第3章 第6話:言える子、言えない私
その日の昼休み、教室の空気はやけに明るかった。
交流デーの話題が広がっているせいだろう。机を寄せて役割分担の相談をする声、学内配信で何をやるのかと盛り上がる声、端末でイベントページを見せ合う声。いつもの昼休みより少しだけ熱があって、その中心に、やっぱり朔がいた。
「神谷先輩、交流デーって配信のほう出るんですか?」
ひなの声は、いつもよく通る。
明るくて、迷いがなくて、その場の空気を一段軽くするような声だ。
「まだ確定じゃないけど、たぶん補助で何かやる」
朔が答える。
「えー、じゃあ先輩いるなら絶対見に行きます」
「見に行くっていうか、おまえも参加側だろ」
「それはそれです!」
ひながけらけら笑う。
「でも神谷先輩いると、単純にテンション上がるじゃないですか」
「そういう雑に持ち上げるやつやめろって」
「雑じゃないですー。ちゃんとかっこいいと思って言ってます」
その言葉が、あまりにも自然に口から出ることに、澪は少しだけ息を詰めた。
言えるのだ。
ひなは、そういうことを。
冗談みたいに軽くして、
でもちゃんと好意が伝わるかたちで、
相手が受け取りやすい温度のまま。
澪にはそれができない。
好きだと思うだけで胸がいっぱいになるくせに、その好きの輪郭を少しも口へ出せない。
「朝倉」
横から夏希が小さく肘でつついてくる。
「今、比べたでしょ」
「……」
「図星か」
「うるさい」
「でもあれはきついね」
夏希はパンの袋を開きながら、ひなと朔のほうをちらっと見る。
「ひなちゃん、ああいうの強いもん」
「強い」
澪は思わず頷いていた。
ひなは凛花みたいに圧をかけてくるわけじゃない。
由良みたいに静かに距離を詰めるわけでもない。
もっと明るくて、まっすぐで、だからこそ厄介だ。
好意を隠さない。
好意を武器だとも思っていない。
好きなら好きでいいじゃないですか、と本気で言えてしまう子。
そのまっすぐさが、今の澪にはひどく眩しかった。
昼休みの終わり際、澪がゴミを捨てに廊下へ出ると、ちょうど自販機の前にひながいた。
缶ジュースを取り出しているところで、こちらに気づくとぱっと笑う。
「あ、朝倉先輩」
「……ひな」
「これ、どっちがいいと思います?」
そう言って、オレンジソーダとレモンスカッシュを両手に掲げる。
「いや、知らないけど」
「直感で!」
「……レモン」
「やっぱりそうですよね!」
何がやっぱりなのかはよくわからないが、ひなは満足そうに頷いた。
こういう軽さも、澪には少し羨ましい。
人との距離の入り口がとにかく自然なのだ。
「朝倉先輩、交流デー出るんですよね?」
ひなが缶を開けながら訊く。
「うん、一応」
「やった」
「やった?」
「だって神谷先輩も出るし、朝倉先輩も出るし、面白くなりそうじゃないですか」
その言い方に、澪は少しだけ眉を寄せる。
「面白くって何」
「えー、だって」
ひなは少しだけ首を傾げて、それからまっすぐ言った。
「最近、朝倉先輩ちゃんと神谷先輩のほう行ってる感じあるじゃないですか」
澪の心臓がひとつ跳ねる。
「……そんなにわかる?」
「わかりますよ」
ひなはあっさり言った。
「前よりちゃんと話してるし、避けなくなったし」
「避けてたわけじゃ」
「でも距離あったです」
言い切られて、反論できなかった。
そうかもしれない。
少なくとも、今の自分から見れば。
近づきたいくせに、怖くて引いてしまうことばかりだったから。
「いいことだと思います」
ひなは屈託なく笑う。
「好きな人の近くには、行ける時に行ったほうがいいですし」
澪は一瞬、言葉を失った。
好きな人。
ひなはそれを、まるで「今日天気いいですね」と同じくらい自然に口にする。
「……ひなって、すごいね」
「何がです?」
「そういうこと、普通に言えるの」
「え?」
きょとんと目を瞬かせてから、ひなはすぐに笑った。
「好きなら好きでいいじゃないですか」
その言葉が、あまりにも真っ直ぐで、澪の胸の奥へまともに刺さる。
好きなら好きでいい。
そんなに簡単なら、こんなに苦しくない。
でも、きっとひなにとっては本当にそうなのだろう。
好きなものは好き。会いたい人には会いたい。近づきたいなら近づく。
そうやってまっすぐ行ける人なのだ。
「言わないともったいなくないですか?」
ひなが続ける。
「もったいない?」
「はい。だって、好きなのに黙ってたら、相手には何も伝わらないし」
レモンスカッシュの缶を軽く振りながら、ひなは本当に不思議そうに言う。
「それで誰かに取られたら、絶対嫌じゃないですか」
嫌だ。
その一言が、喉の奥まで上がりかける。
嫌に決まっている。
だからこんなに焦っているのだ。
でも、その嫌をそのまま言葉にできない自分もいる。
「朝倉先輩」
ひながふと少しだけ真面目な顔になる。
「好きなら、言ったほうがいいですよ」
澪は目を伏せた。
「……簡単に言うね」
「簡単じゃないのは知ってます」
ひなはすぐ返した。
「でも、言わないまましんどいなら、そっちのほうが大変じゃないですか?」
それもまた、正しい。
正しいからこそ痛い。
「私」
ひなは少し照れたように笑う。
「好きな人には、好きって言わなきゃもったいないって思うタイプなんです」
まぶしい、と思った。
こんなふうに言える子がいる。
好きという感情を、隠すべきものじゃなく、ちゃんと相手へ向けるべきものだと思える子が。
その強さが、今の澪にはあまりにも遠い。
教室へ戻る途中、澪はひなの言葉を何度も頭の中で反芻していた。
好きなら、言ったほうがいい。
言わないともったいない。
誰かに取られたら絶対嫌。
どれも正しい。
でも、自分にはまだ遠い。
遠いのに、遠いままではいられないことだけは、もうわかっている。
放課後、交流デーの準備班の簡単な打ち合わせがあった。
教室をひとつ使って、担当の割り振りや進行確認をするだけの短いものだったが、その中でも朔はよく動いた。端末を使って資料を回し、先生の説明を補足し、困っている人がいればすぐに声をかける。
そんな様子を見ながら、澪はあらためて思う。
やっぱり、こういうところが好きなのだと。
終わり際、ひなが遠慮なく朔へ近づいた。
「神谷先輩、当日わたし配信補助側入れたら、先輩の近く行けます?」
「仕事しろ」
朔が即答する。
「しますよ! その上でです!」
「その上で、って何だよ」
「だって近くのほうが安心するじゃないですか」
ひなはけろっと言う。
「先輩いると楽しいし」
教室のあちこちから、小さな笑いが起きた。
冗談として受け流せる温度。
でも、冗談だけでもないとわかる温度。
その絶妙さが、やっぱり強い。
「ひな」
先生が少しだけ呆れたように名前を呼ぶ。
「神谷を困らせるな」
「困らせてないですー」
「ちょっと困ってる」
朔が苦笑する。
でも本気で嫌がってはいない。そのことまで、澪にはちゃんと見えてしまう。
見えてしまうから苦しい。
そして、言えるひなが少し羨ましい。
打ち合わせが終わって、人がばらけ始めた教室で、ひなが突然こちらへ振り向いた。
「朝倉先輩」
「え」
「先輩ももっと行ったほうがいいですよ」
あまりにもあけすけで、澪は一瞬声を失う。
「……何を」
「神谷先輩のとこ」
ひなは本当に悪びれない。
「好きな人には、好きって言わなきゃもったいないです」
教室にまだ数人残っているせいで、余計に心臓がうるさくなった。
「ひな」
澪は思わず低い声を出す。
「しーっ」
ひなが慌てて口元へ指を立てる。
「でもほんとです」
「……」
「朝倉先輩、優しいから、見てるだけで我慢しそうだし」
その言葉が痛い。
痛いほど、当たっている。
「でも、それで取られたら絶対後悔しますよ」
ひなの瞳はまっすぐだった。
「だったら、ちょっとくらい恥ずかしくても行ったほうがいいです」
澪は何も言えなかった。
恥ずかしい。
怖い。
壊れるのも嫌だ。
でも、後悔したくない。
その全部が胸の中でぶつかり合っている。
「ひな」
今度は朔が少し遠くから呼んだ。
「先生、プリント残ってる」
「あ、ほんとだ!」
ひなはそちらを振り向き、それから澪へ向かって小さく笑う。
「また言いますね」
「やめて」
「やめません」
そう言って、軽やかに走っていく。
ああいうふうに、言える。
思ったことをそのまま、悪意なく、でもちゃんと熱を持たせて。
自分にはない強さだった。
その夜、ノアとしてログインしても、ひなの言葉は頭から離れなかった。
好きな人には、好きって言わなきゃもったいない。
ノアなら少し近づける。
でも、それだけでは足りない。
その答えを、今日もまた別の形で突きつけられた気がした。
アステリオの夜は静かで、昼間よりずっとやさしい。
でも今夜のノアは、少しだけ呼吸が浅かった。
『ノア?』
アークの声が近く落ちる。
『どうした』
『……何でもない』
『そういう時、大体何かある』
その言い方に、澪は少しだけ苦笑した。
現実では言えない。
夜の名前でも、まだ全部は言えない。
でも、ひなの言葉は確かに胸へ残っている。
言える子は強い。
言えない私は、そのぶん何か別の形で近づかなければいけない。
そう思いながらも、好きというたった二文字の重さに、今夜の澪はまだ真正面から触れられずにいた。




