第3章 第9話:名前を重ねないで
翌朝、澪は目を開けた瞬間から、胸の奥にうすい緊張を抱えていた。
昨夜の《鏡砂峡谷》での会話が、まだ頭から離れない。
――別の誰か思い出しそうになる。
――今の、誰に向けて言った?
あれは、ただの違和感だ。
確信ではない。
そう思いたいのに、アークの目が一瞬だけ鋭くなったことを、どうしても忘れられなかった。
洗面台の鏡に映る自分は、いつも通りに見える。
制服の襟を整えて、髪を耳へかけて、深く息を吐く。
朝倉澪として学校へ行く。
それだけのことなのに、今日はその“朝倉澪”という名前そのものが少し危うく感じた。
通学路の角で、朔と合流した。
「おはよ」
いつも通りの声。
「……おはよう」
澪も返す。
並んで歩き出す。
でも今日は、少しだけ会話の入り方がぎこちなかった。
昨日までの小さな前進が消えたわけじゃない。ただ、澪の中に別の緊張が増えているせいで、呼吸のタイミングがほんの少しずつずれている。
「眠そう」
朔が言う。
「ちょっと」
「昨日遅かった?」
心臓がひとつ跳ねる。
「……まあ」
「VR?」
さらりと聞かれて、澪は思わず視線を前へ固定した。
「うん」
「そっか」
それだけのやり取りなのに、妙に喉が乾く。
現実の朔と、夜のアーク。
同じ相手から別々の名前で問いかけられている感覚が、最近の澪にはひどく重かった。
教室へ着いても、落ち着かなかった。
午前中の授業はちゃんと受けている。ノートも取れている。けれど、意識の一部がずっと昨夜へ引っ張られている。
アークは、どこまで気づいているのだろう。
ただ似ていると思っただけか。
それとも、もう少し先まで触れかけているのか。
昼休み、澪は廊下の窓際で一人になっていた。
教室の中にいると落ち着かなくて、弁当を食べ終えてから逃げるように出てきたのだ。春の終わりの風が廊下を細く抜けて、窓枠を軽く鳴らしている。
「澪」
背後から名前を呼ばれて、肩が揺れる。
振り向くと、朔が立っていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥がひやりとする。
昨夜のアークと、今ここにいる朔が、ほんの一瞬だけ重なって見えた。
「……何」
「昼、ここにいたんだ」
「ちょっと静かなとこ行きたくて」
「そっか」
朔は無理に距離を詰めず、少しだけ離れた場所で窓枠へ寄りかかった。
その立ち方まで、なぜか昨夜と似て見えてしまう。
「交流デーの件さ」
朔が話を切り出す。
「先生が、班分け今日のうちに大枠だけ決めたいって」
「うん」
「澪、運営補助のほうでいいんだよな」
「たぶん」
「たぶんって」
少し笑う。
「いや、やるけど」
「ならいいけど」
ここまでは普通だった。
どこにでもある会話。幼馴染同士でも、クラスメイト同士でも成立する、何でもない昼休みの相談。
なのに次の一言が、澪の呼吸を止めた。
「最近さ」
朔がふいに言う。
「たまに、ノアっぽい時あるよな」
空気が一瞬で変わった気がした。
風の音だけが急に遠くなる。
廊下の向こうの話し声も、窓の外のグラウンドの音も、全部が薄く引いていく。
「……何、それ」
澪はどうにかそう返す。
「いや」
朔は首をひねる。
「変な意味じゃなくて」
「変な意味にしか聞こえないけど」
「ごめん。俺も何て言えばいいかわかんない」
朔は少し困ったように眉を寄せた。
「でも、たまにあるんだよ。言い方とか、返し方とか」
澪の手のひらにじわりと汗が滲む。
やめて。
その先は、今はまだ言わないでほしい。
「この前も」
朔が続ける。
「『別に』って返した時とか――」
「やめて」
思わず、声が少し強く出た。
朔が目を見開く。
澪自身も、自分の反応に息を呑む。
「澪」
「ごめん」
先に口を開いたのは澪だった。
「……その話、今やめて」
「いや、責めてるわけじゃなくて」
「わかってる」
わかっている。
朔は疑っているわけじゃない。ただ、引っかかった違和感をそのまま言葉にしただけだ。
でも、だからこそ余計に怖い。
悪意がないまま近づかれるほうが、逃げにくい。
「何かまずいこと言った?」
朔が低く聞く。
「そういうんじゃ」
否定したいのに、うまく言葉が出てこない。
違う。
まずいのは言葉じゃない。
ノアとして近づきすぎた自分だ。
夜の中で積み重ねたものが、現実へ滲み始めていることだ。
「……今は、重ねないで」
やっと出た言葉は、それだった。
「え」
「私とノア」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「そういうふうに、並べて見ないで」
言い切った瞬間、胸がひどく痛んだ。
隠したい。
でもどこかで、気づいてほしい。
その矛盾を抱えているくせに、いざ触れられると怖くて仕方ない。
朔はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、さらに澪を追い詰める。
「……ごめん」
やがて、朔が静かに言う。
「そんなつもりじゃなかった」
「うん」
「ただ、何か引っかかって」
「うん」
「でも、嫌ならもう言わない」
その言い方がやさしすぎて、今度は別の意味で苦しくなる。
嫌だからやめてほしいわけじゃない。
本当は違う。
でも、その違うの正体を自分で説明できない以上、今はもう黙るしかない。
「ありがと」
澪はそれだけ言う。
朔は少しだけ納得していない顔をしたまま、それでも引いた。
「交流デーの班分け、あとでまた確認する」
「……うん」
「無理そうなら言えよ」
「大丈夫」
「その大丈夫、最近ちょっと信用ならない」
そう言って苦笑する顔に、また少しだけ胸が痛む。
その言い回しも、似ている。
夜のアークと、現実の朔が。
昼休みが終わったあとも、澪の心はずっとざわついていた。
授業中、何度もさっきの会話を思い返してしまう。
たまに、ノアっぽい時あるよな。
私とノア、そういうふうに並べて見ないで。
あれは拒絶だろうか。
それとも、ただの先延ばしだろうか。
自分でもわからない。
放課後、夏希に「今日の顔やばい」と言われて、澪はようやく少しだけ口を開いた。
教室の隅で、帰り支度をしながら小さな声で事情を話すと、夏希は目を細めた。
「神谷、そこまで来たんだ」
「確信じゃないと思う」
「でも違和感は持ってる」
「……うん」
「で、朝倉は止めた」
「止めた」
夏希は深く息を吐く。
「そりゃ怖いよね」
「怖い」
澪は即答した。
「知られるのも怖いし、でも知られないままなのも苦しい」
「最悪の二択だ」
「ほんとに」
夏希は少しだけ優しい目になる。
「でもさ」
「うん」
「朝倉、今の反応って、隠したい人の反応であると同時に、触れられたくない場所に触れられた人の反応でもあるよ」
「……」
「完全にどうでもよかったら、そんな必死に止めない」
その言葉に、澪は何も返せなかった。
その通りだと思ってしまったからだ。
夜になってログインしても、ノアはどこか落ち着かなかった。
アステリオの光はいつも通りきれいなのに、胸の内側だけがざらついている。
共通通話へ入ると、今日はフレアもセレスもいた。
ピピの明るい声もある。
そのにぎやかさに少しだけ救われる。
『ノア、こんばんは!』
ピピが弾ける。
『こんばんは』
『こんばんは、ノアさん』
セレス。
『来たわね』
フレア。
『こんばんは』
そして最後に、アークの声。
その声を聞いた瞬間、昼間の会話がまた蘇る。
たまに、ノアっぽい時あるよな。
別の誰か思い出しそうになる。
『ノア?』
アークが少しだけ不思議そうに呼ぶ。
『どうした』
『……何でもない』
『その感じ、最近多い』
軽い調子なのに、やっぱり鋭い。
『アーク』
ノアは少し迷ってから言った。
『何』
『……名前を重ねないで』
一瞬、通話の向こうが静かになった。
『え』
アークの声だけが返る。
しまった、と思う。
今のは言い方が悪い。
でも、一度口から出たものはもう戻らない。
『ごめん』
ノアはすぐに続ける。
『何でもない』
『いや、何でもなくないだろ』
アークの声が少しだけ低くなる。
『誰と』
『……』
『ノア』
『今は聞かないで』
そう言ってしまった時点で、何かを隠していると認めたようなものだと自分でもわかった。
でも、今のノアにはそれ以上が無理だった。
フレアが静かに割って入る。
『アーク、そのへんにしなさい』
『でも』
『今は引く時』
短い言葉だったが、それで十分だった。
アークはしばらく黙って、それから小さく息を吐く。
『……わかった』
ノアはその一言に、少しだけ救われて、同時にもっと苦しくなる。
わかってほしいのに、
今はわからないでほしい。
その矛盾が、夜も現実も関係なく、自分の中を裂いていく。
その晩の周回は、表面上はいつも通りに終わった。
ノアは必要な術式を出し、アークは前線を支え、フレアは火力を通し、セレスはやさしく全体を整え、ピピがにぎやかに場を回す。
誰が見ても、うまく噛み合ったパーティだ。
でも、ノアの胸の奥だけには、昼から続く言葉がずっと残っていた。
名前を重ねないで。
そう言ったのは自分だ。
でも本当は、その重なりが完全に消えてしまうことも怖い。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドの上で膝を抱えた。
静かな部屋。
カーテン越しの街灯。
遠くの車の音。
自分は何をしたいのだろう、とまた思う。
隠したい。
でも、いつかは気づいてほしい。
ただ、その“いつか”が今ではないだけだ。
名前を重ねられるのは怖い。
でも、夜の名前と現実の名前がいつまでも別のままなのも、もう限界に近い。
澪は小さく息を吐いて、枕へ額を押しつけた。
このまま二つの名前を守ることは、たぶんもうできない。
でも、壊し方をまだ自分で選べない。
その苦しさだけが、今夜はやけにはっきりと胸の中に残っていた。




