が合う。
朔が小さく手を上げる。
「澪、今ちょっと手空く?」
呼ばれる。
その声だけで、胸が少し跳ねる。
「……空く」
そう答えると、ひながなぜかにこにことした。
「じゃあよかったです!」
ひなはそのまま軽い足取りで別の仕事へ戻っていく。
澪は資料を整理していた由良へ一声かけてから、朔のところへ向かった。
配信機材の仮設スペースには、ケーブルや小型端末が並んでいる。
朔はそのひとつを持ち上げながら言った。
「これ、向こうのVR接続席まで運びたいんだけど、一人だとちょっと面倒で」
「先生とか他の人じゃなくてよかったの?」
「よかった、って?」
「いや」
澪は少しだけ視線を逸らす。
「他にも手空いてる人、いそうだったし」
朔は一瞬だけきょとんとして、それから少し笑った。
「とりあえず澪に聞こうと思った」
その一言が、また胸へ落ちる。
とりあえず澪に。
何でもない言い方だ。
でも、何でもないまま受け流すには今の澪には強すぎる。
「……そっか」
それだけ返して、機材の片側を持つ。
二人で並んで歩く。
重さ自体は大したことがないのに、持ち手越しに同じタイミングで歩幅を合わせるだけで、妙に意識してしまう。
「こっち」
朔が先導する。
「段差あるから気をつけて」
「うん」
そう答えながら、澪はふと気づいた。
幼馴染だからではない。
今、自分はこの距離を“選んでいる”。
重たい機材を運ぶだけの、なんでもない作業。
でも、そのなんでもなさの中で、ちゃんと隣にいることを選んでいる。
接続席へ機材を置くと、朔が軽く肩を回した。
「助かった」
「大げさ」
「いや、ほんとに」
少しだけ笑う。
「澪、こういう時頼りになるし」
その言葉が嬉しい。
けれど今日は、それだけで終わらせたくなかった。
「朔」
「ん?」
「私、今日は」
喉が少し乾く。
でも逃げない。
「ちゃんと役に立つって言ったから」
朔が少しだけ目を見開いた。
それから、ああ、と納得したように笑う。
「昨日のメッセージ?」
「……覚えてるんだ」
「そりゃ覚えてる」
当然みたいに言う。
「嬉しかったし」
またそれだ、と思う。
でも今日は、そのたびに怯えるだけでは終わりたくない。
「だから」
澪は一歩だけ踏み込む。
「今日は、ただいるだけじゃなくて、ちゃんと隣で動く」
言った瞬間、自分で驚く。
かなり踏み込んだ。
でも、言葉にしてしまった以上、もう引けない。
朔はほんの少しだけ黙った。
その沈黙が長く感じる。
「……今日の澪、なんか違うな」
やがて、静かにそう言う。
「違う?」
「うん」
朔は少しだけ目を細めた。
「前より、ちゃんと来る感じ」
その表現に、澪の胸が小さく熱くなる。
ちゃんと来る。
それはきっと、今の自分がいちばん欲しかった言い方のひとつだった。
午後に向かうにつれて、イベントはさらに忙しくなった。
リアル側の誘導、VR接続のトラブル対応、進行確認。ひなは相変わらず元気に走り回り、由良は静かに穴を埋め、凛花は教師側との連携を迷いなくこなしている。
そしてその中で、澪も今日は意識して朔の近くへ行った。
必要な確認を取りに行く。
資料を受け渡す。
接続チェックを一緒に見る。
全部、仕事の範囲内だ。
でも、その範囲内で“自分から行く”ことに意味があるのだと、今日ははっきりわかる。
休憩時間の少し前、配信席の後ろで朔が水を飲んでいた。
その時、凛花が近づいてくる。
「神谷くん、次の進行表これ」
「ありがと」
「あと、先生が終了後の講評まとめ、二人に任せたいって」
「二人?」
「私と神谷くん」
自然な言い方だった。
やっぱり凛花は強い。
そのやり取りを見た瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
でも今日は、そこで止まらなかった。
「朔」
気づけば、澪のほうから声をかけていた。
二人が同時にこちらを見る。
「次の接続確認、こっちの端末も見てほしい」
仕事の話だ。
でも、自分から呼んだ。
それだけで十分に意味がある。
「今?」
朔が聞く。
「うん。変なラグ出てる」
「了解」
朔は迷わずこちらへ来る。
凛花は一瞬だけその流れを見て、何も言わずに半歩引いた。
その一瞬で、澪の胸の奥に小さな熱が灯る。
幼馴染だから呼んだのではない。
好きだから、隣にいてほしくて、でもちゃんと理由を持って呼んだ。
それはたぶん、今の澪にできる精一杯の“取りに行く”だった。
端末を一緒に覗き込みながら、朔が言う。
「これ、接続先の同期ズレだな」
「直せる?」
「たぶん」
少し近い距離で、同じ画面を見る。
その何でもない時間が、やけに大事に思える。
「……ありがと」
小さく言うと、朔が横目でこちらを見る。
「今日はよく礼言うな」
「そう?」
「うん」
少しだけ笑う。
「でも、何かいい」
その言葉が、静かに胸を打った。
イベント終了後、教室へ戻る途中で、夏希がすぐに寄ってきた。
「見てた」
開口一番だった。
「何を」
「今日の朝倉」
夏希はにやりとする。
「ちゃんと隣取ってたじゃん」
その一言に、澪は少しだけ目を伏せる。
「……取れてたかな」
「取ってたよ」
夏希は断言した。
「幼馴染だからじゃなくて、自分から行ってた」
その言葉に、今日一日の緊張が少しだけほどける。
そうだ。
まだ全然足りない。
告白もできていないし、特別の意味だって何も決まっていない。
それでも今日は、現実で一歩、ちゃんと“好きだから隣にいたい”側へ寄れた。
帰り道、夕方の空は薄い群青へ変わり始めていた。
風はやわらかく、校門の向こうに街の灯りが少しずつ見え始めている。
幼馴染だからではなく、
好きだから隣にいたい。
その意識を、今日ようやく行動へ変えられた気がした。
並ぶ資格なんて、たぶん最初から誰かに与えられるものじゃない。
自分で、少しずつ取りに行くものだ。
そう思えたことが、今日いちばん大きな変化だった。




