第3章 第8話:同じ優しさ、同じ癖
その夜、ノアはログインしてからしばらく、中央広場の端で立ち止まっていた。
アステリオの夜は今日も静かにきらめいている。白い塔の窓に灯る青白い光、石畳の上を流れる淡い術式、噴水の飛沫に混ざる演奏エモートの旋律。いつもと同じ景色のはずなのに、今夜は何かが少しだけ違って見えた。
昼間、朔に言われた言葉のせいだ。
――誰にでもじゃないと思う。
――澪は昔から別だろ。
あれは恋ではないのかもしれない。
でも、少なくとも“同じじゃない”という線はたしかに引かれていた。
その熱がまだ残っているまま、ノアとしてアークに会う。
そのこと自体が少し怖い。
『ノア』
個別回線が開いて、低い声が落ちる。
『来た?』
「来た」
『よかった』
その一言で、胸の奥が少しだけ熱くなる。
やっぱり、ずるいと思う。
「みんなは?」
『フレアとピピは先に中層周回入ってる。セレスは少し遅れるって』
「じゃあ今は?」
『ほぼ二人』
あまりにもあっさり言われて、ノアは一瞬だけ言葉を失う。
『嫌なら合流待つけど』
アークが続ける。
『……嫌じゃない』
『ならよかった』
断る理由はいくらでもあったはずだ。
でも結局、断りたくない。
それが今の自分だ。
転送された先は、《鏡砂峡谷》だった。
夜色の砂が一面に広がる、裂け目だらけの深い峡谷。砂粒の一部が結晶化していて、風が吹くたびに淡い光を返す。高低差のある岩場、細い吊り橋、谷底を流れる黒い水。見通しはいいのに錯覚を起こしやすく、足場も安定しない。
「ここ、前より風強い」
ノアがローブの裾を押さえながら言う。
「深夜帯補正かな」
アークが前方を見ながら返す。
「その岩、滑るから気をつけろよ」
「……それ、今の私に言う?」
「何で」
「昔、朔が同じ言い方した」
言ってから、しまったと思う。
アークは少しだけ足を止めた。
「え」
「いや」
ノアは慌てて視線を逸らす。
「何でもない」
『何でもない』で済ませるには、今のはあまりに具体的すぎた。
けれどアークは深くは追及しなかった。
ただ、少しだけ不思議そうな顔をして、それから歩き出す。
「とりあえず、今日は外周だけでいいんだよな」
「うん」
ノアも何事もなかったように続ける。
「東側の橋、落ちやすいって聞いた」
「じゃあ最初そこ見るか」
二人で進む峡谷は、風の音がよく響いた。
砂がさらさらと足元を流れ、谷底の水音が遠くで混じる。時折、黒い鳥型モンスターが岩陰から飛び立ち、そのたびにノアが術式を飛ばし、アークが一撃で落とす。
息が合う。
以前よりずっと自然に。
「右から来る」
「見えた」
「二段目ある」
「任せる」
「もう出してる」
短い言葉だけで十分だった。
戦闘後、アークが剣を払う。
「やっぱノアいると楽」
「またそれ」
「本当だから」
「その理屈、最近万能すぎない?」
「万能だろ」
アークは少し笑う。
「実際、ノアの補助ないと細い足場だとやりづらいし」
その言い方が、どこか昼間の朔に似ている気がして、ノアは少しだけ黙る。
「どうした」
「……別に」
「その“別に”は信用ならない」
はっとして、ノアは顔を上げた。
その言い回し。
つい数時間前、現実の朔にほとんど同じことを言われたばかりだった。
アークはそんなこと知るはずがない。
なのに、同じ優しさ、同じ踏み込み方で、同じようにこちらのごまかしを見抜いてくる。
「ノア?」
アークが首を傾げる。
「今、何か変だった?」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
ノアはうまく説明できなかった。
説明できるわけがない。現実のあなたと似てる、なんて。
「何でもない」
結局そう返すしかない。
「ほんとか?」
「ほんと」
「嘘だな」
即答で、ノアは一瞬だけ息を止めた。
嘘だな。
その断定の仕方まで、妙に既視感がある。
アークはたぶん無意識だ。だからこそ余計に怖い。
峡谷の東橋へ差しかかったところで、足場が大きく揺れた。
風が強くなり、細い吊り橋が軋む。
「待って」
ノアがとっさに言う。
「そのまま行かないで」
「ん?」
「真ん中、切れてる」
アークはすぐに足を止めた。
「見えてる?」
「風の揺れで一瞬だけ」
「了解。じゃあ先、どう通す?」
「左側のロープ寄り。私が補助出すから」
「うん」
そのやり取りも自然だった。
アークはノアの言葉を疑わない。ノアはそれを当然みたいに受け止めている。
その信頼関係の形が、今はひどく鮮やかに見える。
橋を渡り切った先の岩棚は、風が少し弱くて、簡単な休憩を取るにはちょうどよかった。
二人は岩壁を背にして腰を下ろす。足元では夜色の砂が風に流され、遠くの谷底に細い光の筋が見えた。
「ノア」
アークが静かに呼ぶ。
「何」
「さっきから、何回かある」
「何が」
「俺の言い方とか、動きとかに反応してる時」
ノアの心臓がひとつ大きく打つ。
見抜かれている。
全部じゃないにせよ、何か違うことには気づかれている。
「気のせい」
とっさにそう返す。
「そうかな」
アークは少しだけ眉を寄せた。
「何か、たまにノア見てると」
「……」
「別の誰か思い出しそうになる」
その言葉に、背筋がひやりとした。
危ない。
たぶん今、いちばん聞きたくなくて、でもどこかでいつか聞きたかった言葉だ。
「誰」
喉の奥が少し硬い。
「いや、まだわかんない」
アークは首を振る。
「でも今の『別に』の言い方とか」
ノアの指先がわずかに震える。
「何か、聞いたことある感じした」
「……そんなの、よくあるでしょ」
「そうかも」
アークはそこで無理に押さなかった。
「ただ、少しだけ引っかかった」
ノアは視線を落とした。
隠したい。
でも、気づいてほしい気持ちもある。
その矛盾が、今夜はいっそう鋭い。
現実の朔と、夜のアーク。
同じ人を、別の名前で呼んでいる。
それなのに、こちらだけが二つに分かれている。
「……気のせいでいいよ」
ノアは小さく言う。
「今は」
アークが少しだけ目を細める。
「今は、か」
「そこ拾わないで」
「いや、拾うだろ」
その返しに、ノアはほとんど反射で言った。
「そういうとこ、ほんと変わらない」
言った瞬間、空気が止まった。
アークの表情が、わずかに変わる。
「変わらない?」
静かな声だった。
「……ごめん」
ノアはすぐに言い直す。
「言い方、おかしかった」
「いや」
アークはまだこちらを見ている。
「今の、誰に向けて言った?」
答えられなかった。
そんなの、自分でもわからない。
今、見ていたのはアークだったのか、朔だったのか。
たぶん両方だ。
だからこそ危うい。
沈黙が落ちる。
風の音だけが、二人の間をすり抜けていく。
その時、共通通話にフレアの接続音が入った。
続いてピピの元気な声も重なる。
『合流できる?』
フレアが簡潔に言う。
『今どこですかー?』
ピピが続く。
その気配に、ノアはほとんど救われるように息をついた。
「……東橋の先」
アークが答える。
『じゃあすぐ行くわ』
『追いつきまーす!』
二人きりの空気は、そこでいったんほどけた。
でも、さっきの言葉はたしかに残っている。
誰に向けて言った?
その問いへの答えを、ノアはまだ自分でも持てない。
合流後の探索では、ノアはいつもより少しだけ静かだった。
フレアは一度だけこちらを見たが何も言わず、ピピは最初こそ「どうしたんですか?」と首を傾げたものの、アークに軽く流されてそれ以上は聞かなかった。
ただ、アークだけは時々こちらを見ていた。
問い詰めるようではなく、でも確かめるみたいに。
ログアウトして現実へ戻ったあと、澪はベッドの端に座ったまましばらく動けなかった。
部屋は静かだった。
現実の夜は、VRよりずっとはっきりしている。
逃げ場がない、と思う。
「……最悪」
小さく呟く。
でも、それだけでは足りない。
アークの優しさが朔に似ていた。
朔の気遣いがアークと重なった。
その重なりに、嬉しさより先にひやりとしたものを感じた。
隠したい。
でもどこかで、気づいてほしいとも思っている。
その矛盾が、自分の中でどんどん大きくなっていく。
正体を知られるのは怖い。
でも、夜の名前のまま届かないことにも、もう耐えきれなくなり始めている。
同じ優しさ、同じ癖。
それは偶然ではなく、たぶんもう限界が近いということなのだろう。
澪は両手で顔を覆い、ゆっくり息を吐いた。
このまま二つの名前を分けたまま進めば、いつかどこかで必ず歪む。
その予感だけが、今夜ははっきりと胸の奥に残っていた。




