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星を隠さぬ君の隣で  作者: 最後に残った形


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第3章 第7話:無意識の特別


 朝から、なんとなく身体が重かった。


 熱があるわけじゃない。

 咳もないし、立っていられないほどだるいわけでもない。

 ただ、目を開けた瞬間から、身体の芯に薄い鉛みたいなものが残っている感じがした。


 昨夜は遅くまでログインしていた。

 寝不足といえば寝不足だし、最近ずっと感情の上下も大きい。そう考えれば、理由はいくらでもある。


 洗面台の鏡の前で、澪は自分の顔をじっと見た。

 ひどく悪い顔色ではない。

 でも、少しだけ白い。


「……だいじょうぶ」


 小さく呟いてみる。

 説得力はなかったけれど、休むほどでもないと思いたかった。


 学校へ着いて、教室の席に座った頃には、頭が少しだけ重くなっていた。

 窓の外は明るいのに、視界の端がわずかに霞んで見える。周囲のざわめきもいつもより遠い。


「朝倉」

 隣から夏希が顔を覗き込む。

「大丈夫?」

「……何が」

「顔色」

 澪は反射で「平気」と言いかけて、やめた。

 たぶん、平気な顔はしていない。


「ちょっと寝不足かも」

「それだけ?」

「たぶん」

 夏希は少しだけ眉を寄せる。

「無理そうなら保健室行きな」

「そこまでじゃない」

「朝倉の“そこまでじゃない”あんまり信用ならないんだよね」

 言い返せなくて、澪は小さく息を吐いた。


 ホームルームが始まる少し前、教室の後ろ扉が開いた。

 朔が入ってくる。


 いつも通りの顔。

 友達に何か言われて少し笑って、それから自分の席へ向かう途中で、ふとこちらを見た。


 目が合う。


 その瞬間、朔の顔から笑いが少しだけ消えた。

 ほんの一瞬。

 でもたしかに、何かを見つけた目だった。


 澪が視線を逸らすより先に、朔は迷いなくこちらへ歩いてくる。


「澪」

 机の横で立ち止まる。

「え」

「顔、どうした」

「どうしたって」

「白い」

 あまりに即答で、澪は少しだけ息を呑んだ。


「大丈夫だよ」

「大丈夫そうに見えない」

 朔は迷いなく言う。

 その声は大きくないのに、妙にまっすぐだった。


「寝不足なだけ」

「熱ある?」

「ない」

「ほんとに?」

「ほんと」

 そこで、朔は少しだけ身をかがめた。

 額へ手を当てるとか、そういう直接的なことはしない。ただ距離が少しだけ近くなって、澪の顔色をちゃんと見る。


 その視線だけで、胸の奥が熱くなる。

 体調の悪さとは別の熱だ。


「……無理すんなよ」

 低い声でそう言って、朔はようやく少し離れた。

「やばそうなら言え」

「うん」

「ほんとに」

「うん」


 それだけで席へ戻っていく背中を、澪はしばらく見てしまった。


 放っておけないのだ。

 昔から。

 たぶん、ずっと。


 でもそれが“誰にでも向ける優しさ”なのか、自分にだけ少し深いものなのかは、まだわからない。

 わからないから、期待するのが怖い。


 一限目の授業が始まってしばらくすると、やっぱり少しきつかった。

 板書の文字は追える。内容も入ってくる。けれど頭の奥で鈍い重さがじわじわ広がっている。


 途中、ノートを取る手が少し止まった瞬間、前の席から小さく紙が回ってきた。

 開くと、短い文字。


『保健室行け』


 見慣れた、少し雑な字だった。


 澪は思わず顔を上げる。

 前方で、朔が振り向かないまま座っている。肩越しに見える横顔は授業を受けているふうなのに、こういう時だけ妙に抜け目がない。


 澪は小さく首を振って、紙の端に『平気』とだけ書いて返した。


 数分後、また紙が戻ってくる。


『全然信用できない』


 その一言に、こんな時なのに少しだけ笑いそうになった。

 でも、その笑いそうになる感覚が、逆に胸を締めつける。


 どうしてこんなに、ちゃんと見ているのだろう。


 二限目の休み時間になると、朔はもう迷わなかった。


「行くぞ」

 澪の机の横に来て、そう言う。

「何が」

「保健室」

「だから大丈夫」

「大丈夫じゃない」

 即答だった。


「いや、ほんとにそこまでじゃ」

「歩ける?」

「歩けるけど」

「じゃあ行けるな」

「論理が雑」

「今はそれでいい」


 そう言って、半ば当然みたいに鞄からハンカチを引っ張り出し、机の上に置いていた水筒まで澪のほうへ寄せる。

 その動きに一切ためらいがない。


 教室の何人かがこちらを見ていた。

 それも当然だと思う。

 朔のこういう動きは目立つ。


「神谷」

 澪は小さく言う。

「……ちょっと見られてる」

「見られてるな」

「平気?」

「何が」

「何がって」

「今それ気にするの、澪だけだろ」

 そう言われると返せない。


 たしかに、朔は周囲の視線より先に澪の顔色を見ている。

 それが嬉しくて、でも怖い。


「朝倉、行っといで」

 夏希が後ろから言う。

「今日の顔ほんとやばいし」

「夏希まで」

「神谷に賛成」

 そこまで味方されると、さすがに抵抗しきれなかった。


 結局、澪は朔に半ば押し切られる形で保健室へ向かうことになった。


 廊下を歩く間も、朔は少し歩幅をゆるめている。

 隣にいるというより、ちゃんと様子を見られている感じがする。その視線の近さに、具合の悪さとは違う意味で落ち着かない。


「そんなにひどい?」

 澪が小さく聞く。

「ひどいっていうか」

 朔は少し考えるように黙ってから言った。

「朝からおかしかった」

「朝から?」

「うん。挨拶した時点で」

 そんなに早く気づいていたのかと、澪は少しだけ目を見開く。


「わかるもん?」

「わかるだろ」

 朔は不思議そうに返す。

「澪だし」

 その一言が、胸のいちばんやわらかいところへ落ちる。


 澪だし。

 それは理由になっているようで、全然説明になっていない。

 でも、説明になっていないからこそ、余計にずるい。


 保健室では微熱手前の疲労反応だろうと言われた。

 寝不足と疲れの重なり。大事を取って少し休めば戻ってもいいし、そのまま早退でもいい。先生はそう言った。


 ベッドに腰を下ろすと、ようやく少しだけ身体の力が抜ける。

 朔は扉のところで立ったまま、先生の話を聞いていた。


「で、どうする?」

 先生が澪に聞く。

「少し休んで、いけそうなら戻ります」

「無理そうならすぐ言うこと」

「はい」

「神谷くん」

 先生が朔を見る。

「あなたはもう戻っていいよ」

「……わかりました」

 そう言いながらも、朔はすぐには動かなかった。


 先生が保健室の奥へ引っ込んだあと、ようやく小さく息を吐く。


「ほんとに平気?」

 またそれだ。

 でも、その“また”が嫌じゃない。


「少し休めばたぶん」

「無理なら帰れよ」

「授業あるし」

「それより体調だろ」

 呆れたみたいに言う顔が、妙にやさしい。


 澪は白いシーツの端を指でつまみながら、小さく息を吐いた。


「……ありがと」

「何が」

「連れてきてくれて」

 朔は少しだけ目を丸くして、それからいつもの少し困ったみたいな笑い方をした。

「いや、放っとけなかっただけ」

 その言葉が、ひどく自然で、そしてひどく重い。


 放っとけなかった。

 きっと、昔からずっとそうだったのだろう。

 でも今の澪には、その“昔から”が一番危ない。


「朔ってさ」

 気づけば、澪はそう口にしていた。

「何」

「誰にでもそういう感じなの」

 言ってから、しまったと思う。

 体調が悪い時に聞くことではないし、聞き方も少し卑怯だ。


 でも朔はすぐには怒らなかった。

 少しだけ考えるように黙って、それから静かに言う。


「誰にでもではない、と思う」

 澪の呼吸が一瞬だけ止まる。


「……思う?」

「自信はない」

 朔は苦笑した。

「でも、少なくとも澪は昔から別だろ」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。

 期待してしまう。

 でも、まだその先は聞けない。


「別って、どういう」

「どういうって」

 朔は困ったように眉を寄せる。

「放っといたらだめなやつ、みたいな」

「ひどい」

「いや、事実だろ」

「そんなことない」

「ある」

 言い切られて、澪は何も返せなかった。


 そこへ先生が戻ってきて、会話は自然に終わった。

 朔はようやく保健室を出ていく。

 でも去り際に、ちゃんとこちらを振り向いた。


「戻るなら連絡しろよ」

「連絡?」

「教室戻るか帰るか」

「何で」

「気になるから」

 あまりにもまっすぐで、澪はもう何も言えなかった。

「……うん」

 それだけ返すと、朔は小さく頷いて出ていった。


 保健室の天井を見上げながら、澪はしばらく動けなかった。


 具合が悪い。

 でも、それ以上に胸の奥が熱い。


 誰にでもではないと思う。

 澪は昔から別だろ。

 放っといたらだめなやつ。


 それは恋ではないのかもしれない。

 幼馴染としての延長なのかもしれない。

 でも、少なくとも“誰とでも同じ”ではない。


 その事実だけで、心がどうしようもなく揺れる。


 午後の授業が始まる頃には、澪は少しだけ回復していた。

 無理はしないと約束して教室へ戻ると、夏希が真っ先に顔を上げる。


「どうだった」

「……ちょっと休んだら平気」

「そこじゃなくて」

 小声で言われて、澪は少しだけ黙った。


「朔が」

「うん」

「放っとけなかったって」

 夏希の目が少しだけ細くなる。

「へえ」

「あと」

「あと?」

「誰にでもじゃないと思うって」

 そこまで言うと、夏希は数秒黙った。

 それから、やや大きめのため息をつく。


「神谷、無自覚でやってるならほんと厄介」

「……だよね」

「でも」

 夏希は少しだけ笑う。

「それ、かなり大きいと思うよ」

 澪は返事をしなかった。


 大きい。

 そうかもしれない。

 そう思ってしまう自分が、もうかなり危うい。


 放課後、交流デーの準備連絡が共有される頃には、体調はほとんど元に戻っていた。

 けれど心のほうは、朝よりずっと落ち着かない。


 凛花も、

 由良も、

 ひなも、

 きっと朔へ近づこうとしている。


 その中で、朔が無意識のまま澪だけを少し深く見ているのだとしたら。

 それは希望になる。

 でも同時に、期待しすぎれば壊れる種類の希望でもある。


 家へ帰る途中、夕方の風は少しだけやさしかった。


 澪は空を見上げて、小さく息を吐く。


 無意識の特別。

 たぶん、今の朔が澪へ向けているものは、まさにそれなのだろう。

 恋と呼ぶにはまだ早い。

 でも、誰にでも同じ優しさではない。


 その違いがわかってしまったからこそ、

 もう“幼馴染だから”だけで自分を納得させることはできなかった。

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